「護憲政党」という誤訳 2000年10月23日

月私の手元には、洋書カタログが数社から届く。先日その一冊をパラパラとめくっていて、一瞬手が止まった。黒枠で囲んだ注目書のタイトル訳が『護憲政党』になっている。原題を見ると、Michaelis,Lars Oliver, Politische Parteien unter der Beobachtung des Verfassungsschutzes, Nomos-Verlag 2000. 直訳すれば『憲法擁護の監視のもとにある政党』。「護憲政党」というと「憲法を守る政党」というイメージだが、実際の内容はまったく逆。ドイツの憲法擁護庁(連邦および州)という公安機関の監視対象となる政党、いわば「反憲法的政党」と見なされている政党のことである。ネオナチ政党やドイツ共産党がそれにあたり、50年代に連邦憲法裁判所の違憲判決が出たことはすでに触れた。本書はその後の展開を法的に詳しく分析したものだ。注文の際、その洋書会社にミスを指摘したところ、責任者からお礼の手紙が届いた。データベースなどの訂正を直ちに行ったとのことで、誠実な対応だった。

「護憲政党」で思い出したのだが、日本では60年代半ば、「護憲」か「憲法改悪阻止」かということが深刻に議論されたことがある。旧社会党の「護憲」の主張に対して、共産党は、憲法の「民主的・平和的諸条項」を守るのであって、それは「憲法改悪阻止」だと旧社会党を厳しく批判。共産党にとって、象徴天皇制条項と9条2項(戦力不保持)は、将来の改正の対象だった。その意味では、「進歩的改憲政党」ということになる。ところが、90年代になり、一方の旧社会党が細川政権、村山政権を通じて自衛隊・安保合憲論に「転進」するや、共産党は憲法9条の「先駆性」を強調するようになり、9条2項は将来も改正対象にしないというニュアンスの方針を打ち出す。市民のなかにはこの党を「護憲政党」と見る人々も出てきた。だが、この1年ほどの間に、「9条の完全実施への接近の過程」における「自衛隊問題の段階的解決」をいうようになり、「急迫不正の主権侵害」の際に「自衛隊の活用」が党大会に基本方針として提案され、たいした論議もなく「全員一致」で決定される気配だ。新聞の地方版を見ると、すでに兆候があらわれている。例えば、広島ではこの党の参院選挙候補が、自衛隊容認は「当たり前のことであり、歓迎すべきこと」と述べた(『朝日新聞』9月27日付広島県版)。また、静岡では県委員長が記者会見で、「(自衛隊の)必要性は否定できない」「住民が反対しているのは米軍の移転演習。自衛隊の演習はやむを得ない、というのが住民の多数意見だ」と語ったという(同9月20日付静岡県版)。米軍演習には反対するが、自衛隊演習には反対しないというニュアンスだ。北富士、東富士の演習場や、忍野村の入会権をめぐる事件に関わった人々にとって、このあっけらかんとして物言いは到底納得できるものではないだろう。国民の「安全」を守るために「自衛隊の活用」をいう場合、そこには災害派遣だけでなく、防衛出動と治安出動も含まれる。従来はギリギリ「武力なき自衛権」の線にとどまる方針を出していたようだが、今回初めて「武力による自衛」を認めたわけである。この党はそれに「一貫して反対してきた」わけだから、それを「当然のこと」というのはあまりにも不誠実だろう。十分な総括と、国民への説明が求められる所以である。それに、この党は幹部の物言いを聞いていると、憲法9条に関する研究の到達点を踏まえない、議論の粗さが目立つ。こうした不自然な転換は、保守的な人々にとっては薄気味悪いだけだろうし、一方、知的誠実さを大切にする人々にとっては、この党への不信が深まるだけである。丸山真男『忠誠と反逆』(筑摩書房105頁)に倣い、私なりに言い換えると、こうなる。《自我の内部で「平和」と「自由」を徹底して問うことなく「戦争反対」を言ってきた集団的運動は、それ自体官僚化する危険をはらんでいるだけでなく、運動の潮が退きはじめると集団的に「転向」する脆弱さを免れない》。日本国憲法の平和主義の高い精神性は、いずれの側のご都合主義的な解釈にもかかわらず、世界の市民のなかに確実に広まりつつある。