2人の「元彦知事」のこと――「逃げるな、火を消せ」の思想と行動(その2・完)
2025年3月20日



青森空襲をテーマとした高校生の演劇

2月8日に青森市で講演した。青森は4回目になる(前回は、青森県弁護士会)。講演会の第2部として、青森県立中央高等学校演劇部による「7月28日を知っていますか」がセットされていた。講演終了後、私も最前列でこれを観た。小道具をほとんど使わず、生徒たちの体の動きと声だけで表現する。熱気が伝わってきて、すごい迫力だった。

実は、10年前に日本テレビ系列「NNNドキュメント’15」で、「シリーズ戦後70年:演じる、高校生 ぼくらの町は焼け野原だった」(2015年11月22日25:05)を観ていた(YouTubeはここから)。青森空襲を題材にして、高校生たちが空襲体験者に取材して脚本も書き、作り上げた演劇である。それを10年後、後輩たちが私の目の前で演じてくれた。RAB青森放送によれば、毎年7月28日に上演を続けており、昨年で10回目になったという(2024年8月15日「戦争を知らない高校生が青森空襲を演劇で伝え続ける」参照)。今年の7月28日も上演が決まっており、11回目となる。それを私は少し早く観させていただいたことになる。

 終了後、楽屋を訪れ、彼らと記念写真をとり、持参した『東京新聞』サンデー版『<大図解>防空法が広げた空襲の犠牲』をプレゼントした(一般に入手するにはここから)。私も資料の提供とコメントで協力したが、ビジュアルでわかりやすいものに仕上がっている。  

金井元彦青森県知事がやったこと

前回の直言「「逃げるな、火を消せ」の思想と行動(その1)」では、防空法の「逃げるな、火を消せ」の誤った政策の結果、逃げ遅れて亡くなった方が確実にいる。それを最もわかりやすい形で示しているのが青森空襲であると私は考えている。大前治弁護士との共著『検証 防空法――空襲下で禁じられた避難』(法律文化社、2014年)でも、その第1章で、「青森空襲の悲劇―「7月28日までに市内に戻れ」」で詳しく書いている。少し紹介しよう(12-15頁)。

 7月14日、青森港周辺や青函連絡船が猛烈な爆撃を受け、青森市民は市内への本格的な空襲をおそれていたところに、7月20日、冒頭の写真にある「伝単」(空襲予告ビラ)がまかれたのである。そのトップに「青森」が明記されている。「御承知の様に人道主義のアメリカは罪のない人達を傷つけたくはありません」という偽善的文言(右の写真参照)を市民が信ずるはずもないが、とにかく危険を感じて郊外に避難を始めた(ちなみに、7月16日は対岸の北海道室蘭市が艦砲射撃で破壊されている)。

当時の青森県知事・金井元彦(42歳)は、内務省警保局検閲課長として豪腕を振るった人物で、避難をする市民に対して、「7月28日までに青森市に帰らないと、町会台帳より削除し、配給物資を停止する」と通告したのである。青森市もこれを受けて同様の通告を発した。地元紙の『東亜日報』7月21日付は、「避難市民に“断”復帰は28日迄」「無届に配給停止」という見出しで、行政に追従する広報の役割を果たした。物資窮乏の折から食糧配給の停止は生存手段の喪失を意味する。町会台帳からの削除は「非国民」のレッテルともなる。市民はやむなく7月28日までに青森市に戻ってきた。その夜の10時半にB29が青森市上空にあらわれ、可燃力を高めた新型のM74焼夷弾を投下。大火災により1000人近くが死亡したのである。

 金井知事が発した通告は、防空法施行規則9条ノ2により、県知事(地方長官)の権限に基づくものだった。青森に戻った市民の一人、富岡せつ子さんは当時小学校6年生。母親らととも親戚宅に避難していたが、自宅に戻った。父親は「なぜ帰って来たんだ。今日危ないから[実家に]戻った方がいい」といった。その根拠は、前日の27日に「伝単」がさらに大量にまかれていたからだった。富岡さんはいう。「避難先から一緒に戻ってきたばかりに、私以外の3人が亡くなってしまったのです。小さい赤ちゃん2人まで死んでしまって」と語っている(拙著14-15頁より)。

金井は1946年1月に公職追放処分を受けて知事を免職となった。1962年に郷里の兵庫県で県知事選に立候補して当選し、2期務める。参議院議員となって、大平内閣の行政管理庁長官として入閣。1987年に政界を引退する。

金井は「7月28日」の責任をどう感じていたのか。金井元彦『わが心の自叙伝』(神戸新聞出版センター、1983年)という146頁足らずの私家版がある。空襲のことはわずか2頁だけ。しかも、空襲後、放送局に徒歩で行って、マイクに向かい「青森市は焼かれたけれども我々は挫けないと県民に激励の辞を放送した」と胸をはる(80頁)。反省の念は見られない。特高警察を動かす警保局の内務官僚だった金井は、防空法に基づく政府の施策を、「知事の権限と責任において」実行したにすぎないということだろうか。

