雑談(148)戦争と癌とたたかう――2025年の年頭に
2024年1月8日



この1年で変わったこと

いものである。昨年のこの時期に最終講義をやって、40年あまりの大学教員生活に別れを告げた。研究・教育の拠点だった研究室や仕事場を撤収し、山の仕事場の方も近いうちに閉じよう考えている。

毎年の年頭の「直言」は、その年の抱負を書いてきた。先週の直言「権力の暴走をいかにして止めるか―「直言」28周年に寄せて」がそれにあたるが、「28周年」に重きを置き、個人的な抱負は4点にしぼった。その第一が、病とたたかう妻と過ごすことである。去年3月に妻に癌が見つかり、病院との付き合いが生活の軸に置かれるようになった。生活は一変した。昨年9月の段階で途中経過を書いて、私の仕事の再開を宣言したものの、癌とのたたかいは、免疫治療薬(オプジーボ)の多様な症状と「副作用のデパート」ということもあって、日々の生活に大きな影響を与えている。


「二度とない人生だから」

そんな時、たまたま、25年前にアップした直言「雑談(2)夢八分目」を読み返す機会があった。そこに、仏教詩人・坂村真民「二度とない人生だから」の詩碑のことが出ていた(右の写真は三原極楽寺のホームページより)。 

  二度とない人生だから

  一輪の花にも、無限の愛をそそいでいこう。

  一羽の鳥の声にも、無心の耳をかたむけていこう。

  二度とない人生だから

  つゆくさのつゆにも、

  めぐりあいの不思議を思い、

  足をとどめてみつめていこう

 当時私は40歳の広島大学助教授だった。今回改めて全文を読んでみたが、感ずるところが多かった。

   二度とない人生だから

  のぼる日 しずむ日

  まるい月 かけてゆく月

  四季それぞれの星星の光にふれて

  わがこころをあらいきよめてゆこう

 私は季節の移り変わり、月の満ち欠け、星空の美しさなどに無頓着で、いつも妻にあきれられてきた。ネタバレだが、ドイツ在外研究中の「直言」冒頭のジュンベリーやライラックの下りなどは、すべて妻の提案で書き入れたものである。私は気づいていなかった。だから、いま、一緒にゆっくり近所を歩きながら、満月に思わず息をのんだこともあった。せわしく動き回っていた超特急の自分がウソのような「鈍行の生活」が続いている。そうやって気づく一つひとつのことを通じて、坂村の心境にも近づいた気がした。

 大谷大学の「教員エッセー」に、坂村の「二度とない人生だから」を読んで、「忙しい」を口癖にしている自分が思わず深呼吸をしてしまったという下りがある。

「…思えば、「忙」という漢字は、「忄(こころ)」(=立心偏)に「亡(うしな)う」と書きます。日々、途切れぬ仕事、目前の課題や役目に追われるなか、周りが視野に入らないばかりか、自らも見失っている。残念ながら、これが今を生きる私たちの姿でしょうし、さらに言えば、私たちは、そんな自らを省みる余裕をすら失っているのかもしれません。…」

 同感である。加えていえば、「二度とない人生だから まず、一番身近な者たちに できるだけのことをしよう」 も心に響く。

 妻にも息子や娘にも、私が走ってきた人生のなかで、かなり無理や我慢をさせてきたように思う。普通の父親や夫が行う普通のことをしてこなかった。何よりも休日や連休はほとんど仕事だった。そこで思い出すのは私の父のことである。父は(家族には)無口で、こわい存在だった。正直、好きではなかった。直接、ほめてもらった記憶がない。すべて母を通じての「間接話法」だった。だから、36年前に父が急逝した後になって、教え子たちにはとてもやさしい教師だったことを知って、意外に思うと同時に、うらやましかった。それを死去10年の時点で『朝日新聞』夕刊エッセーに書いた(直言「「一語一会」と一期一会」参照)。

