定年退職直前に妻の癌が判明
4月にアップした雑談(143)は「大学教員のお仕事(その3・完)―「人生のVSOP」と「出会い」再論」では、退職直後で、頭の回転も日常生活も、現職の時の形と勢いを保っていたので、あのような文章となった。だが、妻の癌が判明して、この半年間の私の生活は激変した。今回の「雑談」は、この間の生活とそこで考えたこと、そして今後に向けて考えていることを書いてみたい。激動する国内外情勢のなかで論ずべき問題は多々あるが、前回に引き続き「雑談」となることをご了承いただきたい。なお、今回、妻の病気や病状についてかなり立ち入って言及することになったが、これには妻の了承を得ていることを申し添えたい。
1月19日に最終講義を終え、最後の「冬の祭典」(定期試験の答案の採点)も終えて、研究室にある書籍や「歴史グッズ」を撤収することになった。学部から提示された期限は3月26日である。2月は一般入試があり、2月5日から24日まで、全学ロックアウトとなって、教職員以外の入構は厳格に制限される。この間、学生や院生に片づけの手伝いを依頼することはできない。3月11日に業者に搬出を依頼して、それまでに梱包を完成させることにした。妻がグッズの片づけを手伝ってくれることになり、大学に特別入構証を発行してもらった。2月9日から3日間、妻が研究室の「歴史グッズ」の梱包作業をやってくれた。手榴弾や地雷も一つひとつ緩衝材で手際よく包んでいく。こわれやすい模型や提灯などは細心の注意を払ったと妻。東京→札幌→広島→東京など、過去9回の引越しで身につけた「技」だという。梱包した「グッズ」を入れた大小の段ボールの山が増えていった。2月16日から大学院生2人に手伝ってもらって、書籍の梱包を行った。200箱近くになった。3月11日に業者が来て研究室撤収を完了し、早稲田大学に別れを告げた。
だが、すでに妻の身体に異変が起きていた。そのことを憲法記念日の「直言」で抽象的にこう書いた。「…定年退職を目前にした3月、妻に病気が見つかり、生活が大きく変わった。今年は講演依頼がなかったので、5月3日は、いったん退院して自宅療養となった妻と自宅で過ごした。…」(直言「憲法記念日に朝ドラ『虎に翼』を見る」と。
妻の異変の原因がようやく分かる
個人的なことを書くが、私の「終活」は2019年から始まっていた(直言「雑談(119)「断捨離」と「終活」」)。60年近く住んだ旧宅を壊して、母と私たち夫婦、娘夫婦と孫たちの「4世代住宅」を建てる計画を進めた。妻のアイデアだった。旧宅の書庫にあった書物も大量に処分した。コロナ禍の仮住まいを経て、2022年6月に新居に引っ越した。2023年11月に妻が体調を崩して、さまざまな病院で、さまざまな検査をやった。何が原因なのかはっきりしなかった。3月6日、武蔵野日赤病院で検査をしたところ、膀胱癌の可能性ありということだった。愕然となった。妻は、膀胱癌のさまざまなリスクファクター(飲酒、喫煙、化学物質等々)のいずれもあてはまらないが、体の弱い部分に癌が存在していたのだろうか。妻は、大好きな小学校講師の仕事を3月で辞めた。専任時代を含めると、通算35年の教員生活だった。
4月7日から11日まで同病院に入院して手術をしたが、担当医から筋層浸潤性膀胱癌のステージ2Aと診断された。6月25日に膀胱全摘手術をやることになり、術前の抗癌剤治療のため、4月と5月に9日間ずつ、2回にわたって入院した。
さまざまな病院をまわって、さまざまな検査をやって最終的に癌ということになり、なぜ、もっと早くわからなかったのかと悔しかった。ネットで見つけた竹原慎二(プロボクサー)『見落とされた癌』(双葉社、2017年)も読んで、いちいち頷いた。妻には、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「オプジーボ」治療を始める
6月25日に膀胱全摘手術をやった。当日、娘と待機室で10時間過ごした。娘には、「こんなに長く父ちゃんと一緒にいたのは、ボン以来だね」といわれて苦笑した。計22日間入院して、7月15日に退院して自宅療養となった。
生検の結果、摘出した膀胱の脂肪組織に癌が浸潤していて、ステージ3Bと診断された。再発・転移の可能性がある進行癌ということで、「補助療法」として、1年間、「オプジーボ」(ニボルマブ)という「免疫チェックポイント阻害剤」を使った免疫治療をすることになった(2022年から保険適用)。最初の投与のため、8月4日に5度目の入院をした。2回目以降の免疫治療は外来でやることになった(先週が3回目だった)。