『朝日新聞』2015年9月7日付青森県版のインタビューで、この点を記者に質問されて、私は、「内務官僚だったから、早く中央に帰りたいということもあって、忠実に国の施策を実施しようとしたんだろう」と推測している。

 東京大空襲の翌日(3月11日)の帝国議会貴族院の審議で、大河内輝耕議員が焼け死んでいる市民を目撃したことを述べて、内務大臣に対して、「火は消さなくていいから逃げろといってくれ」と迫る。しかし、内務大臣は曖昧な答弁しかしない(拙稿「「人貴キカ、物貴キカ」―防空法制から診る戦前の国家と社会」参照)。国民の命よりも国家の面子、厭戦気分の広がりを恐れて、非科学的で精神主義的な防空法態勢を維持し続けたことが被害を拡大させたことは明らかである。それは、空襲被害者に対する補償の根拠になる(直言「退去を禁ず―大阪空襲訴訟で問われたこと」参照)。

 もちろん、空襲下で命を優先した人たちがいたことはさまざまな証言から確認できる。3月10日のTBSnews23で紹介された八王子空襲の例がそれである(直言「防空法の「逃げるな、火を消せ」に抗して―松山、大垣、八王子の空襲」)。青森では、金井知事が配給停止などで脅かしたために、空襲当日に青森に戻ってしまったわけで、これは実にわかりやすい防空法の実施事例である。これに対する金井知事の反省の弁は聞こえてこない。


2人の「元彦知事」と2人の「斎藤兵庫県知事」

パワハラ問題で不信任を受けるも、SNSや二馬力候補の力で再選を果たした斎藤元彦知事。母方の祖父が金井元彦を尊敬していたので、孫に「元彦」という名前をつけたという。冒頭の写真にあるように、それは斎藤自身のXに残っている。当初は「母方の祖母」と書いていたが、その後、「母方の祖父」に訂正している。斎藤は1977年生まれだが、その時、金井は参議院議員で、参議院地方行政委員長だった。斎藤の祖父(ケミカルシューズ理事長)は、金井をいたく尊敬していたようで、「元彦」の名前をそっくりもらったわけである。2人の「元彦知事」である。

斎藤は東大経済学部卒業後、総務省に入り、2018年に大阪府に出向して財務部財政課長として、吉村洋文の維新府政を3年間にわたって支えた。兵庫県知事に立候補する経緯も、自民党より維新主導だった。その意味で、斎藤は維新系の知事といえる。実際、百条委員会の維新メンバーが「誹謗中傷情報」を立花孝志に流したりして、斎藤を掩護射撃している。

 斎藤のパワハラ疑惑について、3月4日、県議会調査特別委員会(百条委員会)は調査報告書(全文38頁)をまとめた。公益通報者保護法違反が認定されるとともに、知事が行ってきた一連の言動、行動が「パワハラ行為と言っても過言ではない不適切なものだった」と結論づけている。複数の職員が自殺し、県議会議員も自殺に追い込まれるなど、兵庫県は斎藤知事のもとで異常事態となっている。斎藤元彦も、避難する市民を配給停止などで脅して危険な市内に戻して命を奪った金井元彦の冷徹な、内務官僚的空気と体質をもっているようである。いずれにしても、2人の「元彦知事」は、県民にとって不幸な存在といえる。

   最後に、米軍が7月20日に青森にまいた「伝単」(冒頭の写真)をもう一度じっくり見ていただきたい。青森がトップだが、その次に「西ノ宮」、すなわち兵庫県西宮市が並ぶ。西宮では7月27日と31日に同じ「伝単」がまかれている。西宮空襲は8月6日零時半から始まり、485人の命が奪われている。もしもこの時の兵庫県知事が斎藤元彦だったら、7月のうちに親戚の家などに避難した人々に対して、金井知事のように、防空法施行規則に基づき、家に戻るように命じただろう。元県民局長の死に対する冷やかな対応を見ていると、斎藤兵庫県知事も同じことをしたのではないか。ちなみに、1945年10月に兵庫県知事(官選)になった斎藤晃、「もう一人の斎藤兵庫県知事」は1946年1月、公職追放で免職になっている。 斎藤元彦知事も任期を全うできるか、かなり微妙である。

《追記》3月19日、弁護士6人で構成する第三者調査委員会が報告書を県に提出した。報告書は、告発文書の真実相当性を認め、知事ら県幹部が告発者を特定して懲戒処分するまでの大半の行為を公益通報者保護法違反と認定した。県職員に対するパワハラも10件認定した。県議会百条委員会の報告書よりも厳しい内容になった(『朝日新聞』2025年3月20日付(デジタルは19日)

【文中敬称略】

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