不発弾の「思想」――「戦後80年」を前にして
2024年11月27日



B29本土空襲から80年――武蔵野空襲のこと

11月24日の日曜日は、B29爆撃機による東京への初空襲から80年だった(『東京新聞』は1面トップでこれを取り上げている(サンデー版は「防空法」特集))。1944年(昭和19年)のこの日は金曜日だった。武蔵野町(現在の武蔵野市)にあった中島飛行機武蔵製作所が第一目標となった。ゼロ戦などの軍用機のエンジンを製造していたので、米空軍にとっては「敵国日本」の象徴のようなものだった。「終戦」まで9回にわたり執拗な爆撃を受け、工場関係者200人以上が死亡し、周辺地域でも多くの住民に被害が出ている(直言「武蔵野の空襲と防空法」参照)。この写真は、市内の延命寺にある250キロ爆弾の一部である。近くの源正寺の墓石のなかに、爆弾の破片でザックリとえぐられた墓石がある(ここをクリック)。人間にあたれば肉片と化すだろう。この墓石を見るたびに身震いする。なお、武蔵野市は2011年に条例を制定して、11月24日を「武蔵野市平和の日」と定めた。私は何度か市の要請で講演をしてきたが、必ずこの空襲の意味について語ることにしている。

  16年前の5月18日、京王線の国領駅付近で発見された不発弾を処理するため、京王線が運転見合せとなった。車両の通行も規制された(冒頭下の写真)。当日、徒歩で現場近くまでいって取材した(直言「「63年前の不発弾」の現場へ」参照)。線路脇の工事現場の地中3mから、B29の2000ポンド爆弾(俗称・1トン爆弾)が発見された。半径2キロに破片が飛び散るおそれがあるので、調布市 は、半径500mに警戒区域を設定し、立ち入りを禁止した。住民1万6000人に、災害対策基本法63条に基づく「退去命令」が出された。避難「指示」「勧告」(同法60条)よりも強力で、命令に従わない場合には罰則もある(罰金・拘留)。

 この1トン爆弾はなぜここにあったのか。1945年(昭和20年)4月7日に武蔵製作所を爆撃したB29に対して、調布飛行場から飛び立った3式戦闘機「飛燕」が迎撃。B29の1機に体当たりして、国領付近に墜落させた。その時、爆発しないで地中にめり込んだ一発と推察される。

 

「空襲」と「空爆」は違う

   厳密にいうと、米軍が日本本土を初空襲したのは、1942年(昭和17年)4月18日の「ドーリットル空襲」である。だが、これはB25爆撃機によるもので、B29による本土初空襲は1944年6月16日の八幡(北九州)空襲である。

  湾岸戦争以来、メディアも一般市民も「空爆」という言葉を平気で使う。だが、これは爆弾を落とす側の視点からの言葉である。落とされる側にとっては「空襲」である(『読売新聞』が政治面で「空爆」を、社会面で「空襲」を見出しに使った珍しい事例はここから)。1945年8月15日未明まで、秋田・土崎などに米軍は爆弾の雨を降らせた(直言「ビジネスライクな「空爆」」参照)。軍事的必要性が皆無の「空爆」で、1000人以上の市民が死んでいる(67都市に対する「即興的破壊」を積極的に推進したのはカーチス・ルメイ将軍だった。彼には勲一等旭日大綬章が与えられている!!)。いつの時代でも、「空襲」で命を奪われていくのは普通の市民である。無自覚に「空爆」という言葉を使ってはならない。日本が重慶「空爆」を行い、多数の重慶市民が「空襲」被害を受けたことも忘れてはならないだろう。

 

宮崎空港での不発弾爆発――時限式信管

 まだ記憶に新しい。本年10月2日午前8時頃、宮崎空港で何かが爆発したというのが第一報だった。外部から何かが打ち込まれたのかとも思ったが、続報で、それが戦時中の不発弾だったことが明らかになった(3日付各紙)。冒頭左の写真にあるように、爆発したのは飛行機の誘導路である。そこに直径7m、深さ約1mの楕円形の穴があき、半径約200mの範囲にコンクリート片や金属片の飛散が確認された。爆発の約2分前に現場を通過したのは、JAL688便羽田行き(定刻7時45分発)。ANA2508便名古屋(中部)行き(7時45分発)が続いていた。間一髪だった。空港は直ちに閉鎖され、87便が欠航した。

宮崎空港の前身、旧海軍赤江飛行場へのB29による空襲は、主なもので3月31日(140機)と4月28日(130機)がある。今回爆発したのは、このいずれかで投下された250キロ爆弾と見られている。

 防衛省の調査によると、爆弾の底部の破片に信管が確認できたが、それは着弾後1時間ほどから数日経って爆発する「時限式」とされている。調査に関わった複数の専門家によると、今回のような地中での「自然爆発」は、時限式の信管が原因で起きた可能性が高いという。溶解液が入ったガラスが割れると、ストッパーのセルロイドが液で徐々に溶け、時間を経て爆発に至る。米軍の記録を調べた専門家によると、安全装置を解除せずに投下され、不発弾となった250キロ爆弾が少なくとも30発ほどあり、20発以上が時限式信管という(『朝日新聞』11月2日付)。

