先月のアジア太平洋経済協力会議(APEC)でのこと。途上国首脳が、ITは電気のない地域には恩恵がないと発言したところ、日本の首相は、「今はiモードの時代である。電気がないところでも、携帯電話で情報がやりとりできる」とやった。電気のない地域で、どうやって携帯の充電をしろというのか。日本の首相は「途上国の悩みにむとんちゃくに、都市生活に慣れきった発言をしてしまった」(『朝日新聞』11月16日付夕刊)。「パンをよこせ」とベルサイユ宮殿に押し寄せる群衆を見て、王妃マリー・アントワネットが「パンがなければケーキを食べればいい」と語り、民衆の怒りをかった話にも例えられた(同17日経済面・山田厚史)。こんな首相の口から、21世紀もITという言葉が出てくるのかと思うと、気分が重い。昔、「知りすぎたのね」という歌があったが、どうでもいいことは知らない方がいいこともあるのだ、とも思う。ふと、机の横の切り抜きの山を眺める。そこに、いまの気分にぴったりの評論を見つけた。日刊新聞(die tageszeitung)という名前のド イツの日刊新聞9月8日付評論。タイトルは「知らない権利」(Recht auf Nichtwissen)。要旨は次の通り。インターネット社会はコンピュータ知識を要求し、生活・職業体験の重要性を無視する。ドイツ人の3分の1は定期的にインターネットを使っているが、これからは、いかなる知識が有用か、誰が「価値ある」知識をもっていて、誰が「価値のない 」知識しかまだ持っていないのか、が問われる。これは、新しいステータスの問題になる。重要なのは、知識の経済的な利用可能性だ。それは情報社会では、いかに多くの知識をセレクトし、普及し、かつ移転するかに関するノウハウである。これに対して、純粋な事実に関する知識は、今日ほど急速に古くなるときはなかった。長年の生活経験や職業経験 は、ほとんど役立たない。歴史データを集めることや聖書の知識なども、とりたてて重要なことではなくなる。INFA世論研究所の調査によれば、聖書の4つの種類を全部言えるのは、ドイツ人の20%しかいないそうだ。聖書は金儲けにならないから。コンピュータやインターネットに関わる能力は別のようで、IT能力は、読み・書きと同様、文化の技術になっている。インターネットを利用し、情報をもち、柔軟で稼ぎのいい人々がいる一方、インターネットに接続出来ない人は「現代的な文盲」ということになる。そうしたなか、「情報のエコロジー」が必要となっている。誰でも「知らない権利」をもつ。あるいは「知のエコロジー」。これには、情報の受け取りを拒否する権利だけでなく、「古い能力」の 価値評価も含まれる。たとえば、老人介護や育児は、常に同じ能力、すなわち、忍耐と感情移入能力を要求する。要するに、「情報のエコロジー」には、多くの人間が多くのこと を知ろうとせず、かつ、自らその結果を負担するならば、そういうこと(多くを知らないこと)を求める権利を有するという認識が含まれるのだ、と。この評論の指摘は傾聴に値する。いま、携帯電話で大声で話しながら歩く輩は減ったが、携帯メールを読むため、前かがみになって歩く人の姿をけっこう見かける。大学の講義で私語が減ったのは、無言で「私語メール」をやっているからだという記事も読んだ(毎日新聞10月21日付)。いつでも、どこでも、心も体も携帯電話(メール)に支配されてしまった人々の姿を見ると、「情報のエコロジー」の必要性を思う。溢れる情報の海のなかで、本当に大切な情報、本当に必要なことを見分ける能力が落ちているのではないか。これからますます情報・通信技術が発展していくなかで、われわれ自身の思考のなかで、情報の整理や位置づけを意識的にしていかないと、やがては「知の崩壊」がやってくる。携帯電話・メールの便利さの「副作用」はけっこう深刻だと思う。ちなみに、「携帯電話を持たず、使わず、持ち込ませず」というわが家の「非携帯3原則」のうちの第3原則は、家族のなかで私が3対1で圧倒的少数派となり、もろくも崩壊した。これを書いている書斎にも、妻の携帯の着信音が聞こえる(クソッ)。