4月1日付で早大名誉教授に
私事になるが、先週の木曜日、6月20日に「名誉教授称号贈呈式」が開催され、総長から「名誉教授記」を授与された。1915年(大正4年)の坪内逍遥が第1号だそうで、私は1328号になる。大学に入学してから52年、1996年に早大教授となってから28年、3月末で定年退職したが、その翌日の4月1日付で名誉教授となったわけである。27年前に「早稲田大学 水島朝穂のホームページ」という青色の見出しを掲げたが、名誉教授となったので、今後ともこれは維持することにしたい。なお、冒頭右の写真は、6月4日に人間ドックのため、長年使ってきた大学近くのクリニックを訪れた際に撮影したものである。大隈講堂の珍しい光景だったので、ここに掲げておく。
西原春夫元総長に続いて、奥島孝康元総長が逝去
国内外で大きな事件が続くし、それについてコメントしたいのは山々だが、家庭の事情もあって、今回は雑談シリーズをアップする。前回の雑談は「音楽よもやま話(34)」で、指揮者・小澤征爾について書いた。今回は現役時代にいろいろと思い出のある方々のうち、5月1日に85歳で亡くなった奥島孝康・元総長について書いておくことにしよう(大学の訃報欄)。個人的には奥島先生と呼んできたが、西原春夫・元総長について書いたときに「西原さん」としたので、それにならって奥島さんと書かせていただく。
奥島さんは商法研究者だが、学内外で実に幅広い活動をされてきた。それについては、ネットで検索すれば、役職を含めて大変な活躍の様子が出てくる。90年代前半の法学部長時代、カリキュラム改革と大胆な教員人事を行って、全国の大学で活躍する第一線の研究者を大量に採用した。私もその一人だった。94年に第14代総長となり、96年4月、辞令伝達式の時、私の手をグッと握って、「よくきたね。待っていたよ」と一言。魅力的な政治家の要素を十分にもっておられた。
総長になるや奥島さんは、それまで長期にわたって革マル派の資金源になっていた「早稲田祭」の中止を決定。革マルの拠点、第一学生会館を取り壊した。私が着任したのは、奥島総長と革マル派との熾烈な対決の最中だった。もしこの時、奥島さんが断固とした対応をとっていなかったら、早稲田は未だに革マル派の影響力が続いていただろう(詳しくは、直言「『彼は早稲田で死んだ』――早大川口君事件50年を前に」参照)。一般的な評伝などには出てこないが、奥島さんの功績と私は考えている。たまたま、先週の「名誉教授称号贈呈式」で挨拶をされた方も、早稲田祭委員として奥島さんのもとで大変なご苦労をされたと語っておられた。
1998年4月の大学院入学式
冒頭左の写真は、1998年4月2日、大隈講堂で行われた大学院入学式で祝辞を行った際、控室で撮影した写真である。前年に私は博士(法学、早稲田大学)の学位を授与されていたので、初めてアカデミックガウンを着て、学位章(フード)を付けた。早大では、博士(法学)が黄緑色、文学が銀灰色、理学が黄色等々、学位の種類は色で区別されている。笑っているが、緊張していた。当時、私は早大教授3年目の44歳。法学研究科委員長(当時)の宮坂富之助教授(故人)からは、「水島君、入学式の祝辞が法学研究科にまわってきた。これは宝くじにあたるよりすごいことなんだよ。しっかりやりなさい」といわれていた。年に1度の入学式で、多数ある研究科から1人だけ推薦されて祝辞を行う。いやがおうでも緊張する。宮坂教授は、「つまらない挨拶をしたら僕が承知しないよ」とプレッシャーをかけてきた。それでふっきれた。新入生に思い切って語りかけようと。それがこれである(「大学院入学式での祝辞」早稲田大学広報旬刊・Campus Now 2602 号〔1998年7月15日〕)。このなかで、「学問の旅」ということを話した。
「…教員の方が「先」に「生」まれ、たくさん研究を積んでおられますけれども、院生の方がすごい発見をすることも、とりわけ理系の場合、ままあることです。そのとき、教員の側が院生から学ぶわけです。講義をするとき、教員は教壇から学生に向かって話をしますが、そのとき、学問の旅をするという意味では、実は教員も学生と同じ方向を歩んでいるのです。学生の反応や、質問をきっかけに、思わぬ新しい論点を発見したりすることもあります。これを私は、「学問研究の前の平等」あるいは「真理の前の平等」と言っています。各研究科の先生方は、あなた方と「学問の旅」を一緒にしながら、あなた方の研究を導いてくれるわけです。そして職員の方たちは、そうしたあなた方の研究のサポートしてくれます。しかし、旅をするのはあなた方自身です。クールな理性と熱いハートを忘れずに、問題意識をもって、それぞれの専門分野の課題やテーマに取り組んでください。そして、「小さなものの大きな可能性」を見つけ出す知的営みに、皆さん自身が自分なりの方法で歩みだしていただきたいと思います。…」
団体交渉の現場で――学内託児所をつくる
