渡邉恒雄と読売改憲試案の30年――権力に寄り添って
2024年12月26日


権力に食い込み、権力に寄り添い、自ら権力になる

売新聞グループ本社代表取締役主筆の渡邉恒雄が先週19日、98歳で死去した。新聞各紙は一面でそれを伝え、大きめの評伝を出している。驚いたのは、存命中はけっこう批判的なことを書いていた新聞も、死と同時にその功績を前面に押し出し、「功罪もあった」という形でまとめていることである。この人物に限ったことではない。「葬送ポピュリズム」とでもいうべきか、一般に、権力者の死に際して、批判的なコメントは後景に退く傾きにある。安倍晋三の死をめぐっても、批判の声は小さくなり、それに便乗して「国葬儀」が実施されたことは記憶に新しい(直言 「安倍国葬」はあり得ない」参照)。私はその死のあとも、自粛することは一切しなかった(直言「安倍晋三殺害から2年」参照)。

そこで、渡邉についても、30年前から行ってきた批判を、ここでまとめておきたい。渡邉は権力中枢に食い込み、まさに時の権力に徹底して寄り添い、自らも権力になっていった。とりわけ元首相の中曽根康弘との関係が深かった。それを21年前の『新聞研究』(日本新聞協会)568号(1998年11月)でこう書いている。

 …あるときは、Jリーグやプロ野球の世界におけるその影響力のゆえにスポーツ紙をにぎわせ、またあるときは、行政改革会議に首を突っ込み、財政・金融一体論から国防省昇格論までまくし立てたかと思えば、『がんを克服する方法教えます』という闘病記を出版して健康書籍コーナーに顔を出すというにぎやかな人物がいる。読売新聞社長・渡邉恒雄、72歳。いま手元に、渡邉が35歳の政治部記者時代に出版した『党首と政党――そのリーダーシップの研究』(弘文堂、1961年)という書物がある。日本の政治、とくに自民党総裁の地位と選出方法についての分析に基づき、強いリーダーシップとデモクラシーとの両立を追求したもの。そこで渡邉は、日本の議院内閣制の現状を批判的に検討しつつ、中曾根が提唱する「首相国民投票制」をかなり好意的に紹介している。
 大派閥に属さない弱冠42歳の中曾根は、独自の憲法改正案を作って首相国民投票制を説いた。『未定稿・高度民主主義民定憲法草案』(昭和36年1月1日)。筆者の研究室に保存してある現物を、1997年の憲法記念日に『朝日新聞』が写真入りで紹介した[後に「記者席」でも紹介]。…

30年前の渡邉恒雄「読売改憲論」批判

渡邉が自ら改憲試案を世に問うたのは30年前になる。私は、「読売「憲法改正試案」にもり込まれた危険な意図」(『法学セミナー』1995年1月号)(冒頭下の写真参照)で、大新聞が改憲案を打ち出したことを批判した。1994年11月3日に公表されたこの改憲案、当時、社内には厳重な箝口令がしかれ、事前リークへのガードは異常に固かったという。読売記者から直接、「当日紙面を見て、非常に驚いた」と聞いたことを記憶している。私は、「読売新聞社としての「試案」ではなく、より正確には「渡辺恒雄社長と12人のイカれる男たち(論説委員と各部デスク級。なぜか女性は一人も含まれていない)」によってまとめられた「私案」というべきだろう」と評した。社内の記事審査日報には、「水島朝穂広島大学助教授が当社試案を批判した」という趣旨の記述があった(当時、現物を社内から入手)。ちなみに、私が「なぜか女性は一人も含まれていない」と書いたのを気にしてか、2000年5月3日の「第2次試案」は、女性記者を含めて18人で起草していた(直言「読売改憲2次試案の狙い」参照)。 

なぜ新聞社が改憲案を出すことは問題なのか。現代の読者にも理解できるよう、30年前の私の批判を引用しておこう。

「一般に、憲法改正を論ずることそれ自体は、改正案の提示も含めて基本的に自由である。日本国憲法は、自らを対象化させ、その改廃を論ずる自由をも保障していると解される。ただ、それはあくまでも個人レヴェルの問題であって、巨大メディアとなれば話は別である。憲法論議を活発化させるといいながら、権力を監視・チェックすべき言論機関が、権力側の政策を丸飲みするような改憲案を直接打ち出すことは、メディアの社会的責任と機能という点からも問題とされよう。また、新聞社が、特定の統治政策への強力なオリエンテーション(方向づけ)機能を直接果たす立場に徹した場合、当該新聞社の構成員(特に報道記者)の「プレスの内部的自由」との関係が出てくる。さらに、当該紙の読者(「受け手」)の側にも、情報選択の幅が制約されるという問題が生じるだろう。「試案」は、野球界にも「軍」を保持する巨大メディアの「奢り・昂り宣言」といえよう。…」

