「新聞を読んで」 〜NHKラジオ第一放送
      (2001年08月11日午後4時収録、12日午前5時30分放送)

1.慰霊ということ

6日の広島、9日の長崎から15日の「終戦記念日」まで、ちょうど3日おきに人の「生と死」をめぐる重要な日が続きます。今日12日は、群馬県御巣鷹山の日航123便墜落事故の17回忌です。『毎日新聞』10日付は、「事故を風化させてはならい」と、慰霊登山を続ける遺族のことを伝えています。遺族の一人は、「亡くなった人への思いは、これからもずっと変わらない。おじいちゃんが登れなくなったら、お孫さんに引き継がれ、世代交代は確実に進んでいる」と語っています。遺族の高齢化と体験の継承はここでも問題になっています。
 明日8月13日は、東西冷戦の象徴「ベルリンの壁」が建設されて40年の日です。「ベルリンの壁」自体は1989年に崩壊しましたが、それが建設されてから40年目を前に、Die Weltというドイツの新聞の11日付は、壁が存在した28年間に、壁(国境)を超えようとして、旧東独政権によって殺害された市民が、少なくとも960人にのぼるという新しい研究結果を公表しました。そのなかには、40人の女性と30人の子どもが含まれているそうです。今週のドイツの新聞各紙には、壁をいまだに支持する人々がいることや、逆に壁の犠牲者の家族の納得のいかない複雑な思いなどを伝えています。特に、壁崩壊直前に殺された20歳の青年の母親は、毎年この時期になるとマスコミの取材にさらされます。「あと9カ月待っていたら、息子は向こう側に行けたのに」という一言をとるために。
国を問わず、家族や親しい者を失った人々にとって、「その日」は決して忘れられるものではありません。毎年「その日」が近づけば、「その場所」「その時間」までもが、親しき者たちへの思いとともに、特別の意味をもってきます。日本では、8 月6 日から15日まで、「慰霊」という活字が新聞紙上で最も多く使用される時期ではないかと思います。 『広辞苑』によれば、「慰霊」とは、「死者の霊魂を慰めること」とあります。霊魂の存在を信ずると否とを問わず、人が、何らかの形で死者をしのび、思い起こすこと、と言い換えてもいいでしょう。それは、生きている者が、身近な者、親しき者を失ったことを再確認し、その喪失感と向き合い、自らを納得させる営み、そして、生きている者が自らの生を再確認する行為でもあります。それ故に、「慰霊」とはすぐれて個人的な営みであると思います。強制されたり、あるいは禁止されたりするような性質のものでないことはもちろん、個人には、心の安定と静寂のもと、自然な流れのなかで、心静かに亡くなった人々を偲ぶ場所と時間が確保されることが大切だと思うのです。憲法は、人がこれを宗教的信仰に基づいて行うことを人権として保障するとともに、そうした環境や条件を確保するため、政教分離という形で、国や公の機関が宗教的活動をすることを禁止し、国家の宗教的中立性(非宗教性)を要求しています。

