「逃げるな、火を消せ」の思想と行動(その1)――東京大空襲の80年から考える
2025年3月13日



東京大空襲から80年――「空襲」と「空爆」

月10日の東京大空襲から80年だった。一晩で10万人もの市民の命が奪われた。この日が近づくと、メディアは毎年、「空襲」の特集を組む。そこでは、「空から爆弾(焼夷弾)が襲ってくる」という体験が軸となる。だが、日本以外について語る時、メディアはもっぱら「空爆」という表現を使う。「ユーゴ空爆」(1999年)や「イラク空爆」(2003年)等々。空から爆弾を落とす側の論理である。この「上から目線」の言葉を無自覚に使ってはいないか(直言「平和における「顔の見える関係」」参照)。3月10日について、日本人は「東京空爆」とは決して言わないだろう。

米軍は、1944年6月16日の八幡(北九州)空襲を皮切りに、11月24日の東京空襲(武蔵野中島飛行機)から本格化し、1945年8月14~15日未明までの263日間、B29爆撃機を使った大規模な「空爆」(Airstrike)、「戦略爆撃」(Strategic Bombing)を実施した。なかでも3月10日の東京大空襲は、計算し尽くされた、一般市民に対する無差別大量殺戮だった。責任者は、カーチス・ルメイ少将である(1964年に勲一等旭日大綬章を受賞!! )。

東京を焼き尽くした翌々日の12日は名古屋、13日は大阪、17日は神戸と、大都市への空襲が続く。「年表で見る空襲」をクリックしてスクロールしていくと、日本の各都市の空襲の様子が、時系列で見て取ることができる。

6月以降の中小都市空襲は、すでに東京・大阪・名古屋といった大都市が壊滅していたにもかかわらず、執拗に実施された。軍事的必要性も合理性もまったくない、焼夷弾の在庫一掃と新型B29の「アリバイ的運用」という隠れた狙いも持っていた(NHKスペシャル「そして日本は焦土となった―都市爆撃の真実」2005年8月11日参照)。だから、「終戦」前日の8月14日深夜から15日未明にかけて、秋田や熊谷などを「空爆」している(直言「ビジネスライクな「空爆」―秋田・土崎空襲の現場、再訪」参照)。(下記は「〈大図解〉防空法が広げた空襲の犠牲」『東京新聞』2024年11月24日付サンデー版も参照)。


28年前に防空法による「退去を認めず」に注目

私は、1997年3月10日の「直言」で、「東京大空襲から52年」を書いた。三省堂のPR誌に「防空法制の研究」を連載し、「退去を認めず―国家優先思想の極致」が公表されたばかりだった。メディアで「10万人が死んだ」という無機質な数字が強調されるたびに、私は、「避難が恥とされ、無茶な消火活動を強いられた結果、逃げ遅れた人々も少なくない」のではないかと考えた。当時の警視総監は戦後、「防火を放棄して逃げてくれればあれほどの死人は出なかっただろうに、長い間の防空訓練がかえってわざわいとなったのだ」と書き残している。ということは、無差別爆撃による市民の大量殺戮は、一義的にルメイをはじめとする米軍(それを命令したトルーマン政権)の責任であるとしても、日本国民を火焔のなかに追い込む原因の一つが防空法その運用にあるのではないかと考えたのである。防空義務を課されたために逃げ遅れたことによる被害は、他国の攻撃により生じた被害というだけでなく、日本国政府が誤った国内政策をとったために生じた被害といえる。これは、日本政府が空襲被害者に対して補償する義務(作為義務)を発生させる先行行為となるべき事実である。一般民間人は、その身体・生命に対する重大な危険性に直面していたという点で、軍人・軍属と異ならない。一般戦災被害者について、軍人・軍属と異なる処遇をすべき合理的理由は存在しない。「受忍論」は成立しない。すみやかに、一般戦災被害者援護法を制定すべきであろう。

 この防空法についての視点を大阪空襲訴訟に活かしたのが、大前治弁護士である。大前氏の要請で、私は2011年2月28日午後、大阪地方裁判所202号法廷で開かれた大阪空襲訴訟第8回公判において、空襲被害者の救済の根拠となる防空法の機能について証言した(詳しくは、直言「退去を禁ず―大阪空襲訴訟で問われたこと」参照)。大阪地裁民事第17部に提出した意見書はここから(PDFファイル)。

