一昨年、ドイツに出発する少し前、『朝日新聞』の「一語一会」に書いた一文がきっかけで、作曲家高田三郎さんのコンサートに招待された。「光の輪」(Licht Kreis) という、高田作品にこだわる合唱グループである。コンサート後のレセプションで初めて高田さんとお話させて頂いた。「君のお父さん、今日の演奏会に来ておられたよ」。レセプションで私も挨拶。父のことに触れた。高田さんは、「よい演奏会には、よい作曲家、よい演奏家、そしてよい聴衆が必要です。今日はすばらしい聴衆が来ておられた」と挨拶された。目頭が熱くなった。高田さんを専門に撮影しているプロカメラマンの方に、ツーショットを撮って頂いた。その1年後、ドイツから帰国してまもなくして、高田さんは86歳で亡くなった。帰国後の再会はかなわなかった。まさに「一語一会」が生んだ「一期一会」になった。高田さんと撮った写真は、いまも研究室の机の上に飾ってある(今年1月の追悼コンサートは、遺影の前で聴いた)。なお、私の「一語一会」の文章は、横浜木曜会という合唱団の会誌『沐陽』2001年1号にも転載された。人は「見えない時間」に吹かれ、磨かれ、そして包まれている。高田さんの心は、いまも多くの人々のなかに生きている。
ところで、法律の世界でも、「時間」の問題は結構重要である。例えば、任期。これは、立法・行政・司法の「水平的分立」と、中央・地方の「垂直的分立」と並ぶ、いわば「時間的権力抑止」である。長期的権力保持を阻止し、人気があっても任期で辞めるという知恵と工夫のあらわれだ。日本の衆院議員の任期は4年(憲法45条)。イギリスやイタリアのように5年、アメリカのように2年のところもある。「憲法はなぜ2年や5年でなく、4年にしたのか」と突っ込まれても、はっきりした答えはできない。また、「内閣は、…10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職しなければならない」(憲法69条)。不信任決議案可決(信任決議案否決)後、総辞職か衆院解散かを決めるリミットは10日である。また、法律は60日、予算・条約は30日、首相指名は10日のうちに参院が可決をしないと、衆院の議決が「国会の議決」となる(憲法59,60,61,67条) 。「衆議院の優越」である。6・3・1 という比率。首相指名は法律よりも緊急度が高いわけだ。でも、「なぜ10日なのか。7日では早すぎて、12日では遅いと言えるのか」と問われても、答えに窮する。当該問題の処理のための「合理的に必要な期間」というものがある、と考えておこう。憲法には、「時間」に関わる部分が14箇所ある。
刑法・刑訴法や民法でも、「時間」の問題は重要なテーマの一つだ。例えば、時効と除斥期間。殺人罪など死刑に該当する罪の公訴時効(逮捕されず逃げ回り、訴追されなくなるリミット)は15年である(刑訴法250条)。詐欺や窃盗などは7年で時効にかかる。殺人罪が窃盗罪よりも公訴時効にかかる期間が二倍以上長いというのは誰しも納得できよう。ドイツのように、ナチス犯罪には時効を廃止した国もある。
民法にも、「時間」に関する規定は多い。その一つ、民法724条後段の「除斥期間」が最近問題になった。「不法行為の時」から20年が経過すれば、損害賠償請求ができないとする規定である。ハンセン病訴訟で熊本地裁は、遅くとも1965年以降に隔離規定を改廃しなかった国会議員の立法上の不作為につき、国家賠償法上の違法性および過失を認定した。同時に判決は、「除斥期間」の起算点となる「不法行為の時」を「らい予防法」廃止時とし、本件には除斥期間の規定の適用はないと判示した。政府はこれに不満で、政府声明で、判決の指摘が従来の判例に反するかのように言っている。そもそも除斥期間が存在する意味は、「法律関係の速やかな確定」にある。つまり、何らかの損害を与えた加害者が、いつまでも損害賠償の裁判を起こされる不安定な地位にあり続けることは、法的安定性の観点からもよくないから、一定の期間経過後に「打ち止め」の扱いをすることにしたわけだ。除斥期間の適用によって不利益を受ける者の損失の中には、一般の取引関係で生ずる損失のように、その後の本人の努力で挽回可能と考えられる性質のものもある。しかし、ハンセン病患者が国の隔離政策によって被った損失は、前者とは明らかに性質が異なる。しかも、「加害者たる国」が、そのような「不安定な地位」に置かれる不利益を被っていたと言えるかは、甚だ疑問だ。今後、国が国民に損害を与えたような場合には、国側が除斥期間経過の利益を主張できないよう法的な縛り(解釈論、立法論)をかけることも必要だろう。熊本地裁判決は、隔離政策の継続を「不法行為の継続」と捉え、隔離政策終了時を不法行為の(終了の)時としたわけで、きわめて妥当な判断と言える。政府声明における除斥期間の主張は、筋違いと言うべきだろう。時効や除斥期間など、「法と時間」に関わる問題を考えると、どんな人でも「見えない時間」に包まれていることを知る。何十年にもわたるハンセン病訴訟の原告たちの「権利のための闘争」が、この国の「法と時間」を動かしたのである。6月7日午後、衆議院本会議は、「隔離政策の継続を許してきた責任を認め、このような不幸を二度と繰り返さない」との決議を、全会一致で行った。「継続を許してきた責任」とは、まさに「時間に対する責任」である。
なお、除斥期間につき、早大大学院生(民法専攻)手塚一郎氏の教示を得た。