   劇場アニメ『この世界の片隅に』(2016年)では、主人公の「すずさん」が、呉市内に投下された長時限信管を使った「不発弾」の爆発によって右腕を失う場面が描かれている。これも一種の時限爆弾である。投下した爆弾がすべて爆発せずに、時間をおいて爆発する時限式の「長時限弾底信管」を含むことで、救助活動に従事する人々や、現場復旧に動き出した人々を時間差で殺傷することが狙われていた。その種の「不発弾」の一つが、戦後80年を前にして、宮崎空港で爆発したということである。「時限爆弾」というのは実に卑怯な兵器である。

   宮崎県内で震度6弱を記録した8月の地震との関連も指摘されており、日本各地にまだ眠っているこの種の時限式の不発弾が、地震などの影響で、いつ、どこで爆発するかわからない。「戦後80年」は過去の話にはならないのである。さらなる調査が求められている(『朝日新聞』11月10日付社説)。話はまったく違うが、保守系夕刊紙『夕刊フジ』10月1日付(1月末で休刊)が、石破内閣発足にあたり、「時限爆弾内閣発足」という、やけくそ気味の大見出しを打ったことを思い出した。「時限爆弾」という言葉はなくならないものである。

  ドイツで不発弾処理に遭遇

 日本だけではない。来年「戦後80年」を迎えるドイツでも同様である。私自身、7年前に、不発弾処理の影響を受けたことがある。直言「戦後最大の住民避難:フランクフルト」で書いたように、フランクフルト大学近くの工事現場で、英空軍の4000ポンド爆弾の不発弾が発見された(左の写真参照)。2017年9月3日、大規模な住民避難が行われた。その時間帯、私の車も渋滞に巻き込まれた。6万人の避難計画のため、新聞は「第2次世界大戦後最大」と形容した。日本国総領事館から「旅れじ」に登録している私にもメールが届いた。フランクフルト市民病院から救急車で避難した一人の高齢女性は、「英国軍の爆弾による2回目の避難をすることになった」と語ったそうだ。一度目とは、1943年10月からのフランクフルト空襲である。

  フランス在住の方のブログに、5年前の不発弾処理の話が載っていた。「500キロの爆弾、パリで爆破処理決行」。場所はパリ18区の工事現場。1944年にパリを中心とした地域圏に投下された爆弾は2000発以上と書かれている。セーヌ川でも不発弾がかなりの数あって、それが毎年、河川警備隊と爆弾処理班のダイバーにより回収されているという。そこで思い出したのが、6月にNetflixで見た超B級ホラー映画『セーヌ川の水面の下に』(2024年、フランス)である。パリ五輪の開会式(7月26日)を1カ月後に控えた配信だった。環境問題やセーヌ川の汚染、五輪批判を絡めた内容で、仰天の結末にはのけぞったが、ネタバレなので書かないでおこう。副題は「サメと不発弾」ということになろうか。

 2001年にカンボジアとラオスに行った際にも、不発弾に出会った(直言「家の柱に爆弾 カンボジア・ラオスの旅(5・完)」参照)。不発弾があるところを通過するときは、背筋に冷たいものが走ったのをいまも覚えている。その時に入手した使用済みの対人地雷やボール爆弾などは、研究室に「わが歴史グッズ」として展示していたが、いまは段ボールに入れて保存してある。

  パレスチナのガザ地区でも、ウクライナでも、不発弾を処理するのに途方もない時間が必要だろう。それよりもまず停戦である。どんな戦争も、後の世代に負の遺産を残して終わる。不発弾や時限爆弾の処理に途方もないお金と労力が要求される。

  もともとクラスター弾は、ある一定割合で不発弾となるように仕込まれている(直言「わが歴史グッズの話(46)不発弾をつくる「悪魔の計算」」)。爆撃の際に直接ダメージを与えるだけでなく、その地域に長く残存して、一帯の活動を制約するという狙いである。クラスター弾の場合、ナイロン製リボンが木などにひっかかって爆発せず、それに触った子どもが犠牲になるケースが多い。「計画的な時限爆弾」は実に悪質である。このクラスター弾をロシアも使い、米国はウクライナに供与している。それに加えて、バイデンは、任期終了直前になって、対人地雷をウクライナに供与した。米国は、対人地雷禁止条約にもクラスター弾禁止条約にも加盟していない(ロシア、中国も)。ウクライナは対人地雷禁止条約には加盟している。国際法上、その使用のみならず、貯蔵、生産、移譲等が全面禁止されている兵器が、新たにウクライナやロシア国境付近、クルスクなどにばらまかれる。第一次世界大戦の激戦地となったベルギーやフランス北部では、いまも不発弾が大量に回収され、処理されている。二つの世界大戦だけではない。その後世界で行われた多くの戦争や武力紛争でも同様である。敵に効果的なダメージを与えることを主眼とする兵器のうち、「時間」軸を折り込んだものは、戦争終結後に長期間にわたり、その国の社会に深刻な影響を与え続ける。不発弾の「思想」である。

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