なお、判決は2011年12月7日に言い渡された。原告敗訴ではあるが、理由のなかで、裁判所は「戦争損害受忍論」を採用せず、都市からの退去を禁止する方針がとられた事実と、原告ら国民が空襲から避難することは困難であったという事実を認定した(詳しくは、大前弁護士による判決評価参照)。直言「大阪空襲訴訟地裁判決の意義」も参照のこと。

その後、大前氏と『検証 防空法―空襲下で禁じられた避難』(法律文化社、2014年)を出版した。この著書の視点と防空グッズは、NHKの朝の連ドラにも活かされた(直言「NHK連続テレビ小説『ごちそうさん』と防空法」参照)。 メディアにも取り上げられ、2015年3月10日の記事では、防空法の視点が強調された(共同通信配信、例えば『愛媛新聞』『沖縄タイムス』等)。 

 TBS news23「燃える家に残った母 なぜ?」

3月10日のTBS news23は「戦後80年プロジェクト つなぐ、つながる」の一環として、「燃える家に残った母 なぜ?」を放送した。私はこの12分間の企画に協力した。「TVでた蔵」に番組の流れが紹介されている。

東京大空襲を体験した複数の体験者は、避難せずに火を消すというプレッシャーがあったことを証言する。バケツリレーの防空訓練の映像も出てくる。焼夷弾がゼリー状のガソリンだということから、「火叩き」や「バケツの水」では消せないことを実際の実験で明らかにする。この映像はインパクトがある。私が提供した内務省監修の『防空絵とき』などを重ねて、「焼夷弾、恐れるに足らず」という誤った認識を市民に植えつけていく軍の手法が見えてくる。防空法改正を行った佐藤賢了軍務課長傲慢な顔を映し出し、なぜ避難させなかったかの本音も明らかにする。そして、「隣組」が生んだ同調圧力。市民同士が監視し合う状況に、逃げられなかったのではなく、「逃げなかった」という面を指摘する。他方、終戦間際にはそこに抗う人も現れ、八王子空襲における「浅川橋」上での出来事につながる。命の方が火を消すより大事だということ、まわりの目を振り切る勇気で結ばれる。キャスター二人のまとめもこの点に注目している。他局の東京大空襲関係のニュースでは、もっぱら体験者の高齢化や体験の伝承の大切さで終わっているが、news23だけは防空法に着目した。

 番組の担当ディレクターの平木場大器氏は、2015年の学生時代に「八王子空襲の謎」というドキュメンタリーを制作していた。八王子空襲の際の「浅川橋の出来事」を証言で明らかにした点は秀逸だった。それが今回、全国放送で知られることになり、意義深い。この点に関しては、直言「防空法の「逃げるな、火を消せ」に抗して―松山、大垣、八王子の空襲」も参照のこと。

  ここで、news23の「燃える家に残った母 なぜ?」の疑問に答える28年前の拙論を掲げておこう。「防空法制研究」からも読めるが、この機会にトップページで紹介する。私の43歳の時の作品をお読みください。

 

退去を認めず―国家優先思想の極致

 水島朝穂

永井荷風の怒り

1945年5月5日(土曜)曇り。作家・永井荷風はこの日午前、麻布区役所に向かう。「途すがら市兵衛町舊宅の焼跡を過るに一隊の兵卒處々に大なる穴を掘りつゝあり。士官らしく見ゆる男を捉へて問ふに、市民所有地の焼跡は軍隊にて随意に使用することになれり。委細は麻布区役所防衛課に就いて問はるべしと答ふ。軍部の横暴なるや今更憤慨するも愚の至りなれば、そのまゝ捨置くより外に道なし。吾等は唯この報復として国家に対して冷淡無関心なる態度を取らんことのみ」(永井荷風『罹災日録』扶桑社〔1947年〕53頁)。

 1937年制定の防空法(法律第47号)は、行政が土地・家屋を使用できるのは、防空上「緊急ノ必要」がある場合であって、かつ「一時使用」であると定めていた(9条)。だが、1943年改正防空法(法律第104号)は5条ノ8を追加し、防空上必要な場合、市民の土地や工作物等を収用・使用できるとしたのである。末端では、私有地を「随意に使用」するという感覚だったのだろう。荷風の怒りは現場の軍人よりも、無責任なる国家に向かう。

 