 これを書いた30年前の憲法の学界状況について書いておく。「新聞社の改憲試案など、まともに取り扱うべきではない。無視すべし」という重鎮クラスの意見もあって、法律雑誌の原稿依頼は結局、私のような若手にまわってきた。拙稿が公表されるや今度は、「読売の試案を持ち上げるのはどうか」という苦言が耳に入ってきた。その少し前に私は、自衛隊を国際災害救助隊に変えるという構想を『きみはサンダーバードを知っているか』(日本評論社、1992年)として出版したが、その際にも、自衛隊を肯定的に扱うことになるという批判が聞こえてきた。まさに隔世の感である。

 

20年前の「読売第3次試案」批判

20年前の直言「読売改憲試案の勘違い」では、「読売新聞社・憲法改正2004年試案」(2004年5月3日)を批判した。最初の試案から10年というタイミングで公表され、読売の改憲案としては一応の「完成稿」と言えるものだった。20年前にも詳しく論じたが、何よりも、この「試案」は、権力制限規範としての憲法の基本的特質を限りなく緩和・縮小させようとしているのが特徴である。まさに「権力にやさしい憲法」への改変である。その問題点を5点にわたって指摘している

特に問題なのは、憲法99条の憲法尊重擁護義務を削除して、国民は憲法を遵守しなければならないとしたことだろう。憲法改正のハードル(両議院の総議員の3分の2)を過半数に下げていることも見逃せない。個人や家族、社会のありように対する過度の方向づけもなされている。家族のあり方を定義しつつ、生存権条項に「自己の努力」を明記する狙いは明らかだろう。この読売改憲第3次試案は、公表の翌年、2005年8月に自民党が出した「新憲法草案」にも影響を与えている(直言「どこが「新憲法」なのか」参照)。

 

安倍改憲への突撃支援射撃

東日本大震災が起きた年の12月に、直言「憲法審査会「そろり発進」―震災便乗型改憲」を出して、そこで渡邉の異様な改憲へのこだわりについてこう書いている。

「…新聞社が10年間に三度も改憲試案を出すのは、報道機関としては尋常ではない。政治の動きがあまりに鈍いので、何とか改憲への動きを作ろうと思案した結果の「試案」なのだろう。その翌年、2005年に自民党が「新憲法草案」を出すに至ったため、読売の改憲第4次試案は出されなかった。その代わり、日々の社説や解説記事で、機会あるごとに、反復継続して、この新聞は改憲をあおっている。…」

 12年前の9月の自民党総裁選で安倍晋三が石破茂を破って当選し、12年前の今日、2012年12月26日、第2次安倍晋三政権が発足した。改憲ではなく、「立憲主義を蹴散らす」、まさに「壊憲」の時代のはじまりである。それまでの首相と異なり、安倍晋三の改憲手法はきわめて戦闘的で、それまでの首相では考えられなかったような「憲法蔑視」の姿勢で、「改憲煽動」を繰り返した。

手始めは「憲法96条先行改正」である。憲法改正手続を定める96条の発議要件を総議員の「3分の2」から「過半数」に緩和しようというものである。渡邉の読売新聞社は、この96条改憲を後押しすべく、まずは2012年12月15日付社説「「3分の2」要件緩和を糸口に」、2013年4月10日付社説「憲法96条 改正要件緩和が政治を変える」という論陣を張りつつ、96条の改正手続緩和に積極的な維新の会共同代表・橋下徹大阪市長(当時) と安倍首相(同)との「蜜月」会談を写真入りで伝えている(『読売新聞』同4月10日付)。

 皮肉なことに、石破茂幹事長(当時)は、96条の「発議要件を緩和するならば、国民投票の要件を厳格化することも論理的にあり得る」と述べて(『読売新聞』5月14日付)、「96条先行改正」に傾斜する安倍政権・渡邉読売にブレーキをかける発言をしている(「だから石破は嫌われる」)。この時期、私は、直言「「憲法デマゴーグ」の96条改正論」をアップしているが、改憲支持の側からも批判が出て、安倍が「96条先行改憲」を口にすることはなくなった。

  続いて渡邉読売は、「9条自衛隊加憲」論で安倍晋三への掩護射撃を行う。2017年5月3日の憲法記念日に、安倍の独占大型インタビューを1面トップから政治面、社説まで使って紹介し、「9条自衛隊加憲」論大宣伝した。これまでの自民党の改憲案とは異なるものだが、この読売の大キャンペーンにより、自民党の改憲案も「加憲案」になっていく(直言「安倍首相と渡邉読売の改憲戦術―情報隠し、争点ぼかし、論点ずらしの果てに」参照)。