実は、当初、私はこの治療に反対だった。親戚や妻の友人は「やるべきだ」という意見が強かった。この薬は、従来の抗癌剤と異なり、癌細胞を直接攻撃するのでなく、免疫細胞に癌細胞を攻撃できる力を持たせる薬とされる。そのため、オプジーボで強くなった免疫細胞が、元気な臓器を攻撃してしまうことがあるらしい。「免疫チェックポイント阻害剤」という名称そのものが、この薬のアンビバレントな性格をよく示しているように思う。癌細胞を倒しても、新たな病がもたらされる高いリスクがある。ここに、この治療の最大の問題点がある。
オプジーボの場合、「重篤な血液障害」「重度の皮膚障害」「重症筋無力症」「重度の下痢」「劇症肝炎」など合計19の副作用が列挙されていて、しかも「重篤」「重度」「重症」という形容詞までつく。間質性肺炎、心筋炎、Ⅰ型糖尿病など、一生付き合わねばならない病のリスクもある。どんな薬にも必ず副作用があって、必要な説明がなされるが、ここまで気の滅入るような重いものは初めてである。
担当医があまりに淡々と説明していくので、私は思わず、「副作用というけれど、新たな重い病を背負い込むリスクがあるわけですよね」と質問した。「そうです」と、妻の背後にいる私の方を見つめて、担当医は言い切った。内科や循環器内科、呼吸器内科等々、それぞれの関連する院内の各科と連携して治療していくという説明もあったが、それでも私は、オプジーボの巨大なリスクについて、どうしても納得がいかなかった。もう一つ気になっていたことは、オプジーボの単剤での治療効果が約30%前後である、と今はいわれているからである(研究途上)。
この病気になってから妻は、YouTubeやタブレット、スマホで検索を続けた。私が早朝4時頃に目覚めると、タブレットでずっと動画をみていることもあった。私も付き合って、動画を何本も何本も見たが、癌の専門医などによる、納得のいく良質な動画もあって、大変参考になったり、勇気をもらったりもした。小倉智明さんの動画もあった。1992年12月14日に私は、文化放送の『小倉智明の夕焼けアタックル』に生出演したことがあり、とても頭の切れる人だという印象をもっていた。その小倉さんの膀胱癌体験の語りは、笑いまで交えて実にリアルで、参考になった。こういうYouTubeなどで得られた知識や疑問を、妻が次の外来で担当医にぶつけると、少し踏み込んだ説明をしてくれた。そういう時間をたくさん使ってじっくり考え、語り合った結果、最終的に妻はオプジーボによる免疫治療を決断した。私も支持した。
先週3回目の投与をした。大きな副作用は今のところ出ていないが、前述の副作用リストに出てくるいくつかの兆候が見られるようになった。血液検査でHやLの記号もたくさん出てきた。これについても、妻と話し合って対応を考えているところである。
この半年で変わったこと
講義やゼミや会議のために大学に行くという40年続いた「日常」が消えた。ほとんど自宅にいて、車で妻を病院に連れて行く。電車は滅多に乗らなくなった。
退院後の1週間、食事は私が作った。広島で5年、旧東ベルリンで半年、一人暮らしをして自炊をしていたので、料理は嫌いではない(直言「雑談(15) 「食」のはなし(3)」)。今も毎日、朝食は私が作る。パンにチーズを乗せてオーブントースターで焼く、人参とキャベツ、ピーマンなどを煮た温野菜サラダ、ゆで卵、豆乳、ヨーグルト+蜂蜜、紅茶。ゆで卵の作り方は、NHK「アサイチ」で知った方法を使う。鍋に1センチほど水を入れて沸騰させ、そこに卵を入れて4分煮る。蓋をしたまま5分蒸らす。この9分が重要である。これで黄味を真ん中にした半熟卵が出来上がる。これまで、卵が隠れるほど水を入れて沸騰させていたのが、このわずか1センチの水というのがミソである。NHKの朝の連ドラ「虎に翼」のあとの「朝イチ」のレシピは、この半年の生活の参考になっている(例えば、パラパラ卵チャーハンも自分で作る)。今までの人生で、ほとんど見ることのなかった番組である。