疎開という建物破壊

 人(学童疎開、老幼者妊婦等の疎開)、建物、物資(文化財等を含む)の「疎開」は、1944年に入って本格化する。このうち、建物の強制疎開が始まったのはその1月のことである。法的根拠は、防空法5条ノ5。この規定も、もともと防空法には存在しなかった。1941年改正防空法(法律第91号)で「工場其ノ他ノ特殊建築物ノ分散ヲ図ル為」の建築禁止・制限規定として追加。43年改正防空法で、「建築物ノ分散疎開」一般にまで拡大されたものである。こうして、都市部に防空空地(疎開空地)や空地帯(疎開空地帯)が設けられていく。

 東京大空襲で下町が焼け野原になった5日後、政府は「大都市における疎開強化要綱」を閣議決定。これに基づき、第6次の建物強制疎開が実施される。全国で66万戸が建物疎開の対象として指定された。建物疎開といっても、実際には生活の本拠である住居の破壊である。もっとも、敗戦までに実際に取り壊されたのは1万4000戸(計画の2.1%)にすぎなかった(浄法寺朝美『日本防空史』原書房〔1981年〕279頁)。

 強制疎開に対する損失補償も微々たるものだった。荷風は、麻布霞町のアパート所有者が提示された金額の少なさに、「驚愕のあまり発狂せしと云(ふ)」と記している(1944年7月13日)。

 

神戸市都市計画課長の報告

 話は前後するが、日本軍がミッドウェー海戦に敗北する約一週間前の1942年5月29-30日。第1回東亜道路技術会議が東京丸の内東亜会館で開かれ、都市の空襲対策などについての研究報告が行われた。579頁に及ぶ報告集には、91本の報告が収められている。いずれも都市や道路、橋梁などの空襲対策の技術的側面を中心に分析したものである(『第一回東亜道路技術会議論文報文集』東亜道路技術会議事務局、1942年)。

 この中に、神戸市都市計画課長・奥中喜代一の「都市空襲対策」という報告がある(497頁以下)。応急対策と復興対策が報告の二本柱である。前者の内容は、戦争も動物界の闘争と同じだから、動物が使う保護色、偽装などを防空対策に応用せよというもの。具体的には、都市の白い建物や光った屋根を保護色に塗りかえること、大きな建物や高い塔などに目立たないように緑の網をかけて、「森の様に見える如くする」ことなどが挙げられている。ただ、「最も実行(ママ)的」とされるのが「我家を防空壕と考へて適当な一室を選択して其周囲に工夫をこらして防護壁を作ると云ふ方法」である。 また、あらかじめ復興計画を策定し、事前疎開や空地確保とともに、「不経済な私道」を整理し、公道を拡張しておくことなどが強調された。「都市全体を疎開して置けば本復興即ち永久建築をなす場合もそれに充分対応出来る」というわけだ。そして、次の言葉で報告を終わる。

 「空襲復興の問題は、20世紀後半に於て世界人類に課せられた問題である。之れを完全に解決したる人種は次の世紀に於て、世界に覇を唱ふるものである」。

 その「20世紀後半」に阪神淡路大震災に見舞われ、「住民を忘れた都市計画」の弱点を一気に露呈する結果になることなど、この課長は知るよしもない。

 

避難を禁ずる防空法

 「弾も火も 一死奉公 何のその」で始まる「我が家の防空二十則」のなかに、一六「避難者は 老幼病人のみと 知れ」、一七「命令前 避難退去は 恥の恥」とある(『家庭週報』1527号〔家庭防空特集〕1941年10月1頁)。

 防空法8条ノ3は、「主務大臣ハ防空上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ一定ノ区域内ニ居住スル者ニ対シ期間ヲ限リ其ノ区域ヨリノ退去ヲ禁止若ハ制限シ又ハ退去ヲ命ズルコトヲ得」と定める。この規定も当初防空法にはなく、41年改正法で導入されたものである(退去命令は43年改正法で追加)。同時期に改正された防空法施行令(1941年勅令第1135号)7条ノ2は、退去の禁止・制限の対象にならない者を掲げている。(1) 国民学校初等科児童または7歳未満の者、(2) 「妊婦、産婦又ハ褥婦」、(3)65歳以上の老人、「傷病者又ハ不具廃疾者ニシテ防空ノ実施ニ従事スルコト能ハザルモノ」、(4) 前各号に列挙した者の「保護ニ欠クベカラザル者」。避難できるのは、まさに「老幼病人のみ」である。

