No.874 July.1,1999
核シェルターのママチャリ
ボン大学で在外研究に従事している。研究テーマは「冷戦後ドイツの安全保障政策の展開と基本法の運用過程の研究」だ。
私がケルン・ボン空港に着いた12時間後、ユーゴ空爆が始まった。ドイツではゆったりした時間の使い方をしようという期待は見事に裏切られた。それから3カ月近く、この戦争とドイツとの関わりを取材する毎日が続いた。その一端は、到着直後から毎週更新しているホームページの「直言」を参照されたい。
取材の過程で、連邦政府の核シェルターに入ることができた。場所はボン郊外。葡萄畑が広がる丘陵の地下に、「連邦憲法諸機関退避所」というその施設はあった。90年前に鉄道の一部として着工され、計画中止で放置されていた地下トンネル(長さ3キロメートル)をうまく利用したものだ。支道や排気道などを含めると全長19キロメートルに及ぶ。60年に建設着工、72年に完成した。核戦争が起きたとき、立法・行政・司法関係の重要人物を収容する。定員3000人。地下岩盤と巨大鉄扉に保護された897の事務室や会議室、936の宿泊用個室や浴室などがあり、空気・水・冷暖房を自前で供給する能力をもつ。
案内をしてくれた64歳の技術主任は、ここに29年も勤務している。彼に入口でガスマスクを渡された。外部と完全に遮断されるため、万一空調設備が故障すれば命にかかわるからだ。
入口付近には、連結式電気自動車のほか、自転車が沢山並んでいた。ドイツ人は28インチのスポーツタイプを好むが、ここでは狭い坑道内の移動に適する、日本でいう「ママチャリ」が使われていた。どれにも黄色いガスマスクが付けてある。
2時間近くかけて見てまわったが、設備はどれも老朽化が進んでいた。コントロールセンターにも入ったが、モニターテレビなど、どれも一時代前のもの。180人いるという職員も、年輩者が多かった。冷戦が終わって10年。全面核戦争の可能性はなくなり、この施設の存在を知る人は少ない。だが、ここで働く人々のルーティーン・ワークは、地上の国家機関が消滅するような「有事」が起き、国家の要人たちが来たとき、いつでも空気・水・食事を提供できるようにしておくことである。
政府機関のセクターに入る。首相執務室でさえ、八畳程度で狭い。備品は机と電話だけ。ベッドも兵舎で使う標準タイプ。「太ったコール前首相は、このベッドには寝られない」と笑う。
97年12月、財政緊縮の中、政府はこの施設の売却を決定。だが、買い手はあらわれず、この「冷戦の遺物」は間もなく閉鎖される。これと人生を共にした技術主任の定年も近い。ママチャリに乗って施設内を走る長身の彼の姿が目に浮かぶ。
※写真キャプション(上から)
1.3キロメートルの長さの核シェルター
2.核シェルター入口の自転車。ガスマスクが見える。
3.定年間近の「核シェルター管理人」と筆者(右)。核シェルターの入口で。
■水島 朝穂(みずしま・あさほ)広島大学総合科学部助教授を経て、96年より現職。主著『現代軍事法制の研究』(日本評論社)、『武力なき平和』(岩波書店)、『ベルリンヒロシマ通り』(中国新聞社)、『オキナワと憲法』(法律文化社)、『この国は「国連の戦争」に参加するのか』(高文研)ほか多数。
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