有事関連法案の骨格が見えてきた。ただ、3月中に閣議決定できず、4月9日、さらに16日と延び延びになっている。タイトルも「平和安全確保法」とやら。略したら「平安法」か。有事法制をめぐる動きについて、3月18日に参議院議員会館で講演したが、その講演を載せたいというメディアがいくつもあった。そのなかで、『社会新報』4月3日付は私の顔写真入りで長めの文章を載せたが、事前のゲラチェックはなく、突然「掲載紙」が自宅に届いて驚いた。こういう雑な対応をされると、秘書給与問題にも共通する脇の甘さを感じざるを得ない。
『週刊金曜日』編集部も講演記録のまとめを送ってきた。これは4月5日号(No.406)に掲載された。「直言」としては異例の長文になるが、全文を収録することにしたい。
特集・増殖する有事法制――有事思考を超えて 水島朝穂
今日届いたドイツ連邦議会軍事オンブズマン(防衛監察委員)の年次報告書(3月12日付)の紹介から始めます。軍事オンブズマンは、軍隊内における人権侵害や待遇問題について、将校・下士官・兵士からの請願に基づいて調査をおこなう議会補助機関です。予告なしに部隊を訪問して部隊長に質問したり、資料提出を求める権限を持っています。
報告書によれば、この1年間に4891件の請願があり、そのうち人事や人間指導に関する事項が7割近く。そこには、軍のリストラと外国出動の増大の影響が見られます。現在、連邦軍約30万人のうち、外国に約1万人が派遣されています。たとえば、アフガニスタンの首都カブールに876人、同国南部のカンダハルには特殊部隊92人がいます。報告書から、外国出動でさまざまな矛盾が起きていることが分かります。
◆「先輩国」のドイツが陥ったジレンマ
ドイツは、憲法(基本法)を改正することなく、連邦憲法裁判所の判決を根拠に、NATO域外派兵を「定着」させ、1999年にはユーゴ空爆に参加しました。そして今、"テロとの戦い"と称してアフガンでの戦闘作戦行動に参加しています。しかし、もともと国防軍としてつくられた徴兵制の軍隊です。冷戦後、他国(地域)に派兵される介入型軍隊に改編されつつありますが、予算は削られ、待遇も十分でない。軍事オンブズマンは、「職務の意味に対する疑念」が高まっていると述べています。軍人の間に不満と士気の動揺が存在することを読み取ることができます。
ところで、アフガニスタン国際治安支援部隊(ISAF)の一員としてカブールに駐留しているドイツ兵2人とデンマーク兵3人の計5 人が3月6日、ミサイル爆発事故で死亡、8人が重軽傷を負いました。戦後、日本と同じようにいろいろな「負債」を抱えて出発したドイツが、ついに戦闘行動の中で戦死者を出したことは象徴的です。ドイツ世論はいま、大きなショックを受けています。政権内部からも米国への軍事協力の拡大への批判が出てきましたし、軍事オンブズマンも、新たな外国出動には反対と語っています。
「金しか出さない」と非難されたドイツ。「人も出そう」と派兵を始めるや、次々と任務を押しつけられ、ついには1万人もの軍人がドイツ国外に駐留するはめになった。でも、イラク攻撃については、さすがのドイツ政府も、「国連安保理決議がない限り、ドイツ連邦軍は参戦しない」という態度をとっています。
英国のブレア首相だけが米国の単独行動を支持しましたが、英国軍幹部からは反対意見も出ています。ようやく世界の国々は、「ならず者国家」と勝手に認定した国に対して米国が性急な軍事行動をとることに対して距離をとるようになりました。
ところで日本は、4分の3周遅れでドイツを追いかけています。1周遅れだと結局同じ位置になるんですが、4分の3周遅れだから惨めなんです。おたおたとついていくなかでインド洋に護衛艦を出し、国内では有事法制を整備しようとしているわけです。
旧西ドイツは1956年と68年に憲法(基本法)を改正して、軍事法制と"完璧な"緊急事態法制を整備しました。軍人の基本権制限を憲法に規定する一方、軍事オンブズマン制度や強力な議会統制のシステムをつくる。また「有事」の確定を「合同委員会」というミニ非常議会に委ねるなど、執行権の暴走を防ぐ安全装置を随所に盛り込みました。
一方、日本はどうか。小泉純一郎首相が集団的自衛権に関して「憲法前文と9条には隙間、あいまいな点がある」とか、自衛隊の武器使用に対して「危機に瀕している仲間を助けるのは自然の常識でできる」などと答弁する、「隙間と常識」の国ですから、うかうかと法律整備はできないのです。
しかし、最近、与野党を含めて若い世代の政治家たちは、戦争体験や軍隊体験がない分、きちんと法律で定めればOK、憲法で緊急権を明確にした方がいいというあっけらかんとした発想をします。私は、これを条文フェティシズムと呼んでいます。