2000年3月にドイツでの在外研究を終えて帰国すると、次年度の学部選出の教員組合執行委員になってしまった。しっかり研究できると思っていたので、うらみつらみをこの「直言」で書いている。しかも最も多忙な書記長になってしまった。でも、この組合での活動のなかで、しばしば奥島さんと正面から向き合う機会が増えて、実にいい経験をさせていただいたと思う。2002年正月の「直言」では、憲法や政治の問題ではなく、学内保育所をつくる要求や、埼玉県所沢市にある人間科学部の交通問題(バス増便など)等々、当時、組合の会議で課題となっていたことに字数を割いている。
書記長は団体交渉のときに正面に座り、全体の司会をする。正面の総長の横には人事担当常任理事、人事部長、総務部長などの大学幹部がズラリと並ぶ。私の横には白木三秀委員長(政経学部)をはじめ執行委員の面々が座り、背後で、傍聴する全学から集まった教員たちが見守る。毎回緊張する場面だったが、それを私が仕切ることになった。
団体交渉の場で、いまも忘れられない一瞬がある。それは2002年3月18日、春闘要求書を提出する第1回春闘団体交渉の場でのことだった。べースアップ要求から順番に私が説明をしていると、奥島さんは例によって目をつぶって聞いている(寝ている?)。ところが、学内に託児所をつくるという要求になったとき、目を見開き、私が説明し終わるや、「いい提案である。大賛成だ」という、まさに一発回答だった。さすがにこれには驚いた。
当時、私はNHKの人気番組「プロジェクトX」(いま、20年ぶりに復活しているが)になぞらえて、教員組合を「プロジェクト・ユニオン」と呼んでいた。早大全学部・両高等学院から執行委員として推薦された教員たちが、学内にあるさまざまな問題についてプロジェクトチームをつくって取り組んだ。直言「顔の見える選挙―早大総長選の試み」も、いまから見ればアナログだが、けっこう熱心に取り組んだ。何よりも思い出深いのは「託児所プロジェクト」だった。全国の大学にある学内託児所を調査した。ただ、22年も前の話である。「子どもを連れて満員電車で通勤して、学内保育所に預けるのか」といった疑問が職員組合にはあった。しかし、当時49歳だった私は、「大学は多様化しています。院生でも子どもをもっている人がいます。将来、私が老教授になって孫の世話を頼まれ、学内託児所に預けて講義を1コマやって帰るといったスタイルもあります」と述べている(02年の手帳のメモより)。
こうした経緯で作られた春闘要求書の託児所設置要求を説明する結びで、私は目をしっかり開けた奥島さんに向かって、「総長、いまや学内託児所を設けることは、大学の品位の問題です」と断言した(直言「大学に保育所をつくる」参照)。「品位」という言葉に、奥島さんの太い眉毛がピクリと動いた(と感じた)。予想もしない一発回答の翌月、「労使一体となったワーキンググループの立ち上げ」の回答があり、具体的な検討作業が始まった。第1回団交の場での一発回答は、私の見るところ、理事会での調整はまだ得られていなかったと思う(隣の人事担当常任理事の表情からそう判断した)。奥島さんの政治家的才能を改めて思った。なお、学内託児所は、その翌年、白井克彦総長のもとで実現している(直言「大学に保育所ができた」参照)。上記の写真は、開所式のテープカットの様子である。
奥島式大学改革への批判
直言「大学問題の「現場」から」でも書いたが、やはり同じ大学にいて、大学をよくしたいという思いは共通である。先月の退職者慰労会で高等学院の先生や、先週の「名誉教授称号贈呈式」の場で理工学部の先生から、22年前に「ご一緒に組合をやって楽しかった」という言葉をかけられて、奥島さんと団体交渉の場で正面から向き合ったときのことが懐かしく思い出された。自然な「愛校心」かもしれない。
甲斐駒ヶ岳のこと
奥島さんは登山が趣味で、甲斐駒ヶ岳や八ヶ岳など各地の山を登っていた。22年前に頂戴した著書『西北への旅人』には「甲斐駒還暦記念山行」が収められている。私の八ヶ岳南麓の仕事場からは甲斐駒が一望できるが、「還暦登山」のところを読みながら、奥島さんのパワーを改めて知った(写真は先月半ばに撮影したもの)。
そこで思い出すのは、早川弘道さんのことである。1998年、奥島さんの大学運営と真っ向から対峙して、同じ法学部から総長選に立候補している。2011年に63歳で在職死亡しているが、早川さんは甲斐駒の麓、白州町に仕事場をもっていた。ありえない空想だが、私の仕事場にお2人をお招きして、おでんでもつつきながら語り合えたら面白かったなと、いま思う。
奥島さんは、私の研究室を一度だけ訪れ、あふれる「歴史グッズ」を眺めて、「いつまでいてもあきないね。これは面白い。また来るよ」といった。すでに研究室はない。いずれも実現しなかったのが残念でならない。
奥島さん、ありがとうございました。どうぞ安らかにお眠りください。
《追記》7月31日、大隈講堂で開催された「奥島孝康先生お別れの会」に参列した。