雑談(27)踊れない大捜査線 2003年8月18日

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ーメンに次いで、お盆・夏休みモードの「雑談」続きで失礼。大学教員の場合、一般の人々が休んでいる時こそ、貴重な仕事(執筆)の時間である。とはいえ、たまには家族との時間も捻出する。先日、妻につきあって映画に行くことになった。タイトルを聞いて一瞬腰がひけた。「踊る大捜査線――レインボーブリッジを封鎖せよ!」(東宝、フジテレレビ)。目下、全国的に大ヒット中の織田裕二主演作品である。公開から27日間で650万人を突破したというから、日本映画としてはすごい数字だ。近隣の市の映画館に向かう。平日なのに席は8割方うまっていた。ほとんどが若者で、私たちのような年輩者は一人もいない。ちょっと気恥ずかしい思いもしたが、実はこの作品には思い出がある。1999年のドイツ滞在中、娘がこの作品のビデオを、大使館員の家族から借りてきた。一緒にみたが、これが結構面白かった。撮影中の事故で制作中止に追い込まれた「西部警察」(石原プロ、テレビ朝日)とは違って、派手なアクションよりも、警察組織とそこでの人間関係にポイントが置かれている。

  ちなみに、娯楽作品とわかっていても、「西部警察」は明らかに度を越していた。2001年11月に国家公安委員会規則「拳銃取り扱い規範」が改正され、拳銃使用の要件が緩和されて以降、実際の現場では、安易に拳銃を使用するケースが目立ってきた。悲惨な犯罪事件がワイドショーなどで繰り返し取り上げられることもあって、一般市民のなかに報復的感情も強まっている。そうした状況のもとでの「西部警察」の復活を、私個人としては危惧していたところだった。

  というわけで、「西部警察」がこけた一方で、「踊る大捜査線」がヒットしているというのに、少しホッとした気持ちになった。もちろん、そこでの警察の描き方がすべて肯定できるわけではない。しかし、キャリアとノンキャリアの対立を単純化・パロディ化して描くので、警察組織・人事について多少の知識があれば、けっこう楽しめる。市民の身近な事件に取り組む青島俊作(織田裕二)や恩田すみれ(深津絵里)、それをやさしく見守るベテランの和久平八郎(いかりや長介)らに感情移入しながら、観衆は「警察は一体誰のためにあるのか」という問いかけに共鳴していく。市民警察の理想を熱く体現する青島らと、それをサポートするキャリア組の室井慎次警視正(柳葉敏郎)を軸に話は展開する。民間会社のような描き方もするので、自分の上司に重ねて笑っているOLも少なくないだろう。刑事モノというよりは、サラリーマン物語という面が強い。前作では、そのあたりがクリアに出ていたので、それなりに面白かった(ドイツでみたということもあろうが)。しかし、今回の作品は、ヘリコプターや車両を派手に使い、ロケも大規模になっている分、ストーリー展開と人間関係の描き方に難が出ている。各地で制定が進んでいる「生活安全条例」や監視カメラの問題も取り入れたり、道路公団民営化問題をあてこすった場面もあって、前作以降の世の中の動きも反映されている。公開中の映画のため、「ネタバレ」はルール違反になるから(←もうやっているじゃろうが、の声)、警察組織の描き方に限定して感想を述べておこう。

  作品のウリでもあるキャリアとノンキャリアの矛盾という面で言えば、今回はやや単純化されすぎたきらいがある。特に、捜査本部長に本庁捜査一課の女性管理官(真矢ゆき)を据えたはいいが、この東大卒の警視正の言動に無理があるのだ。脚本にも粗さが目立つ。「結局、女性のキャリアが無理して…」というのではあまりにさみしい。前作では、所轄署と警視庁中枢との対立構図に特化したため、それなりの緊迫感を演出できたが、今回は不完全燃焼を起こしていた。ここまで警察組織の細部(ディティル)にこだわる作品は少ないだけに残念である。ちなみに、ホームページの「人事課」を開くと、登場人物の経歴が詳しく出ている。出身大学から昇進時期、部署、海外渡航歴などが実際に近い形でリアルに書かれている。室井警視正(柳葉敏郎)が東北大法学部出身で、一度降格されて復活したという経歴も初めて知った。クールな顔に東北弁の妙は、作品のなかで瞬間的に発揮される。作品は、組織なんか必要ないという若者に対して、「組織も捨てたもんじゃない、問題は上に立つ指導者の資質とリーダーシップだ」というメッセージを出したいようだ。緊急事態における首相のリーダーシップが喧伝されるご時世だから、決断力ある指導者が見事に仕切って、組織が一気に引き締まり、成果をあげるというパターンである。しかし、そこに安易に感情移入すると危ない(特に特殊急襲部隊〔SAT〕の動き方)。