破防法にしろ軽犯罪法にせよ、基本的人権を侵害するような運用をしてはならないと書いてありますが、現実は甘くはない。問題は、緊急事態に関する法律が実際にどう機能するか、運用されるかという点と、政府が運用する能力を持っているかの2点です。
阪神・淡路大震災のとき、災害対策基本法や災害救助法など既存の災害救助法制を十分に運用すればかなりのことができたにもかかわらず、政府は運用できなかった。今回の有事法制では、「有事」の際には対策本部をつくるとなっており、本部だけは小泉さん先頭に仰々しくつくるようなんですが、そういうシステムを作ったからといって、それを運用する政治側の能力の問題を抜きにして考えるわけにはいきません。
だからもうすぐ出てくる有事関係法案について考えるとき、そのようなシステムが戦後の日本で初めてできる結果、なにがもたらされるか先を見なければなりません。
ドイツという"先輩"が、いわば完璧な緊急事態のシステムを持っていながら、なおかつジレンマで苦しんでいます。ということは、問題は法律の条文ではない。市民と政治の関係、この国の政治の構造的な問題との絡みで考えなくてはいけません。政治が腐敗し、また大人も子どもも簡単に人を殺してしまう社会の歪みのなかで、有事法制が暴走しない保証はかなり低くなってきています。
◆有事法制の当面の狙い
有事法制をめぐる研究は着々と進んでいるようでいて、84年に第2分類(他省庁所管の法令)の報告が出されて以来、あんまり「進歩」がないのです。その理由は2つあります。一つは憲法との整合性がやはり問われるので、改憲論の進み具合との関係がいま一つしっくりしないという事情がある。改憲によって憲法に緊急権規定を入れたいのでしょうが、そう簡単ではない。改憲なしでどこまでやるかという見極めでも一致が見られないのですから、今後もいろいろと紆余曲折はあり得ます。もう一つは国内法だけでなく、国際法がかかわってくる分野です。国際法の分野との調整も結構むずかしい。有事法制の研究対象について、従来の第1、第2、第3といういわば縦割り的な分類をやめようというのが小泉さんの考えです。そこで彼は包括的な法という言い方をした。
私は包括法と聞いたとき、緊急事態法を正面から出してくるのかと思いました。つまり、対外的緊急事態=戦争、対内的緊急事態=内乱・暴動、そして大規模災害という3類型を包括する緊急事態法制です。しかし国会に出てくるのは「外部からの武力攻撃事態に対処する法制」に限定しているので、包括という言葉の意味がかなり狭いんですね。
しかし、その包括法を通そうとしても憲法があります。憲法の存在価値はまだ大きいのです。第1に、日本国憲法の徹底した平和主義の観点からすれば、軍を中心とする執行権に権力を集中する国家緊急権のシステムを導入することはできません。それならばと、正面から改憲をして緊急権を導入せよという動きもまだ有力ではありません。
一番問題となっているのは基本的人権の侵害です。民間人にも「有事」の際に自衛隊への協力を罰則付きで義務づける。具体的には、建設・運輸・医療で働く人々に対して従事命令や、物資の保管命令を罰則付きで出してくることになります。これは災害救助法による災害時の権限を、戦時にもスライドさせる手法なのですが、自然災害と究極の人災である戦争は同じではない。大規模災害で、たとえば被災者のために食料を確保するため、物資の保管命令を知事が出して、これに強制力を持たしても誰も反対はしないと思います。それが、「ブッシュの戦争」に協力するから物資を保管しろ、反対したら逮捕だと言ったとき、さすがに国民の同意を得ることはむずかしいでしょう。
そこで今回の「限定」が出てきました。つまり、日本に対する武力攻撃事態に絞る。日本国民が危険にさらされるという点で、一応大規模災害と同じと見做すわけです。いくらなんでもインド洋上の米軍に送るための物資の保管命令を罰則付きで強制することはすぐには無理だという読みです。でも、忘れてはいけないのは、いったん法的な枠組みができると、次から次へとスライドして使われることです。92年にPKO協力法を制定するとき、池田行彦防衛庁長官(当時)は、旧社会党などの「上官命令で撃ったら武力行使になるんじゃないか」という追及に対して、「個々の隊員の判断を束ねることはありうる」という方便で逃げ切りました。ところがその後、PKO協力法24条が改正されて、上官の命令による発砲が可能になりました。個々の判断に委ねて勝手に撃った方が危険だという"常識論"が、上官命令を正当化していったためです。その後は、周辺事態法もテロ特措法も、武器使用は,PKO協力法にあわせて、上官命令になりました。
