1.自衛隊、イラクへ
2003年最後の「新聞を読んで」になりました。「今年最大の出来事は何か」と問われれば、3月20日に始まった「イラク戦争」を挙げることに誰しも異論はないでしょう。5月1日にブッシュ大統領が「戦闘終結宣言」をしてから間もなく8カ月になります。米軍兵士の死者の数は、12月26日付『朝日新聞』によれば、「戦闘終結宣言」以前よりも多い206人に達しました。6月1日のこの時間でも紹介しましたが、米国などの市民団体が出している「イラク・ボディ・カウント」(http://www.iraqbodycount.net/) というホームページには、イラク人犠牲者の数がカウンターに刻々と出てきます。このスタジオに来る前に確認したところ、現在のところ最低でも7960人、最高で9792人になっていました。
そのイラクに向け、年明けには陸上自衛隊の派遣が始まります。この26日、輸送任務にあたる航空自衛隊の先遣隊が出発しました。『毎日新聞』27日付「クローズアップ」の表現を借りれば、対空ミサイル安全策に課題を残したままの「年内駆け込み派遣」です。
今月9日に自衛隊イラク派遣基本計画が閣議決定され、18日にイラク派遣実施要綱が承認されて、24日、航空自衛隊のイラク派遣部隊の編成完結式が空自小牧基地で行われました。25日付各紙は、申し合わせたような同じ紙面構成で、一面ハラに、空色に塗装したC130 輸送機とその前に整列する隊員のカラー写真を置いて、「首相、イラク派遣・空自編成完結式で激励」と報じました。受けの第1社会面では、特に『東京新聞』が「息子の身案じる母」「心境複雑・無言で見つめる家族」というややエモーショナルな見出しをつけ、『産経新聞』『読売新聞』の社面受けの記事とは対照的でした。19日付コラム「産経抄」は、こうした「イラクに行かないで」という声に対して、「日本人はいつからこんな情けない民族になってしまったのだろう」というトーンです。
そうしたなか、「『国民代表』として送りだそう」というタイトルの『読売新聞』26日付社説が目をひきました。「中東への石油依存度が高い日本がイラク民主政府建設に協力し、地域の安定に寄与するのは、まさに国益にかなう。今後、テロや大量破壊兵器の拡散など、様々な『新しい脅威』に自衛隊をどう活用するのか、という観点からも、今回のイラク派遣の意義は大きい」と書いています。この「国民代表」という表現には違和感を覚えました。「国益のために行く人たち」という表現も出てきますが、「国益」の定義も一義的ではありません。自衛隊をイラクに派遣することについては、どの世論調査をみても、批判的な声は確実に存在します。
イラク派遣部隊の中心は北海道の第2師団です。地元『北海道新聞』は連日詳しく報道してきました。『北海道新聞』19日付によると、道内28市長村議会が派遣反対の意見書を出し、慎重な対応や条件を付ける意見書も26議会にのぼります。札幌市長は派遣反対を打ち出し、北海道知事も道議会で「慎重に判断されるべきだ」としています。
日本の南端の沖縄ではどうか。『沖縄タイムス』25日付によると、糸満市議会が「イラクの自衛隊派遣に慎重な対応を求める意見書」を賛成多数で可決したのですが、そのことをめぐって今週2日間も議会が紛糾したことを伝えています。『琉球新報』21日付社説は、同社が行った県民世論調査の結果を踏まえ、賛成13%、反対53%の意味を分析しています。米軍によるイラク占領に加担することを反対理由に挙げる人が3分の1にのぼることは、沖縄県民が、米軍による長期の占領体験と基地の重圧を受けてきたことと重なると指摘しています。望ましい復興支援策は「国連主導で進めるべきだ」という意見が89.4%に達する点も注目されます。占領と基地の重圧を体験した沖縄では、「米国一辺倒のイラク復興支援策」への違和感が他の地域より強いことがわかります。『産経新聞』27日付社説のように、「不安定な地域における平和構築と復興支援という戦後日本が目をそむけてきたリスクを伴う国際共同行動への胸を張っての参加である」と断言できるでしょうか。