  青島刑事は大学卒業後、コンピューター関係の会社で営業をやり、その後警察官になったという想定だ。青島も恩田も階級は巡査部長である。警察法62条により、警察官の階級は9つに分かれている。巡査、巡査部長、警部補、警部、警視、警視正、警視長、警視監、警視総監である。巡査長は階級ではなく、巡査部長試験に合格しないが、巡査を長くやっている警官に付けられる。作品の舞台となる湾岸署にも、いろいろな階級の警官が勤務している。湾岸署の幹部、ドタバタ3人組。署長は警視正、副署長が警視、刑事課長は警部である。渋い演技が光る和久平八郎は巡査長で定年を迎え、作品中では嘱託の扱いだ。なお、警察職員(皇宮護衛官、事務職、技術職を含む)は全国で267599人である。警察庁に1431人、都道府県警察に230186人(国家公務員である地方警務官を含む。2000年4月現在)。このうち警視庁が44000人でダントツだ。警察法施行規則(総理府令44号)附則(平成10年総府令15・一部改正)の「階級定員」によれば、警視総監1人、警視監36人、警視長(警視正を含む)533人である。キャリア組の合計は570人ということになる。警視総監は警察の最高階級であると同時に、東京都警察の長の職名でもある。警視監は警察庁の局長や主要県警本部の本部長になる。26万人のうちの570人というのは、全体のわずか0.2%である。国家公務員Ⅰ種試験〔旧上級職甲種〕に合格したキャリア組は、大学卒業後22歳か23歳で警部補になる。高卒で巡査になり、交番に長く勤め、外勤の激務の合間に巡査部長試験にやっと合格し、定年目前で警部補になって退職という人が多いなか、キャリアの昇進スピードは超特急だ。都道府県警察の職員のうち、警視までは地方自治体で給与を負担するが、警視正以上は一般職の国家公務員(地方警務官という)である(警察法56条)。同じ警察署に勤務していても、給与の出所が違うわけだ。作品に登場する35歳の女性警視正は、大学卒業後22歳で警部補。2年後には警部。大学卒後11年で警視正ということになっている。警視正で署長になれば、署内の部下すべてが地方公務員に対して、ただ一人国家公務員である。作品中に、警視庁のことを「本店」、所轄署を「支店」という隠語が出てくる。湾岸署の署長(警視正)が、ひたすら「本店」を気づかい、接待に励むのも、やや描き方は極端だが、そういう構造が背景にある。彼らの頭は、職場や部下のことよりも、他のポストに昇進するまでの間、「大過なく」そのポストを維持することだ。「本店」「支店」は警察隠語辞典にも出てくる。だが、こういう警察の組織構造にはやはり問題がある。

  戦前は、内務省警保局のもと、全国の警察は国家警察として一元化されていた。戦後改革で、自治体警察と国家地方警察に分かれた。しかし、「市民と密着しすぎた」自治体警察の「不祥事」が喧伝され、結局、1954年警察法改正で現在のような警察組織に変えられた。都道府県公安委員会が警察をチェックする仕組みも形式化し、警察庁を頂点とする中央集権的構造が出来上がった。米国では、連邦警察であるFBIと州警察の関係は明確である。警察の中心は地方にある。FBIの活動は特定されている(テロ、麻薬、誘拐殺人などの重大犯罪)。ドイツの連邦刑事警察庁(BKA)は、ドイツ基本法の制定過程の資料を読むと、端的に「FBIをモデルにした」と書かれている。日本は連邦制をとらなかったため、都道府県警察の権限は、人事権を軸にして警察庁に握られている。警備(公安)警察という面では、この国の警察は完全な国家警察である。都道府県警の警備部(+警視庁公安部)は、警察庁警備局長に直結している。こうした構造が、大なり小なり、犯罪捜査の場面などにも反映している。1994年警察法改正による生活安全部の設置以降、自治体・市民警察になれない日本警察が、上から市民の生活に過度に「密着」してきている。生活安全条例などにそれが現れている。日本の警察改革の主眼は、やはり警察庁を軸とする中央主権的仕組みをいかに改めるかにある。1990年の「警察改革要綱」でも「Ⅰ種採用者等の人事管理の見直し」が指摘されているが、全く不十分である。私は、警察組織の根本的改革は、新しいタイプの自治体警察をつくることだと考えている。地方分権を一貫させるのならば、それが望ましい。組織にとって人が決定的に重要である。「踊る大捜査線」のテーマもそこにある。警察官の人事制度も根本的に改変し、今日のような9階級を廃止する。当該地域の警察のトップには、その地域に信頼される人物を選ぶ。直下型人事方式は廃止する。キャリア養成も根本的に改める。これは公務員制度改革全体に通ずる課題だし、民間企業における人事のあり方にも関わる。「踊る大捜査線」にエールを送る多くのサラリーマンやOLは、柳葉のような人物が上司になってほしいと密かに思いつつ、不器用だけど真っ直ぐな青島たちに共感するのだろう。この作品は、そうした日本のいまの組織(人事)のありように対する欲求不満のはけ口なのかもしれない…。ということを見おわったら話すに違いないと察知した妻に、「映画評は聞きたくない」と先手を打たれてしまった。そこで誰かに話したいというわけで、急遽「雑談」で放出させてもらったわけである(微苦笑)。

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