読売社内では、年に1、2度の「社長賞」を、この5月3日のインタビュー記事を仕切った前木理一郎政治部長が受賞している。この写真は、読売新聞社長賞の告示である。「憲法改正を目指す安倍首相の本音を引き出し、改正時期や項目を具体的に明らかにして憲法改正論議に大きな影響を与え、本紙の声価を大いに高めた」というのが受賞理由。これが社長賞?という疑問の声を、読売関係者から直接聞いたことがある。詳しくは、直言「「ねじれ解消」からの脱却―安倍「自爆改憲」を止める」参照のこと。

 なお、渡邉読売は、ほとんどの憲法研究者が「集団的自衛権行使の違憲」の見解をもつことに楔をいれるべく、2018年4月に、全国の憲法研究者に対してアンケート調査を行った。集まったデータの恣意的な利用の仕方を含めて、直言「読売マッチポンプの罪―安倍流「憲法改ざん」と前木政治部長」を参照されたい。

 渡邉は、「憲法違反常習首相」の安倍晋三を徹底して支えた。しかし、菅義偉、岸田文雄、そして何より石破茂の政権では、ここまで肩入れすることはなくなったように思う。一時期より、読売も勢いのある改憲キャンペーンは減ってきたように感ずる。渡邉の元気がなくなってきたことと関係があるかどうかはわからない。「ポスト渡邉」がどうなるか。読売は改憲新聞社として歩み続けるのか、それとも大阪読売の伝統の灯火を消さずに反骨精神を復活させられるか。いずれにしても、「権力者が改憲に前のめりの奇妙な風景」が不自然なことは明らかになりつつある。この点で、直言「三笠宮崇仁と憲法9条」をお読みいただければ幸いである。

「たかが選手が」とプロ野球に君臨

 渡邉は野球界で唯一「軍」を名乗るチームの大ボスであり続けた。読売ジャンアンツのオーナーとして、2004年、労働組合「日本プロ野球選手会」(古田敦也会長(当時))と団体交渉に臨んだ。渡邉は「たかが選手が」と発言し、これが大きな反響をよび、反発を招いた(直言「「たかが選手」の投げたボール」)。なお、直言「ダービー前日のストライキ―憲法28条があることの意味」も参照のこと。


渡邉恒雄の共産党除名体験

渡邉恒雄98歳の一生のなかで、日本共産党からの除名体験は、そのメンタリティや行動様式に独特の彩りを添えているように思われる。軍隊体験と天皇制への反発から19歳の時に日本共産党に入党した。東大細胞(現在の支部)の幹部として活動したが、1947年12月、21歳の時に除名された。『週刊文春』デジタルに、「知られざる“渡辺恒雄の共産党時代”」(『独占告白 渡辺恒雄』 ) があり、若き日の生々しい体験が語られている。天皇制を共和制に変えると張り切って活動した渡邉だったが、個人よりも組織を重視する党への違和感と、「報いられることなき献身」を求められることに疑問をもって離党する。党本部にある大きなビラには、『党員は軍隊的鉄の規律を厳守せよ』と書いてあり、「軍隊が嫌いだから共産党に入ったのに軍隊かと思ったね」と嘆いている。この「鉄の規律」が「民主集中制」である(直言「立憲主義と民主集中制」)。
   渡邉は読売新聞社に入り社会部記者時代、奥多摩の山村工作隊に潜入取材をしたという。ちなみに,左の写真は、「わが歴史グッズ」のなかにある「共産党グッズ」である。非合法時代の軍事方針や神山茂夫の「除名取消要請書」など、段ボールを開ければまだまだたくさんある。

 この点で、片山杜秀「夏裘冬扇」の「共産党体験の重要性について―渡邉恒雄と堤清二」(『週刊新潮』2025年1月2/9日号12-13頁) は興味深い。渡邉は、堤清二(西武流通グループ代表)と同時期に東大の共産党細胞に所属していた。ともに、共産党体験から「危うい権力のリアリズムと世の中を全体としてつかみ取る思想を学びながら」、マルクス主義の陥穽である「労働者の革命は必然という安易な予定調和の信仰」を切り捨てたところにその凄さがあると片山はいう。なお、堤清二の筆名は辻井喬で、彼が憲法再生フォーラム共同代表の時に、私は事務局長を務めた

  渡邉の共産党体験については共感できるところが少なくない。だが、渡邉をここで持ち上げるわけにはいかない。反権力の闘士が体制・権力そのものになると、普通の権力者以上に権力的になる傾きがあるが、渡邉も例外ではなかった。政治の世界に深く根を張った「フィクサー」の役回りを演じてきた一人であり、詳しくは、今年7月に発売と同時に購入して読了した『誰も書けなかった日本の黒幕』(宝島社、2024年)に譲りたい(紹介はここから)。

【文中敬称略】

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