経済不振と政治不信はとどまるところを知らず、外に「不審船」、内には不審人物が犯罪の機会をうかがう。殺伐とした世情を反映してか、冷酷無残な犯罪が目をひく。そういうご時世には、手っとり早い結論が好まれる。しかも、短いフレーズで。例えば、「やったらやり返せ」「ゲームは終わった。やつを倒せ」「疑わしきは罰せよ」「凶悪犯はすべて死刑に」等々。『正論』『諸君』といった雑誌の広告には、感情剥き出しの派手な見出しがおどる。他方、死刑に批判的な言説に対しては、「自分の家族を殺されてみろ」といった粗暴な言葉が浴びせられる。
死刑制度は古の昔からある。残虐な犯罪も、凶悪な犯罪者も昔から存在する。犯罪者に家族を奪われた被害者の悲しみは、昔もいまも変わらない。親を殺された息子が仇討ちに向かう。時には返り討ちになることも。そういう無数の悲劇の繰り返しのなかで、いつしか私的制裁や復讐が禁止され、国家が暴力を独占して、犯罪者に刑罰を科す仕組みができた。これは人間の知恵だった。その国家刑罰権もまた、誤用・濫用が後を絶たず、冤罪も無数に生まれた。「疑わしきは罰せず」を軸とする近代的な刑事手続システムが定着しても、誤認逮捕、誤起訴、誤判、そして誤った処刑は防げない。1989年の死刑廃止条約を契機に、国家刑罰権の行使から生命刑(死刑)を除く国が徐々に増えてきた。2002年末現在、死刑全廃国が76カ国、通常犯罪について廃止した国が15カ国、執行せずの事実上の死刑廃止国が20カ国。計111カ国が死刑を行わない国となった。死刑存置国は84カ国。先進国では米国と日本のみで、残りは北朝鮮、中国、イラン、イラク、キューバ、アフガン、パキスタンといった国々である。イスラム国やアジア・アフリカの途上国が圧倒的だ。日米両国は、死刑存続という一点において、ブッシュの命名になる「悪の枢軸」諸国と見事に連帯している。もっとも、イスラム国のトルコはEU加盟をにらんで、昨年、一足先に死刑廃止国(通常犯罪について)になった。
日本と米国だけは、世界の趨勢から取り残されている。国民意識もそうである。日本では近年、犯罪被害者の「人権」という物言いで、市民一人ひとりに保障された刑事手続上の人権を、市民自らが縮減・縮小する主張が目立つようになった。「迅速な裁判」(憲法37条)ということから、「早く死刑判決を出してほしい」「判決が出たら早く死刑にしてほしい」といった勘違いも生まれている。「迅速な処刑」が犯罪被害者の「人権」の実現であるかのごとき発言さえある。犯罪被害者の救済と死刑とは筋が違うのである。
さらに、「9.11テロ」以降、米国では、構造的疑心暗鬼ともいうべき、監視・予防の仕組みが作られている。法に基づく適正な手続(デュー・プロセス)を世界に普及してきた国が、いまや、「10人の無辜を処罰しても、1人のテロリストを逃すなかれ」の勢いで、国内法も国際法も蹴散らして突き進んでいる。もっとも、米国も一枚岩ではない。あるデータによると、2002年12月末現在、38の州で死刑は合法だが、そのうちの8州で執行が行われておらず、12の州では死刑が廃止されているという。死刑に積極的な州と否定的ないし消極的な州の割合は3対2である。2002年に死刑が執行されたのは71件。死刑囚の数は3697人である(Der Spiegel, Nr.4 vom 30.1.03)。
そうしたなか、この1月に米国で目のさめるような出来事が起きた。ブッシュ大統領がテキサス州知事時代、死刑の熱心な執行者だったことはすでに書いたが、そのブッシュと同じ共和党に所属するジョージ・ライアンというイリノイ州知事が、1月11日、167人の死刑囚全員に恩赦(減刑)を与えて、世界を驚かせた。
『朝日新聞』1月13日付によると、こういう話だ。きっかけは、地元ノースウェスタン大学の学生たちが、17年間獄中にいる一人の死刑囚の裁判記録を調べあげ、無実の証拠を発見したことに始まる。知事は州審査委員会に他の死刑囚の調査を指示。その結果、13人に対する判決が不当だったとの報告を受けた。知事は任期切れを目前に決断。大学の教室で教授や学生を前に演説し、その場で167人全員の減刑を発表したのだ。学生たちは総立ちで拍手を送った。知事いわく。「死刑制度は、悪魔的な誤りを犯すリスクに取りつかれている。この州のだれにでも同じように起きる可能性がある」と。死刑反対派のなかからは、ライアン知事にノーベル平和賞をという提案もあるそうである(Der Spiegel, ebd.)。 米国の死刑実務に対しては、国際的な圧力もかかった。2月7日、オランダのデン・ハーグの国際司法裁判所(ICJ)が米政府に対して、メキシコ国籍の51人の死刑囚のうちの、死刑執行間近の3人について、死刑執行を暫定的に見合わせるよう命じたのだ。ICJには個人は提訴できない。事件は、「メキシコ対合衆国」。領事関係に関するウィーン条約(1963年)5条および36条(勾留された派遣国の国民と領事官との面接などの保障)の解釈・適用をめぐって争われた(米国の国家主権に配慮した小田判事の付帯意見がある)。
ひるがえって日本を見ると、法務省も裁判所も死刑について目立った動きはない。むしろ、政治家の動きが注目される。特に、亀井静香自民党元政調会長。彼の顔をアップに使った本がある。どうせ『憲法を改正せよ』だろうと思って見たら、『死刑廃止論』(花伝社)だった。亀井氏は、死刑廃止推進議員連盟(現在、超党派で113名)の会長である。亀井氏は、「報復感情という、いわば人間の本能といったものを、国家が代わって行うということでは、国家としての健全な姿ではない」と述べつつ、「国家権力が、犯罪者に、凶悪犯罪をやったということで命を絶つ…ということは、近代国家においてやるべきでない」と指摘。「死刑には犯罪抑止力はない」と断言する。また亀井氏は、埼玉県警捜査二課長などを歴任した経験を踏まえ、冤罪の原因となる誤った供述をとる可能性を指摘しつつ、「私もはっと気づいて、危ないなと思った経験が何度もある」と告白する。そして、「生きとし生けるものに対する共通の価値観、人間の尊厳についての基本的な考えの重なり合いといったものが、死刑廃止運動によって生まれてくるのではないでしょうか」と結ぶ。小泉政権のもとで「抵抗勢力」の筆頭に挙げられる亀井氏だが、死刑廃止にかける政治信念は揺るぎない。亀井氏にしても、ライアン元知事にしても、長らく死刑制度に賛成してきた保守政治家である。そういう人々のなかから、死刑廃止の動きが生まれてきたことは特筆に値する。日本もまた、死刑の存廃をめぐる根本的な議論を行う時期に来たようである。