2.外交文書公開と劣化ウラン弾
そもそもフセイン独裁政権に統治されていたとはいえ、58年前の国連創設時の原加盟国51カ国の一つであるイラクという国を完全に崩壊させ、今日の無法状態をつくり出したのは、ブッシュ政権によるイラク攻撃が最大の原因です。「武力行使やむなし」とされた根拠は、イラクが「大量破壊兵器」を隠し持っているということでした。フランスやドイツをはじめ国連加盟国の圧倒的多数と、世界中の世論が査察強化を求めていたのに、ブッシュ政権は武力行使に踏み切りました。戦争の最大の根拠である「大量破壊兵器」は未だに見つかっていません。それどころか、25日の米国CNNによれば、イラク開戦前の1月、ブッシュ大統領が一般教書演説で「イラクがウラン購入を試みた」と述べ、これが武力行使に向かう流れを促進したのですが、この演説内容が事実でなかったことが後にわかり、調査委員会もできて調査した結果、CIAとホワイトハウスがこの演説内容をきちんと確認しなかった「単純ミス」によるものだと結論づけられました。ミスがミスを呼び、国民をだます意図はなかった、と政府高官は述べたといいますが、これでイラク戦争を始めた根拠はさらに怪しくなったといえるでしょう。
たまたま今週24日付各紙は、終戦から60年代後半までの外交文書が公開されたことを詳しく伝えています。そのなかで、1964年8月、北ベトナムの魚雷艇がトンキン湾で米駆逐艦を攻撃したとされる「トンキン湾事件」について、当時の日本政府の対応に関する資料も公開されました。この事件をきっかけに、米国は「自衛権の発動」として北ベトナム爆撃を開始しました。しかし、これが米軍のでっちあげであったことは今や常識です。『東京新聞』24日付によれば、今回の外交文書公開で、実は日本政府も米国の謀略性を1964年当初から認識していたことが明らかとなりました。日本政府は40年近く前から、米国による謀略に気づいていながら、米国の行動を「自衛権の発動」として一貫して「理解し、支持します」としてきたわけです。米国に過剰に肩入れする今の日本の外交政策にも、共通する問題があるのではないでしょうか。米国の「イラク戦争」開始の根拠の怪しさ、また、復興支援事業についての論功行賞的な仕切り(戦争に協力しなかった国の企業を排除するなど)などを見ると、現段階での「イラク復興支援」を前記『産経』社説のように「国際共同行動」とまで言い切ることには躊躇せざるを得ません。
25日発売の『ニューズウィーク』(12月31日/04年1月7日合併号) でコロンビア大学のキャロル・グラック教授(日本現代史)は、「〔自衛隊の〕派兵決定には明らかに、アメリカの圧力だけでなく、日本のナショナルな(そしてナショナリスティックな)利害がからんでいる。つまり、そこにはアメリカの威圧とともに日本の共謀もある」と指摘しています。現地の安全性に不安があることを承知で派遣する首相と、今週現地サマワに2 時間ちょっと滞在して「安全性を確認した」とした連立与党・公明党の神崎代表の政治責任は重いでしょう。神崎代表のサマワ視察については、いくつかの新聞が社説を出しています。『毎日』26日付社説は、「自衛隊派遣に歯止めをかける役回りから旗振り役になったのか」と書き、『徳島新聞』23日付社説も、神崎代表の「安全宣言」が、「派遣にお墨付きを与え、派遣の流れを加速させる」「公明党は大きな責任を負ったことになる」と書いています。『愛媛新聞』24日付社説は、神崎代表の「安全宣言」は「かつての公明党であれば、考えられなかったスタンス」と指摘。神崎氏の視察が「極めておざなりのもの」だと3点にわたり述べています。オランダ軍司令官が「散髪に出掛けるときも単身で行った」という発言について、たまたま日本人ジャーナリストが撮影したビテオに警備兵が周囲を固めている映像があること、神崎代表は攻撃されないよう隠密に視察したのだから、常にオープンな活動を強いられる自衛隊の安全度を測る根拠とはならないと書いています。