 避難の種類は、退去、事前退去、緊急避難の3つ。その実施時期は、東京の場合、内務大臣の指示で、警視総監が決定した(「東京都永年計画」69条)。

 

火傷覚悟で飛び込め

ところで、現場で消防活動に従事していた人々はリアルな認識をもっていた。たとえば、栗原久作『消防戦法概論』(大日本警防協会発行、1941年)はいう。「消防戦法必勝の要件は、優秀なる相当量の機械器具と之が使用に充分なる水利の重要なるは今更言を俟たざる所なり」と述べ(1頁)、消防車や消防水利の充実、人員の配置などを含む合理的な消防対策が展開されている。「家庭防空」についても一応触れてはいるが、決して過大評価はしていない。そこには、火災にはあくまでも消防のプロが対処すべきだという冷静な眼がある(127頁)。

 一方、帝都防空学校編『隣組防空群指導要領』警視庁防空課発行(1944年4月10日、非売品)を見ると、そこには過度の精神主義が見受けられる。たとえば、「大型油脂焼夷弾に対する戦法」はこうである。

 「ある者は表口から又他の者は裏口から又は窓からと云ふ具合に四、五名のものが四方から飛び込んで火焔をまともに受けて居る天井や襖等周囲の燃え易いものに馬穴や喞筒でどんどん水をかけ飽迄一にも延焼防止、二にも延焼防止を原則として當らねばならぬ」。

 「火と戦はんとする十分な身仕度があり火と戦ふ以上少し位の火傷を覚悟の下に必勝敢闘の心構へさへあれば直ぐそばまで飛び込んでも何等危険はないのであるから勇敢に飛び込んで飽迄懸命防火の戦法に出る事が原則であることを忘れてはならない」(249~253頁)。

 消防のプロなら、こんな無謀な要求を市民にはしないだろう。精神主義の極致は次の一文に示される。

 「空襲を受ける以上前線も銃後の区別もない訳である。各家庭は勿論凡ての建物は自家であらうが借家であらうが何れも国家を守る保塁であり陣地である。…火と戦ふものは人である。そして戦ふものは人間の精神であり更に勝敗を決するのも人間の精神である。…最後の勝敗を決するものは結極個人々々の精神である其の魂が決するのである」(253~4頁)。

 火災に対する知識をもち、十分な訓練を受けた消防士は、引き際も心得ている。だが、避難を恥とされ、引くに引けず、無茶な消火活動を強いられた結果、どれだけの市民が逃げ遅れたことか。

 

避難・退去を認めず

 昨年[1996年]公開された第81回帝国議会衆議院議事速記録によれば、1943年2月に二度にわたり秘密会で防空対策が取り上げられている。住民の退去避難に対する政府の姿勢は極めて冷淡なのが特徴的である。たとえば、2月5日(金曜)の東京都制案委員会で、上田誠一政府委員(内務省防空局長)はこう述べている。

  「日本ノ防空法ニ於キマシテハ防空ハ市民ノ義務ニナツテ居リマス、…防空能力ヲ有スル者ノ退去ト云フコトハ政府ニ於テ全然考慮シテ居リマセヌ、寧ロ事態ニ依リマシテ之ヲ禁止スル権限サヘ内務大臣ニ與ヘラレテ居ルノデアリマス」(国会図書館所蔵議事録623頁)。

 那須義雄政府委員(陸軍省兵務局長)は、「出来ルダケ各方面トモ現情勢ニ於テ出来ルダケノコトヲシテ、足ラヌ所ハ精神力デ補ツテ行ク」と、答弁のたびに「精神力」を強調している(同641、642頁)。

 一昨年[1995年]公表された第86回帝国議会貴族院の秘密会議事速記録。東京大空襲の4日後の3月14日(水曜)。空襲被害状況を報告した大達茂雄内務大臣に対して、質問に立った大河内輝耕議員(子爵)は、「人貴キカ物貴キカ」と厳しく追及する。