 叔父の水島正美のことは大好きだった(直言「雑談(104)おじさん、おばさんがいない社会に」)。小学生の頃、植物採集の標本などについて、たくさん教えてもらい、励ましももらった。NHK朝の連続テレビ小説「らんまん」が縁となって、叔父について、多くのことを知った(直言「雑談(140)牧野富太郎と水島正美―NHK連続ドラマ『らんまん』を契機に」参照)。このドラマがきっかけになって、半世紀以上の空白が埋められつつある。

3人の孫たちが、いま、私たち夫婦の「最重要関心事」になっている。彼らがこれから生きていく日本や世界を平和でまっとうなものにしたい。そのために残りの人生を使っていこう、と年頭にあたり決意している。

 

『戦争とたたかう』の原点に

  坂村の「二度とない人生だから」を今回改めて読んで、次の下りも心に残った。

      二度と ない人生だから

  戦争のない世の実現に努力し

  そういう詩を一篇でも多く 作ってゆこう

  わたしが死んだら

  あとをついでくれる 若い人たちのために

  この大願を 書きつづけてゆこう

 これまで単著、単編著、共著、共編著を出版してきた(網羅的な文献目録は、愛敬浩二・藤井康博・高橋雅人編『水島朝穂先生古稀記念・自由と平和の構想力―憲法学からの直言』(日本評論社、2023年)547-578頁参照)。だが、前述した理由によって、この間、仕事は停滞している。そんな時、坂村の詩に再会した。「戦争のない世の実現」のため、彼は詩を作ろうとした。「あとをついでくれる若い人たち」に思いを伝えていくために。私もいま、これとまったく同じ心持ちである。

 私は34歳の時に、当時72歳だった久田栄正氏(札幌学院大学教授、北海道教育大学名誉教授)のルソン島での苛烈な戦争体験を聞き取り、防衛研究所図書館(当時)の第23師団関係資料等や関係者への取材によりそれを裏づけて、『戦争とたたかう― 一憲法学者のルソン島戦場体験』(日本評論社、1987年)を出版した(冒頭下の写真参照)。久田氏の没後24年の時点で、これを再構成して、『戦争とたたかう―憲法学者・久田栄正のルソン戦体験』(岩波現代文庫、2013年)を出した。この本を出版する過程やその後の出来事などについては、直言「『戦争とたたかう』ということ―久田栄正没後30年」を参照されたい。

 私はこの4月で72歳になる。この本を出した時の久田氏の年齢と同じである。若かった私は「プロローグ」で、「この老憲法学者の「こだわり」の源泉を探ること、それは日本国憲法の平和主義の「原点」を確認する一つの道ではないか、そう思ったのである」などと失礼なことを書いていた。72歳の久田氏を「老憲法学者」と呼び、ご丁寧に小見出しに「一人の老憲法学者の「こだわり」」と付けていたのである(日本評論社版6-7頁)。私も久田氏の年齢に近づいて、岩波現代文庫版ではさすがに「老」はとっている(3頁)。文庫の帯には、「個人の尊厳を否定する軍隊とは? いま戦場を再現・再考する 若い世代に届けたい珠玉の一冊」とある。

この文庫版が出版されたのは、安倍晋三内閣の「7.1閣議決定」によって集団的自衛権行使が合憲とされた前年だった。2015年に安全保障関連法が強行採決で成立して、「敵基地攻撃能力」(「反撃能力」)から、最近では「ターゲティング」(攻撃目標の選択)にまで集団的自衛権行使の具体化が進んでいる(『軍事民論』745号(2025年1月6日 参照)。

 私は、この写真にあるような書物を何冊も出して、憲法9条と日本の平和と安全保障の問題について発言してきた。しかし、「12.16閣議決定」から2年あまりが経過して、「安保3文書」(部内では「戦略3文書」という)の具体化が進み、国会での十分な審議も経ずに、長射程のミサイルなどの爆買いや、南西諸島の「不沈空母」化が進行している。日米軍事一体化(とりわけ統合防空ミサイル防衛(IAMD))を仕切る「統合作戦司令部」も、この3月までに始動する(直言「「戦争可能な正常国家」―日米軍事一体化と「統合作戦司令部」」参照)。その一方で、高額で欠陥だらけの垂直離着陸機オスプレイの不具合・事故も続き、人員の補充もままならない自衛隊の現場は問題山積である。こういう時にこそ、憲法9条のリアリティを想起して、「戦争とたたかう」必要があるだろう。

