B29本土空襲から80年――武蔵野空襲のこと
11月24日の日曜日は、B29爆撃機による東京への初空襲から80年だった(『東京新聞』は1面トップでこれを取り上げている(サンデー版は「防空法」特集))。1944年(昭和19年)のこの日は金曜日だった。武蔵野町(現在の武蔵野市)にあった中島飛行機武蔵製作所が第一目標となった。ゼロ戦などの軍用機のエンジンを製造していたので、米空軍にとっては「敵国日本」の象徴のようなものだった。「終戦」まで9回にわたり執拗な爆撃を受け、工場関係者200人以上が死亡し、周辺地域でも多くの住民に被害が出ている(直言「武蔵野の空襲と防空法」参照)。この写真は、市内の延命寺にある250キロ爆弾の一部である。近くの源正寺の墓石のなかに、爆弾の破片でザックリとえぐられた墓石がある(ここをクリック)。人間にあたれば肉片と化すだろう。この墓石を見るたびに身震いする。なお、武蔵野市は2011年に条例を制定して、11月24日を「武蔵野市平和の日」と定めた。私は何度か市の要請で講演をしてきたが、必ずこの空襲の意味について語ることにしている。
この1トン爆弾はなぜここにあったのか。1945年(昭和20年)4月7日に武蔵製作所を爆撃したB29に対して、調布飛行場から飛び立った3式戦闘機「飛燕」が迎撃。B29の1機に体当たりして、国領付近に墜落させた。その時、爆発しないで地中にめり込んだ一発と推察される。
「空襲」と「空爆」は違う
厳密にいうと、米軍が日本本土を初空襲したのは、1942年(昭和17年)4月18日の「ドーリットル空襲」である。だが、これはB25爆撃機によるもので、B29による本土初空襲は1944年6月16日の八幡(北九州)空襲である。
湾岸戦争以来、メディアも一般市民も「空爆」という言葉を平気で使う。だが、これは爆弾を落とす側の視点からの言葉である。落とされる側にとっては「空襲」である(『読売新聞』が政治面で「空爆」を、社会面で「空襲」を見出しに使った珍しい事例はここから)。1945年8月15日未明まで、秋田・土崎などに米軍は爆弾の雨を降らせた(直言「ビジネスライクな「空爆」」参照)。軍事的必要性が皆無の「空爆」で、1000人以上の市民が死んでいる(67都市に対する「即興的破壊」を積極的に推進したのはカーチス・ルメイ将軍だった。彼には勲一等旭日大綬章が与えられている!!)。いつの時代でも、「空襲」で命を奪われていくのは普通の市民である。無自覚に「空爆」という言葉を使ってはならない。日本が重慶「空爆」を行い、多数の重慶市民が「空襲」被害を受けたことも忘れてはならないだろう。
宮崎空港での不発弾爆発――時限式信管
まだ記憶に新しい。本年10月2日午前8時頃、宮崎空港で何かが爆発したというのが第一報だった。外部から何かが打ち込まれたのかとも思ったが、続報で、それが戦時中の不発弾だったことが明らかになった(3日付各紙)。冒頭左の写真にあるように、爆発したのは飛行機の誘導路である。そこに直径7m、深さ約1mの楕円形の穴があき、半径約200mの範囲にコンクリート片や金属片の飛散が確認された。爆発の約2分前に現場を通過したのは、JAL688便羽田行き(定刻7時45分発)。ANA2508便名古屋(中部)行き(7時45分発)が続いていた。間一髪だった。空港は直ちに閉鎖され、87便が欠航した。
宮崎空港の前身、旧海軍赤江飛行場へのB29による空襲は、主なもので3月31日(140機)と4月28日(130機)がある。今回爆発したのは、このいずれかで投下された250キロ爆弾と見られている。
宮崎県内で震度6弱を記録した8月の地震との関連も指摘されており、日本各地にまだ眠っているこの種の時限式の不発弾が、地震などの影響で、いつ、どこで爆発するかわからない。「戦後80年」は過去の話にはならないのである。さらなる調査が求められている(『朝日新聞』11月10日付社説)。話はまったく違うが、保守系夕刊紙『夕刊フジ』10月1日付(1月末で休刊)が、石破内閣発足にあたり、「時限爆弾内閣発足」という、やけくそ気味の大見出しを打ったことを思い出した。「時限爆弾」という言葉はなくならないものである。
日本だけではない。来年「戦後80年」を迎えるドイツでも同様である。私自身、7年前に、不発弾処理の影響を受けたことがある。直言「戦後最大の住民避難:フランクフルト」で書いたように、フランクフルト大学近くの工事現場で、英空軍の4000ポンド爆弾の不発弾が発見された(左の写真参照)。2017年9月3日、大規模な住民避難が行われた。その時間帯、私の車も渋滞に巻き込まれた。6万人の避難計画のため、新聞は「第2次世界大戦後最大」と形容した。日本国総領事館から「旅れじ」に登録している私にもメールが届いた。フランクフルト市民病院から救急車で避難した一人の高齢女性は、「英国軍の爆弾による2回目の避難をすることになった」と語ったそうだ。一度目とは、1943年10月からのフランクフルト空襲である。
2001年にカンボジアとラオスに行った際にも、不発弾に出会った(直言「家の柱に爆弾 カンボジア・ラオスの旅(5・完)」参照)。不発弾があるところを通過するときは、背筋に冷たいものが走ったのをいまも覚えている。その時に入手した使用済みの対人地雷やボール爆弾などは、研究室に「わが歴史グッズ」として展示していたが、いまは段ボールに入れて保存してある。
パレスチナのガザ地区でも、ウクライナでも、不発弾を処理するのに途方もない時間が必要だろう。それよりもまず停戦である。どんな戦争も、後の世代に負の遺産を残して終わる。不発弾や時限爆弾の処理に途方もないお金と労力が要求される。
もともとクラスター弾は、ある一定割合で不発弾となるように仕込まれている(直言「わが歴史グッズの話(46)不発弾をつくる「悪魔の計算」」)。爆撃の際に直接ダメージを与えるだけでなく、その地域に長く残存して、一帯の活動を制約するという狙いである。クラスター弾の場合、ナイロン製リボンが木などにひっかかって爆発せず、それに触った子どもが犠牲になるケースが多い。「計画的な時限爆弾」は実に悪質である。このクラスター弾をロシアも使い、米国はウクライナに供与している。それに加えて、バイデンは、任期終了直前になって、対人地雷をウクライナに供与した。米国は、対人地雷禁止条約にもクラスター弾禁止条約にも加盟していない(ロシア、中国も)。ウクライナは対人地雷禁止条約には加盟している。国際法上、その使用のみならず、貯蔵、生産、移譲等が全面禁止されている兵器が、新たにウクライナやロシア国境付近、クルスクなどにばらまかれる。第一次世界大戦の激戦地となったベルギーやフランス北部では、いまも不発弾が大量に回収され、処理されている。二つの世界大戦だけではない。その後世界で行われた多くの戦争や武力紛争でも同様である。敵に効果的なダメージを与えることを主眼とする兵器のうち、「時間」軸を折り込んだものは、戦争終結後に長期間にわたり、その国の社会に深刻な影響を与え続ける。不発弾の「思想」である。