2.首相の靖国神社参拝問題

 今週は、この信教の自由と政教分離が鋭く問われる出来事が現在進行形です。首相の靖国神社参拝問題です。小泉首相は今現在、靖国参拝についての最終的態度を明らかにしていませんが、数日以内に結論がでることでしょう。今回の特徴は、中国や韓国などの周辺諸国の反発から、この問題が外交問題になっていることです。ここでは外国のリアクションの問題は省略し、もっぱら慰霊と憲法上の論点にしぼって、新聞各紙の論調を見ていきたいと思います。
 まず、『読売新聞』と『毎日新聞』夕刊は今週、「靖国・考」という同じタイトルの連載を行いましたが、内容もトーンもかなり異なりました。『毎日』は、靖国を拒否する戦争体験者や遺族の話を紹介するなど、靖国への反発や複雑な感情も紹介しています。『朝日新聞』はこの問題では一番詳しく、7日付から「戦争の死者をどう悼むか」という連載を開始。学者や専門家を二人ずつ登場させ、論点を明確化しようとしているほか、夕刊文化面では作家・井上ひさし氏らを連日登場させて、問題を多面的に明らかにしようとしています。さらに、10日付から第一社会面トップで「靖国・新世紀の夏に」の連載を始めました。初日は外岡秀俊編集委員が担当。特攻隊関係者等への取材をもとに、「祈る心、場所選ばず」「毎年参拝するが、それが一本の棒でもいい」という見出しをつけ、「哀悼も、魂も、ひとくくりにはできない」と結んでいます。共感できる文章です。
 靖国参拝問題に関する各紙社説は見解が分かれました。まず『朝日』は9日付で、「平和の礎(いしじ)と靖国の距離」と題して、23万8161人の一人ひとりの名前が116基の黒みかげ石に刻まれた、沖縄の「平和の礎」を紹介しながら、「あの当時の敵も味方も、一般住民も将校も兵も、国籍も何も問うことなく、判明したすべての人の名が刻印されている。世界に例のない慰霊の形である」と書き、天皇の「忠臣」をまつるために創建され、陸・海軍省が所管し、いまもその性格が滲み出る靖国神社は、その対極にある、と指摘しています。地方紙の社説は、『神戸新聞』5日付「熟慮して再考を求める」、『河北新報』5日付「熟慮したならやめるべき」、『信濃毎日新聞』9日付「慎重熟慮して中止を」、『中日新聞』9日付「8.15は千鳥が淵へ」等々、批判的トーンが有力でした。
 他方、『読売新聞』9日付社説は、「首相はもう参拝を中止できない」と題し、「今やめれば、自民党総裁選の時から断固として掲げ続けてきた『信条』を、外国の圧力に屈して曲げた、という形になる」と書き、『産経新聞』10日付社説は、「靖国神社参拝を断念したり、日をずらすことになれば、国民の信任を失う事態になる。首相は初志を貫くべきである」と迫っています。『毎日』は7月26日にこのテーマの社説を出しているからでしょうか、今週は一度も社説では触れず、10日付コラム「余録」が、小泉首相の「熟慮」の変遷を皮肉るにとどまりました。
 さて、私は憲法研究者として、首相の靖国公式参拝について、憲法上の問題点を指摘せざるを得ません。『読売』9日付社説は、1977年の津地鎮祭訴訟の最高裁判決を引きながら、公の機関の関与は一定の範囲内なら合憲としていますが、首相の参拝問題と、体育館の工事と関連した地鎮祭に対して自治体が関与したケースとは同様に議論はできないでしょう。津地鎮祭の最高裁判決は、公の機関が宗教団体との関わりをもつ場合、目的が宗教的な意義をもち、その効果が特定宗教団体に対する援助・助長・促進になったり、他の宗教団体に対する圧迫・干渉にあたるかどうかを見極めのポイントとしています。このいわゆる「目的・効果基準」自体いろいろと問題があるのですが、しかしこの基準を厳格に適用して、憲法違反とする判断も下級裁判所で出ています。最高裁自身、97年4月に、愛媛玉串料訴訟で、愛媛県が靖国神社の玉串料やみたま祭の献灯料として公金を支出した行為を憲法違反と判断しています。靖国神社に国の機関である首相が参拝することは、体育館の地鎮祭のような、宗教的行為と習俗的行為との線引きが微妙な問題とは異なります。影響の程度も格段に大きいと言えます。
 『毎日新聞』10日付特集面は、「首相・閣僚の靖国公式参拝に関する司法判断は、違憲(ないし違憲の疑い)が主流といえる」と指摘し、91年の仙台高裁判決を紹介しています。仙台高裁は、85年の中曽根首相の公式参拝に対しては、その目的、態様、影響からして、国と靖国神社との宗教上のかかわり合いは相当限度を超えるとして、「国及びその機関は…いかなる宗教的活動もしてはならない」と定めた憲法20条3 項に違反すると判断しました。県の上告を最高裁が却下しているので、この仙台高裁判決の憲法判断の部分は重要な意味を持ちつづけています。このほかにも、首相の靖国公式参拝をめぐる訴訟では、92年の大阪高裁判決が傍論の中で違憲の疑いを指摘し、同時期の福岡高裁判決も違憲性を示唆しています。他の下級審判決は公式参拝の憲法判断に踏み込んでいません。つまり積極的に合憲であるという判決は存在しないわけで、むしろ違憲ないし違憲の疑いが濃厚という下級審の傾向は無視できません。最高裁の判決だけが重要であるとか、判決主文だけが大切で、判決理由の傍論は無視せよなどという意見は、乱暴な議論という意味での暴論だと思います。ですから、津地鎮祭訴訟の最高裁判決を根拠に、首相の靖国公式参拝の憲法上の問題がクリアされたことにはならない、と言えるでしょう。
 小泉メールマガジンで「24時間総理大臣」と述べている小泉首相のことですから、私人として参拝するといっても、ワイドショーのカメラも含めて多数の人々をひきつれて参拝するわけで、仙台高裁の違憲判決の言葉を借りれば、首相の参拝は、「国の行為が靖国神社を公的に特別視し、これに優越的な地位を与えているとの印象を社会一般に生じさせ、特定の宗教への関心を呼び起こす」可能性がきわめて強いと言わざるを得ません。憲法をしっかり踏まえた「熟慮」の結果を期待したいものです。
 では、戦没者の慰霊の問題はどう考えたらいいのでしょうか。『朝日』6 日付の投書特集などを見ても、国民のなかにさまざまな意見や感情があることに注意する必要があります。日本女子大学の成田龍一教授は、『朝日』8 日付で、「死者は多様だ。アジアには、あの戦争による無数の死者がいる。日本に限ってみても、空襲で亡くなった人も、敵前逃亡で処刑された人も戦争の犠牲者だが、靖国には祀られていない。首相が参拝することは、多様な死者の中から『国に尽くす正しい死に方』を公定することでもある。死者の選別と序列化だ」と述べています。靖国神社の過去の役割やその性格を考えたとき、アジアからの厳しい眼差しだけでなく、靖国に祀られている246万6344柱の関係者や遺族のなかにも、複雑な感情があることは無視できません。冒頭に申し上げたように、「慰霊」というのはすぐれて個人的な営みです。参拝に行くべきだとか、行くべきでないという形で、人の精神生活に有形・無形のプレッシャーを感じさせる環境は好ましくありません。「参拝を断行する」という言い方や、「首相はもう参拝を中止できない」という『読売』社説のトーンは、言葉の真の意味での慰霊という営みからは、かなり距離があるのではないでしょうか。亡くなった人と静かに向き合える環境をつくるという意味からも、『朝日』6日付が紹介する、無宗教による国立墓苑構想などについて、本格的な議論が必要だと思います。