この半年で、待つことが苦手な性格だった私が、とにかく「待つ」生活に慣れてきた。場所は病院の待合室という、社会の縮図のようなところ。周囲は、同じような病気をもつ患者やその家族ばかりである。医師や看護師、病院のさまざまなスタッフの動きが見える。武蔵野日赤は新病棟建設中のため、院内移動はけっこう大変である。複数の検査をするために、院内でなかなか目当てのところに行けないこともあったが、案内係が立ってやさしく導いてくれる。最近は最短コースなども見つけたりして、かなり慣れてきた。
通院の際や入院中は、新病棟建設のための仮駐車場に車を入れる。駐車台数は従来の半分になっているので、時間によって満車で道路に列が出来ることもある。かつての私ならさっさと別の駐車場を探しにいくが、妻が、「出庫の車の様子を見て待つべきよ」というので、素直に順番を待つようになった。ちなみに、昔から列に並ぶのが嫌いな私は、ディズニーランドは1991年に一度だけ子どもを連れていっただけで、その後は妻にまかせた。33年ぶりに孫を連れて行ってもいいという気分に、今はなっている(もっとも、孫が中学生なのでもう手遅れだが(苦笑))。これも私の最近の心境の変化の一つである。
長い待ち時間の間、原稿書きはしないと決めた。そのかわり、「積ん読」状態にしてあるものから、専門や関心に遠い本を意図的に選んで持参する。「外れ」もあるので、大小5冊は持っていく。10時間かかった膀胱全摘手術の時だけは、締め切り原稿があったので、待合室にパソコンと資料を持ち込んで執筆した(その原稿がこれ)。その後は、免疫治療(点滴)が終わるまで時間がかかるので、待合室ではなく、院内の落ち着いた場所を見つけて、読書を続ける。かなりの冊数を読了した。こういう状況でなければ読まなかったような思わぬ収穫となるものもあった。その「院内読書」の書評的なエッセーは、いずれこの「直言」で書くことにしよう。
感謝の気持ち―「金婚式」に向けて
日々感謝の気持ちである。何よりも担当医をはじめ、医師の方々の治療や手術があったおかげで、妻は、手術前までの激痛の日々から解放された。看護師や病棟スタッフから何度となく励まされたことで、妻は病気の孤独感から救われたといっている。入院が長かったので、私もけっこう顔を覚えてもらえて、声をかけてくれる看護師もいる。日赤の看護師の丁寧できめ細かい配慮と対応にも頭が下がる。彼らは、災害時には救護班派遣の役割を担っている。
退院直後は週に2回(9月からは1回)、訪問看護の看護師が自宅に来て、「ストーマ」(人工膀胱)の状態観察や装具着脱の様子などを看てくれて、さまざまな相談にのってくれている。たくさんの人々に支えられていることに感謝である。
ここでは何より、40年間、私の研究・教育活動を支えてくれた妻への感謝を伝えたい。これまで相当に無理をさせてきたし、それに気づかないできたことが積み重なって、このような病気に至ったのだと思っている。結婚47年、高校入学から付き合って55年、何でも黙って自分で出来てしまう妻に、私は甘えてきたのだと思う。懺悔である。
学生たちを八ヶ岳の仕事場に呼んで、正月5日前後に「おでん会」をやってきた(直言「ゼミ「おでん会」の10周年」)。準備と片づけは妻がやってくれた。私は買い物に付き合う程度だった。2007年(ゼミ9期)から2020年(22期)まで13年続いたが、母が高齢になって、妻が家を何日もあけるのが大変になってきたところでコロナ禍になってしまった。ゼミの最終期である25期生は、コロナ後の2023年3月、私一人で、おでんなしの会を開いた。ゼミ生との「信玄棒道」散策も、この25期生で終わりとなった。この企画を長期にわたってやってくれた妻には感謝である。学生たちにも大切な思い出になっていると思う(直言「雑談(136)水島ゼミ25年間の最終回」)。
あと2年6カ月で「金婚式」(結婚50年)である。2017年には結婚40年の「ルビー婚旅行」(Rubinhochzeitsreise)をやった(直言「ハンガリー国境の「汎ヨーロッパ・ピクニック」の現場へ」の冒頭部分参照)。妻の行きたいところに行くと決めて出発したが、結局、私の研究の「現場」をまわってしまった(ドイツ基本法制定の現場、ヘレンキームゼー、ヒトラー山荘とマウトハウゼンKZ、ヴァッカースドルフ、フランクフルトの不発弾処理の現場)。なので、今度こそは、2人で本当に行きたい旅行先を見つけようと思う。障害者手帳をもち、かつてのような身体ではないので、ゆっくり、じっくりまわるつもりである。レンタカーを使うのは、免許証返納も近づいているので、2018年の北ドイツ・デンマークの旅で打ち止めとしたい。