 「此ノ次ハ東京ガ全部ヤラレルカモ知レヌ、恐ラクヤラレルデセウ、其ノ場合ニ人ヲ助ケルカ物ヲ助ケルカ、ドッチヲ助ケルカ之ヲ伺ヒタイ、私ハ人ヲ助ケル方ガ宜イト思フ、…ソレガ宜イトスレバ、一ツ内務大臣カラ十分ニ徹底スルヤウニ隣組長ナリ実際ノ指揮ヲスル者ニ言ッテ戴キタイ、火ハ消サナクテモ宜イカラ逃ゲロ、之ヲ一ツ願ヒタイ」(国会図書館所蔵議事録468頁)。

 内相は、「ドウモ初メカラ逃ゲテシマフト云フコトハ是ハドウカト思フノデアリマスガ、…一応従来ノ計画ト致シマシテハ、大火災ノ場合ニハ、例ヘバ神田区ノドノ辺ノ者ハ何処ヘ一応避難スル、サウシテ避難ヲシタ先カラ今度ハドノ方面ニ向ッテ又更ニ移動シテ行ク、是ハマア机上ノ計画カモ知レマセヌガ、一応サフ計画ハ出来テ居ルノデアリマス…」と、のらりくらり。答弁中、「一応」という言葉が4回使われる。

 大河内議員が、「逃ゲ場所ヲ予メ作ッテ置クト云フコトハ御答ガナイヤウデアリマスガ」と迫ると、内相はまたも「一応」という言葉を頻発しながら、避難場所を作るとは決して言わない。

 「私ノ御尋シタイノハ、第一ノ避難場所、夜火災ガ起ッタラ何処ヘ逃ゲテ行クト云フコトノ場所ナンデス、其ノ場所ノ設備ガ十分デナイ、例ヘバ逃ゲテ宜イヤウナ場所ニ余計ナ建物ガアッテ見タリ、余計ナ設備ガアッテ見タリスル、サウ云フモノヲ綺麗ニシテ、何時デモ受入レラレルヤウナ態勢ニシテ置キナスッタ方ガ宜カラウ…」。逃げ遅れ、焼け死んだ多くの住民の惨状を目にしたであろう大河内議員の質問は、極めて切実で具体的である。

 これに対する内相の最後の答弁。「特ニ避難場所トシテ広場ヲ作リ或ハ邪魔ナ物ヲ取除ケテ置クト云フ、斯ウ云フ所迄ハ致シテ居リマセヌ。〔午後零時四十一分秘密会ヲ終ル〕」(同議事録469頁)。

 

防空法制への批判

  1944年9月から45年6月まで警視総監の職にあった坂信弥は、東京大空襲を回想して、こう述べている。

 「防火を放棄して逃げてくれればあれほどの死人は出なかっただろうに、長い間の防空訓練がかえってわざわいとなったのだ。また、私が思った通り、事前に退避命令を出すよう関係方面と協議していたら、あのように多くの犠牲者は出さずにすんだだろうに…私のほかだれもがそういう事態の予想をする人がなかっただけに、よけい悔やまれてくる。全くあい済まないことをしてしまった」(「私の履歴書」『東京大空襲・戦災誌』4巻・東京空襲を記録する会刊〔1973年〕1004頁)。

 また、東京大空襲当時の東京市長・大久保留次郎は、戦後、反省の弁を次のように述べている。

 「バケツと火たたきでする隣組の防空演習なんて、まつたく幼稚でお話にならん。…バケツと火たたきでする消火なんて、家一戸が焼ける場合を対象とした戦術で、何千戸も焼かれる場合には何の役にも立たなかつた。これを考えると、当時の軍は一体何をやつていたか憤慨に耐えない。軍、特に陸軍が当時は防空を指導していたんだが、軍は飛行機の発達、電波兵器の発達等々について、何の研究もしていなかつたのだ。向うは日本の隅々まで知りつくしているのに、日本は相手の情勢、世界の現状を何一つ知らずに戦争をしていたのだ。これぢや負けるのも当然だと思う。そのくせ軍は偉張つてばかり居た」(大越一二編『東京大空襲時に於ける消防隊の活躍』警察消防通信社、1957年1~2頁)。

 「民間防空」を市民に押しつけ、政府・軍は「国体護持」に奔走した。結果として、多くの市民が「初期防火という名の自殺」(松浦総三『天皇裕仁と地方都市空襲』大月書店〔1995年〕145頁)に追い込まれていった。一般市民に対する無差別爆撃の責任は当然問い続けられるべきだが、市民の犠牲を拡大した軍・政府の責任も忘れられてはならないだろう。

『三省堂ぶっくれっと』No.122(1997年2月)) 

 

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