オリンピックも終わり、テレビをつけても「ガンバレ・ニッポン」コールが聞こえなくなったので、やっと落ちついた。開会式での韓国・北朝鮮の合同入場。アジアにおける平和的転換の兆候として、ポジティヴに評価することができる。もちろん楽観は許されない。だが、アジアの枠組に関わる巨大な動きが始まったことは確かだろう。ところで、オリンピックや朝鮮半島の状況を伝えるニュースには、「国民」ないし「民族」という言葉が多用されている。当然のことながら、オリンピックでは国旗や国歌がやたら目立つ。選手もまた「国民の期待に応えるため」という形で、「国家」を背負う。1964年の東京オリンピックは小学校5年のときだったが、甲州街道沿いでマラソンの応援をした記憶がある。ヒタヒタヒタッという不思議な音が近づいてきて、一人の選手が駆け抜けていった。エチオピアのアベベ選手である。淡々とした走りは美しかった。その後ろに日本の円谷幸吉選手が続く。彼は銅メダルを獲得するが、「勝たねばならない」という重圧、「国家」を背負ったプレッシャーに押しつぶされ、悲壮な遺書を残して自殺してしまう。それに比べ、今回のオリンピックでは、日本選手のあっけらかんとした表情やパフォーマンスが印象的だった。特にマラソン金メダルの高橋選手の走りには、オリンピック無関心の私も熱中してしまった。表彰式で日の丸が挙がるシーンになるとチャンネルを切ってしまうのだが、この時だけはずっと眺めていた。いい表情だった。「サラッとしたナショナリズム」(拙稿「日本の気分はルート3」参照)という点からすると、具合のいい役者たちなのかもしれない。
相変わらず、『サピオ』や『正論』などには排外主義と紙一重の議論が溢れるが、思わぬ方向からもナショナリズムの臭気が漂ってきた。四半世紀ほど前まで「インターナショナル」を歌っていた共産党が規約改正を行い、「国民の党」を押し出すという。党員の資格要件も「日本国民」であることが前提とされる。外国人の地方参政権が注目される時代、ことさらに国籍要件を押し出すアナクロニズムには驚くばかりだ。従来から「民族の自由」(自由概念の誤用!)とか「新の愛国主義」、「救国と革新」といった言葉が好きな党だったが、「国民」や「民族」を強調することの危なさへの自覚に欠けている。さて、愛国主義という点で言えば、ドイツのドルフ・シュテルンベルガーが1970年1月から使い始めた「憲法パトリオティズム(愛国心)」という概念が重要だ(D. Sternberger,
Verfassungspatriotismus, 1990, S. 387)。この概念は79年の「歴史家論争」のなかで、より論争的な概念として用いられるようになる。彼はいう。「愛国心を定義し、使用し、それを持つことはむずかしい。だが、もっとむずかしいことは、それを持たないことである」。J・ハーバーマスはいう。「国民全体は価値についての実質的なコンセンサス(合意)によって結合するのではなく、正当な法制定や正当な権力行使のための手続に関するコンセンサスを通じてのみ結合することができる」(J. Habermas,
Die Einbeziehung des Anderen, 1999, S. 263 f.)。ドイツ統一の際に、「ドイツ民族」が前面に出てきたが、「憲法愛国主義」の議論は、これに対する批判的視座を提供するものだった。簡単に言えば、民主主義国家においては、国民は、祖国愛とか愛国心とかいったものではなく、共通の憲法のもとに、その規範価値のもとに統合されるという考え方である。だから国家の統一も、単なる国民(民族)や国ということだけでなく、共通の法原理から導き出されてくる。なお、日本の憲法改正の議論のなかでも、「日本人(民族)にふさわしい憲法」といった怪しげな議論が横行しているので、この「憲法愛国主義」の視点は重要だろう。11月3日は、憲法公布54周年記念日。
〔なお本稿は、オリンビック終了直後の10月3日に執筆した予定稿である〕