「再出発」に向けて
最後に、これからのことを書いておこう。
まず、妻の免疫治療は1年間なので、しばらくは病院通いに付き添うことになる。ただ、最近、妻は私にもっと外に出るようにいうので、まずは先週、韓国映画『ソウルの春』(2023年)を見てきた。長らく映画館には行っていなかったので、本当に久しぶりに大画面で堪能した。内容的にも、全斗煥政権誕生につながる1979年「12.12粛軍クーデター」が圧倒的迫力で描かれていた。人物描写として、軍部独裁をもたらす軍人のタイプがよくわかった。全斗煥、その後の大統領となった盧泰愚(第9師団長)が徹底的に醜く描かれていた。彼らが光州事件で、多くの学生や若者を殺害するわけで、作り手の怒りを感じた。終了後、バナナジュースを飲みながら、新宿3丁目から新宿地下通路を西口まで歩いた。現役時代はできなかったことを、これからもいろいろチャレンジしていく。
母の介護が始まった頃から、夜は原稿書きをしないで、妻とNetflixをみるようになっていた(直言「雑談(134) 新『西部戦線異状なし』」)。安倍晋三元首相が秘書官にまで見るように薦めた米国ドラマ『ハウス・オブ・カード』6シーズン73話にも妻は付き合ってくれた。妻も引き込まれたといっている。退院してからも、無理のない時間帯に、これが続いている。もちろん、妻の好きなヒューマンドラマにも付き合っている。先週からDisney+にも入って、エミー賞をとった『SHOGUN将軍』を見始めた。まだ半分も見ていないので、ここでは沈黙する。
原稿執筆の仕事が止まっている。これはしばらく様子をみて再開することになる。膨大な蔵書を整理したので、私にとって必要な文献・資料は厳選された形で存続することになった。これらを活用しながら、新たなテーマを掘り下げていきたい。自宅の書庫の本を整理していると、いろいろな発見があって、毎日が楽しい。「歴史グッズ」の再展示などを含めて、現在検討中である。
ただ、「直言」だけは毎週出さねばいけないので、たくさんのテーマを複数走らせて、とにかく1週間に1本の割合でアップすることを続けたい。この「直言」の管理人になって、自分で更新をできるようになって3年が経過した。来年1月3日になれば、28年連続更新となる。
講演は、年内、札幌と青森が入っているだけである。妻の病気のことを5月の「直言」で示唆してから遠慮されているのだろうか。妻は、「治療のパターンが決まり、自分で通院もできるようになると思うから、あなたはもっと外に出て、求められることをやったらどうか。もったいない。今まで付き合ってくれて、どうもありがとう」というので、10月以降は、講演依頼などにも積極的に応じていきたい。依頼は、ここからどうぞ。
ホームページの維持・存続のため、多くの方々のご支援をいただいています。引き続き、どうぞよろしくお願いいたします(寄付ページへのリンク)。
私がこれから何をやっていくかについては、今後考えていきたいと思う。とりあえず私自身の持病が完治したので、いま心身ともに元気である。遠慮なくご提案ください。前向きに検討させていただきます(メールは
E-mail まで)。
なお、本「直言」は妻とともに書いた。彼女があえて膀胱癌であることを明らかにし、治療の経緯まで詳しく語ったのは、次のようなわけである。統計的に膀胱癌になるのは男性が多く、女性である自分がなぜなったのかについてまず驚いたこと。時々膀胱炎にはなったものの、まさか膀胱癌になるとは想像もしていなかったこと。教員のような職種には膀胱炎になる人が多いことを考えると、膀胱炎は早期に病院にかかって治してほしいこと。自分はそのところを甘く考え、ドラッグストアーで漢方薬などを買って改善したつもりでいた。でも、膀胱癌になってしまうと、とてもつらい。この「直言」で、教員の後輩たちや、トイレを後回しにしてしまうような職種の人々に注意するように呼びかけたいと語っている。
本「直言」は、膀胱癌とたたかう妻との「再出発」でもある。
《付記》
冒頭左の写真は、2023年6月24日、「水島朝穂先生古稀記念の会」(リーガロイヤルホテル東京)で妻と並んで撮影したもの。右の写真は、2024年1月19日の「水島朝穂先生 最終講義 祝賀会」(同)での挨拶。