大学問題の「現場」に  2001年7月16日

学教員の仕事については、すでに二度(2000年6月12日12月4日)書いた。毎週90分10コマの授業をこなしながら、原稿を書いたり、講演をしたり、学内行政にも関わっている。今年は国際会議の裏方の仕事が入り、さらに多忙をきわめている。ほとんど休日なしという状況のなかで、この6月、学内の激職に選ばれてしまった。早稲田大学教員組合書記長の仕事である。任期は10月から1年だが、6月から現執行部と行動を共にするので、実質任期は1年半となる。すでに深夜までの団体交渉に2回参加している。「いつの日にか来る仕事と、かねてより聞きしかど、きのうきょうとは思はざりしを」の心境だ。著書の出版計画がいくつもあるが、さらに停滞しそうだ。気分転換とリフレッシュの源になる地方講演(日程上許す範囲内で)を除いては、今後1年半、講演依頼に応じられる機会はさらに減るだろう。ただ、学生・院生の授業と「直言」だけは、いままでと変わらぬペースで続けたいと念じている。
  引き受けてしまった以上、ここはポジティヴ思考でいくことにしよう。幸い、一緒に仕事をする各学部のメンバーは皆すばらしい人々である。こういう巡り合わせがなければ、お話をするどころか、すれ違うことすらなかったであろう。書記局の専従職員の方々も親切で有能である。組合の仕事のなかで、新しい視点やテーマと出会えるであろうと期待もしている。これまで大学内部の問題についてあまり関わってこなかったので、この機会に大いに勉強して、必要な場面で発言していきたいと思っている。

  いま、大学をめぐる状況は危機的と言われている。18歳人口は、1992年に団塊の世代の子どもたちが205万人いたのをピークに、その後どんどん減少。2009年には120万人台になる。入試をやっても全員合格、文字通りの「大学全入時代」の到来である。すでに2000年度、全国の私立大学471校中、定員割れが3割弱に達しているそうだ。短大はさらに深刻で、453 校中、5割以上が定員割れの状態という。200 人定員の半分しか学生がいなかったら、その大学はどうなるか。学生納付金が激減し、大学財政を圧迫するだけではない。定員割れした大学は、私学補助金の交付が制限される(私学振興助成法5条3号)。定員割れは、大学の存続にとってまさに死活問題なのである。その影響は、大学において重要な役割を果たしながら、その地位がきわめて弱い非常勤講師にも直ちにおよぶ。かつて参院文教委員会は、「私大経常経費の50%補助」を目標として、その速やかな実現を求める決議を行った(1975年7月)。だが、政府はこの決議を一貫して無視。私学助成を削減・抑制してきた。現在、私大経常費に占める補助金の比率は11.9%(1999年度)にまで低下している。「無駄な補助金を削減せよ」という一般受けする物言いにつられて、私大への補助金を削減すればどうなるか。大量の学生を私学に任せておきながら、補助金を減額するのは無責任と言わざるを得ない。「痛みを伴う構造改革」の名のもとに、もともとの弱者だけでなく、新たな切り捨ても進行している。いま、国立大学は「独立行政法人化」の波の直中にある。大学をもっぱら経済の効率化の観点からいじくりまわした結果がどうなるか。そこで失われるものは限りなく大きい(全国大学高専教職員組合編『国立大学の改革と展望独立行政法人化への対抗軸』日本評論社参照)。

  他方、私立大学でも、経営側の強引な手法が目立つ。早大でも、2学部4研究科の新設(再編)をはじめ、「拡大路線」として批判されるような計画が進んでいる。学内の合意形成が不十分で、見切り発車的側面があることも否めない。経営サイドの危機感は、構成員に直ちに共有されるわけではない。危機感が一人歩きして、強引な手法と結びつく場合もある。民主主義は討論と合意が前提だが、危機の時代には「迅速な決断」が称揚される。だが、「決断」の突出は、真の指導力とは別物になることを知るべきだろう。
  いずれ大学教授の失業者も珍しくない状況が生まれる。大学教員の労働条件はいまどうなっているか。待遇や研究・教育条件を向上させ、学生に夢を与えるようにするにはどうするか。10コマも授業をやっていると、著作を書いたり、創造的なアイデアを出すエネルギーが失せていく。ロースクール(法科大学院)が出来れば、さらなるコマ数増加が予想される。これでは過労死する教授も出かねない。だから、労働条件の改善の課題はきわめて重要である。こうした問題に直接関わってこなかった私が、その先頭に立たねばならなくなった。ただ単に批判するだけでなく、具体的な対案も提起していかねばならないだろう。大変な仕事だが、その職に就いた以上は徹底してやる。1年半の「壮大な時間の浪費」なんて言わせないよう、この分野でも何らかの問題提起をしていきたいと思っている。
  仕事は「課せられる」ものである。やりたい仕事ばかりではない。ドイツ語にAufgabeという言葉がある。「任務」「職責」「課題」という意味のほかに、「断念」「放棄」という意味もある。動詞のaufgebenは、最初の意味が「あきらめる」「断念する」だから、何かの仕事に就いて努力するという任務や課題というのは、「あきらめる」という心境と紙一重で結びついているように思う。何かをあきらめ、断念することで、新たなものに向き合う。それがその人にとって、その時の任務であり、課せられた仕事だとすれば、それに全力でとり組むしかないだろう。ちなみに、Aufgabe にはもう一つの重い意味がある。「使命」である。使命とは、「命の使い方」と読める。いま、この瞬間の自分の命をどう使うか。あきらめ、断念するものの大きさ、いとおしさを心に留めながら、1年半、自分のAufgabeのために努力したい、と懸命に自分を励ましているところである。