なお、現地の安全性との関連では、劣化ウラン弾の問題もあります。『読売新聞』21日付は、劣化ウラン弾による放射能汚染対策として、隊員全員に放射線測定器〔線量計〕を携行させる方針であることを初めて報じました。劣化ウラン弾は核兵器製造過程でできるウラン238で「核のゴミ」とされるものです。貫通性にすぐれ、戦車の装甲などを撃ち抜く反面、毒性が大変強いのが特徴です。米軍A10攻撃機のPGU14/B徹甲焼夷弾の貫通体には、一発につき300グラムの劣化ウランが含まれていて、燃焼と同時に0.001から0.1ミクロン単位の微粒子となって周囲に飛び散ります。体内被曝をすれば癌、白血病、先天性異常出産などを引き起します。カナダに本部を置くウラニウム・メディカル・リサーチ・センターのドラコヴィッチ博士の調査によると、バスラ周辺で異常出産が目立ち、派遣予定地のサマワも汚染されているといいます。湾岸戦争時、米軍はイラク南西部で320トンの劣化ウラン弾を使用。地域の住民だけでなく、従軍した米兵からも身体異常がでています。この10年あまりで22万人の元米兵が障害者として認定されています。『北海道新聞』24日付は、隊員が携行する放射線測定器(線量計)は通常ガンマ線を計測するためもので、劣化ウランは主にアルファ線を放射するので安心できないとして、自衛隊が派遣されるサマワ周辺の本格的事前調査が必要だという専門家の声を伝えています。
3.年の瀬「第9」エピソード
さて、最後は年末らしい話題でしめましょう。年の瀬、日本では「第9」のコンサートが各地で行われます。『朝日新聞』21日付コラム「天声人語」は、ベートーベン交響曲第9番にちなんだ3つのエピソードを綴っています。まず、「第9」の日本初演は、1918年6月。徳島県鳴門市の板東捕虜収容所のドイツ兵捕虜が演奏したのが最初とされています。第1次大戦で日本はドイツと戦いました。来年は第1次大戦開戦90周年ですが、大戦中、中国の青島(チンタオ)で捕虜にしたドイツ兵が鳴門の収容所に3年間収容されました。所長の松江大佐は捕虜を寛大に扱い、自由に外出もできました。「45人のオーケストラに90人の合唱団〔捕虜が男声用に編曲〕という堂々たる編成」。ちなみに、鳴門市のドイツ館には、当時の楽器や楽譜も残っています。2つ目のエピソードは、第2次大戦で日本が敗色が深まった1944年夏、東京大学で行われた出陣学徒壮行会での演奏です。「食料難著しいころである。頼まれたオーケストラは『体力不足で第9は無理だ』と渋ったが、第3、4楽章だけでも、ということで実現した。切迫した空気のなかで流れた第9は格別の感動をもたらしたことだろう」と「天声人語」は書きます。3つ目のエピソードは、最近のヨーロッパ連合(EU)の憲法制定の議論のなかで、EU憲法草案に「第9」の第4楽章「歓喜の歌」が統合のシンボルとして採用されたことです。独仏が賛成し、英国と北欧諸国が渋ったが、結局草案に盛り込まれることになりました。でも、憲法自体の論議が難航し、成立のめどは立っていません。「年末にかけて日本各地で演奏される第9は、歴史の波にもまれながら、様々な人々に感動を与えてきた。『苦悩から歓喜へ』。劇的な展開をするこの曲は、時代や国境を超えてなお引き継がれていくだろう」と結んでいます。
「天声人語」は触れていませんが、1989年「ベルリンの壁」崩壊直後のクリスマス、東ベルリンで、東西ドイツと占領4カ国のオーケストラと歌手がレナード・バーンスタイン指揮で「第9」を演奏したことがありました。その時、バーンスタインは、第4楽章のFreude(喜び)をFreiheit(自由)と歌わせるという歴史的一回性の粋な「演出」をしました。これを加えれば、第1次大戦、第2次大戦、冷戦の終結、そして「ヨーロッパ憲法」へと、歴史の節目において、「第9」は常に国境を超えて、人々の心を一つにしてきたといえるでしょう。今年はこのへんで失礼します。みなさん、どうぞよいおとしを。
※時間の関係で、実際の放送では若干カットした箇所がある。