私が担当している法学部の専門科目「法政策論」の授業に一人のゲストを、教授会の承認を得てお招きした。
信太正道氏、72歳。海軍兵学校74期。神風特別攻撃隊員として出撃待機中に敗戦。京大卒業後、国家公務員キャリアとして運輸省に入り、海上保安庁航路啓開本部に勤務。朝鮮戦争において、韓国南岸一帯の機雷掃海活動に従事した。海上警備隊から航空自衛隊に転出し、ジェット戦闘機の訓練教官となる。1957年に自衛隊を退職(一等空尉)。日本航空に移り、27年にわたり国際線機長として世界の空を飛ぶ。日航を定年退職した86年から平和運動の道に入り、ゴラン高原PKF違憲訴訟原告団代表を務めている。
海外邦人救出に自衛隊機を使う動きが出てきたとき、信太氏はいち早くこれに反対した(『朝日新聞』93年10月13日付「論壇」)。「私は自衛隊と民間航空のパイロットであった。熟練度において、1万時間以上の国際線飛行時間を有するパイロットが何百人もおり、世界の空を知り尽くしている民間航空会社と、自衛隊では比較にならない。緊急時には、高度の国際線の経験を必要とする。…将来とも、国際線の経験を積む機会が少ない自衛隊に出る幕はない。海外邦人としても、命が惜しいのなら、あわてずに、民間パイロットが操縦する赤十字機の救援を待つべきだろう」。
信太氏の近著『最後の特攻隊員』(高文研)を読むと、彼の経歴そのものが、現在の「周辺事態」問題へのさまざまなヒントを与えてくれる。たとえば、新ガイドラインでは、海上自衛隊の掃海部隊が公海上で「機雷の除去」を行うとされているが、それが戦闘地域と「一線を画される」地域に限られないことは、信太氏の朝鮮戦争時の体験が先取り的に教えてくれる。
また信太氏は、ゴラン高原・国連兵力引き離し監視隊(UNDOF)への自衛隊派遣を違憲と主張している。最近、その派遣期間が8月31日まで延長され、それに伴い、第7次隊の編成が下令された。今度は福岡の第4師団から43人が派遣される。装備は拳銃9、小銃32、そして機関銃2である(『朝雲』98年12月17日付)。全員が武装するわけだ。ルワンダに自衛隊を出すとき、「一丁の機関銃」についてあれだけ問題になったのに、今ではマスコミはほとんど触れない。ゴラン高原は派遣人数が少ないとはいえ、カンボジアやモザンビーク派遣とは異なる性格の任務であり、実質的に武力行使の可能性の高いPKFだというのが信太氏の主張だ。緊急直言で触れたPKF凍結解除問題も、民主党の賛成で実現の方向であり、信太氏の「現場を知り尽くした人の平和論」はますます重要になっている。
講義終了後、信太氏が持参した著書20冊はすべて売り切れ、教室にはサインを求める列が出来た。こんなことは滅多にない。どんな職業に就いても、「個」を貫く生き方はできる。とくに公務員をめざす学生たちには、彼の生きざまは刺激的だったようだ。何人かの学生が信太氏を取り巻き、場所を変えて議論が続いた。