「改憲」のバリエーション

 石破茂首相を右ウィングから最も激しく非難している「国家基本問題研究所」(櫻井よしこ理事長)のホームページも、18年にわたって「今週の直言」を出している。私の「直言」の方が10年先に出しているが、憲法に対するスタンスはまさに正反対である。安倍型の猪突猛進型の改憲(壊憲)を支えたこれらの人々と異なって、近年では、「護憲的改憲論」やら「改憲的護憲論」、はたまた「立憲的改憲論」やらと、各種バリエーションがにぎやかである。憲法学界でも、「リベラルは死すとも、憲法学は生き残れるか」という問題意識のもと、「アフター・リベラル」の動きが生まれているが、私はいずれにも危惧を抱いている。

    思えば、 かつて著名な行政法学者、オットー・マイヤーは『ドイツ行政法』(第3版、1924年)序文において、「憲法は滅ぶとも、行政法は生き残る」(Verfassungsrecht  vergeht,  Verwaltungsrecht besteht.)と書いていた。行政法のテクニカルな性格は第二帝政からヴァイマル共和政まで有効というわけだが、これが後に、ヴァイマル憲法を葬ったナチスについてもいわれるようになる。これを応用して、「憲法学者は死すとも、行政法学者は生き残る」と皮肉っぽくいわれもした。マイヤーの初版(1895年)を翻訳して、『独逸行政法』(東京法学院、1903年)として出版した美濃部達吉は、天皇機関説事件で著書を発禁とされ、貴族院議員の職を追われた。今年は天皇機関説事件90周年である。この流れでいくと、今後、「憲法死すとも、憲法学者は生き残る」となるのだろうか。

 一昨年に出版した『憲法の動態的探究―「規範」の実証』(日本評論社、2023年)で出版は止まっている。冒頭の写真は、私の三部作である。最終講義で参加者に、「41年目の中間総括」と宣言した以上、仕事を徐々に再開したいと思っている。「憲法死すとも」とならないように、私なりに、できるかぎりのことはしていきたいと考えている。最後に、上記の著書の序章(ⅶ頁)から引用しよう。

 「…どこの国においても、憲法の「規範」と「現実」とのズレ、齟齬、乖離というのは起こりうるということである。例えば、ドイツは憲法改正の頻度が高く、「規範」の緻密な変更に熱心な国だが、他方で、連邦憲法裁判所は創設以来72年になるが、「規範」に反する「現実」のほうもしっかり正してきた。憲法異議〔憲法訴願〕で違憲判断をしたものだけで、2020年までに5372件になる。問題は、ことさらに「規範」の改変に向かう日本の異様さである。「規範」に適合するように「現実」を変えようという営みが顧慮されていない。実は、自衛隊合憲論の要だった「専守防衛」のライン(「自衛のための必要最小限度」)というのは、「規範」に「現実」をギリギリ接近させようとする巧妙な、ある意味でよくできた「理屈」だったのである。それをさせたのが、かつての国会における野党による批判であり、メディアや市民運動などさまざまな力の合成だった。
 思えば、フランス人権宣言(1789年)の序文には、人権が人々の前に常に「提示」され、人々にその権利・義務を「想起」させることの大切さが書かれている。権力者が、人権について「無知」(l'ignorance)、「忘却」(l'oubli)、「蔑視」(mépris)に陥ることがないようにするためである。憲法9条規範もまた、こんにちの「新しい戦前」状況のもとでもなお存在し続け、まだ鼓動を止めていない。不用意な死亡宣告をする前に、憲法9条が「在ること」の意味を再認識、再確認、そして再吟味する必要があるのではないか。…」
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