だから今回、「日本が攻められた場合だから、国民の人権が制約されてもやむを得ない」という論理に乗ったら最後、いずれ海外における米軍への武器補給その他についても準用されていくのは見えています。だから、武力攻撃事態における人権制約を認めてはいけないのです。
◆有事が不寛容を正当化する
そもそも、新たな有事法制を必要とする立法事実があるのかが問われなくてはなりません。法律をつくるにあたりそれを必要と認める事実が納得がいく形で示されているかどうかですが、有事法制を必要とする客観的事情を誰も説明できていません。
西元徹也元統幕議長が『朝日新聞』のインタビューにこう答えています。「有事法制の必要論が盛り上がっているなか、もう1回、領域警備の問題や根本的なテロ対策に引き戻すと、また2年、3年とかかってしまう。再び、忘れ去られる危険性が十分にある」(3月8日付朝刊)。いまつくらないとできない――これが、唯一の立法事実です。
もう一つ、政府側の立法事実は「集団的自衛権の行使」を可能にすることです。つまりドイツがやったように、自衛隊が米軍とともに作戦行動を展開できる枠組みをつくりたいわけです。ただ、集団的自衛権というと米国のためのようですが、実は日本のためです。日本の権益保護のために自衛隊をいわば、武力による威嚇の道具として使おうとしています。自衛隊は端的に言って戦争ができる軍隊ではありません。戦争ができないようにつくられました。しかし、これを武力による威嚇のカードに使おうとしているから、自衛隊内部からも異論が湧いています。「私は日本国を守るために自衛隊に入った。しかし、これは日本のためではないではないか。なんのために私は命を捨てるのか」という疑問です。つまり誰のために死すか、という最も重要な士気の部分がいま揺らいでいます。
先程述べたように、"先輩国"ドイツでも、士気は揺らいでいます。国防のためなら死のうと思っているのになぜカブールで死ぬのか。説明がつかない。
軍事オンブズマンの制度があれば、こういう軍隊内部の声が議会に届くんです。日本は届かない。だから日本でも、この制度をつくる必要があると私は考えています。
有事法制はどの国にもあるのだから、「備えあればうれしいな」という程度のものと考えてはいけません。それが突破口となって、軍事力で威嚇する国へと、日本が形を変えていくのです。外交のカードに軍事力を使う国への離陸が始まりました。
一方で、「有事」は「不寛容」を正当化します。「有事」という発想をした瞬間、日ごろ進歩的な主張をする人が自国民中心思考に陥ります。たとえば、だれがテロリストかわからないといって、米国は1000人ぐらいのアラブ系住民を拘束しています。600人がまだ弁護人とも会わせてもらっていない。合衆国憲法違反ですね。でも、「今回は例外だ」といって、リベラル派でもこれに賛成する人々が出ています。
有事思考には、民族的・思想的・宗教的マジョリティを「国家」の名において統合する作用もある。進歩的な考え方の人も一緒になって、マイノリティを排除する方向に進む。
そして有事法制は、仮想敵国(民)を前提にするため、国内における当該国(民)に対する悪感情あるいは不当な取り扱いが懸念されます。ここが重要です。有事法制をつくっただけで、どこが敵なのかを想定することになります。このことは、ようやく日本が獲得してきた、二度と戦争をしないというメッセージを葬り去る可能性さえ含んでいます。
拉致事件の問題は、ずいぶん前からわかっていたのに、なぜかこのタイミングで警察から情報が出てきました。もちろん拉致された人々は確実に存在するし、一刻も早く家族のもとに返させなくてはなりません。大変重要な問題です。しかし、こうした問題までも、有事思考を高めるために政治的に利用しようとする動きがある。注意が必要です。
私は、有事思考によらない安全保障の道を一貫して提言し続けてきたものとして、安全保障を国まかせにしない考え方が大切だと思います。平和のアクター(担い手)は、いまや国家だけでなく、NGO(非政府組織)や市民そして自治体に移ってきました。
たとえば、対人地雷条約の締結など、国家だけでなく、さまざまなNGOが加わって国家中心の条約システムを変えています。こういうときに日本がなぜ、カチカチの鎧のような発想で有事法制をつくるのか。このタイミングで有事関連法案を通すことは、アジア諸国や世界の市民に対して、日本がさらに軍事行動に踏み込むという誤ったメッセージを発することになる。有事法制のもつ重大な問題性がここにあります。
私たちは、途方もない根気と忍耐でもって、人を傷つけないで安全を守る枠組みをつくらなくてはなりません。9.11テロでその姿勢を崩したらダメです。今国会に提出される「限定された有事法案」に惑わされることなく、その先にある重大な問題点をしっかり見据える必要があります。
〔『週刊金曜日』406号(2002年4月5日) 掲載〕