映画「インデペンデンス・デイ」(R・エメリッヒ監督)。画面構成とサウンドの迫力で多くの観客を動員したが、中身は「異星人=侵略者」というシンプルで大味なもの。国連安保理さえ登場しないアメリカ主導の平和回復。しかも、核兵器まで使って。80年代の「ET」「未知との遭遇」などに見られた「異星人との交流」路線は吹き飛んだ。こんな無邪気な映画(ビデオ)に金を出すくらいなら、この本を読もう。コーヒー一杯より安い値段で、脳髄をしっかり刺激してくれる充実した内容は、いまどき貴重である。 初めて読んだのは、高校時代、国立市の古本屋で見つけた船山信一訳(十一組出版部、1946年6月初版)である。裏表紙の帆船の絵が、ミスマッチな感じだったが、中身のインパクトは強烈だった。第1条項「将来の戦争の種をひそかに保留して締結された平和条約は、決して平和条約とみなされてはならない」(以下、引用はすべて岩波文庫版から)。この項を読みながら、「70年安保」に揺れた当時の状況が生々しくダブったのをはっきり記憶している。 第3条項「常備軍は、時とともに全廃されなければならない」。軍事費増大が国内経済を圧迫し、戦争に向かう。常備軍の存在そのものが先制攻撃の原因となるという指摘は鋭い。 第6条項「殱滅戦では、双方が同時に消滅し、それとともにあらゆる正義も滅亡するから、永遠平和は人類の巨大な墓地の上にのみ築かれる」という下りも、核戦争批判の視点を支えた。 カントは、国内的には、自由と平等に基づく体制(共和制)を、国際的には、自由な諸国家の連合体を要求した(第1、第2確定条項)。これが国連の理念的基礎を提供したことはよく知られている。だが、「冷戦の終結」が語られる昨今、国連の役割やその評価も単純にはいかなくなっている。第5条項「いかなる国家も、ほかの国家の体制や統治に、暴力をもって干渉してはならない」。長らく国際関係の大原則だったが、「人権干渉」あるいは「人道的介入」との関係で新しい論点も生まれている。人権侵害にいそしむ独裁国家や、国家崩壊で殺戮が行われる地域に「国際的な強制力」を行使することは、「公的武力行使」として正当化されるのか。その場合、判断の客観性を確保することは可能か。少なくとも、五大国の利害が露骨に絡む国連の現状からすれば、「公的武力行使」の安易な承認は危険であろう。また、武力行使という手段そのものの問題性もある。 「相対化の時代」がいわれる現在、「譲ることのできない一線とは何か」を考える上で、この本の問題提起は依然として有益である。憲法の平和主義や国際協調主義の問題を深く理解したい人に必読の書といえる。さらに勉強したい人には、A・カウフマン/竹下賢監訳『正義と平和』ミネルヴァ書房、深瀬忠一『戦争放棄と平和的生存権』岩波書店、坂本義和「相対化の時代」『世界』1997年1月号を推薦しておこう。 |