年末の憲法談義 2003年12月29日

動の2003年最後の「直言」となった。今回を含め、1年間で52本を毎週UPするとともに、過去6年間の72本を厳選して、『同時代への直言』(高文研)として出版した。このほかに、編著・共編著・共著・分担執筆書を含め10冊近く出版した。現在も10冊以上の仕事を同時進行で抱えており、来年はさらに忙しくなりそうである。じっくり腰を据えた仕事がしたいというのが本音だが、当分は無理だろう。

  さて、大学教員にとっては研究・教育のほかに大学行政上の仕事も多々あるが、そのなかでも各種の入試問題作成は、年間を通して大変な労力と緊張を要求される。学部・大学院を含め、各種入試業務が途絶えることはない。だから、入試問題のミスについては、マスコミや世間と同じようにあきれ、かつ笑うことができない。「いずれ我が身」にならないよう自戒しつつ、他方で、「でも、何でこんなミスをしたんだろう」と密やかにあきれるのである。そんな例の一つが、11月に起きた奈良の某大学の事件であった。
  小論文の問題に11箇所のミスが見つかり(12月2日付各紙) 、テレビのワイドショーなどでも派手にとりあげられた。「微妙」が「徴妙」に、「70年から71年にかけて」が「70年代から71年にかけて」など、お粗末なミスの数々。出題委員が別の教員に問題文の清書(入力)を依頼し、校正も出題委員自身がやらなかったため、出題委員が試験会場でミスを発見するはめになった。ミスというよりも、人の一生に影響を与える入試問題を作成しているのだという緊張感が欠如している。結果的に全員を合格にしたが、それだけ、この試験問題は重大な内容的不備をもっていたことになる。それは、「日本社会の『封建的』な体質に違和感を持ち…」が、「日本社会の『合憲的』な体質に違和感を持ち…」になっていたことと関連しているだろう。論述の展開にとって、このフレーズは決定的な意味をもつ。「封建的」と「合憲的」とでは、答案がまったく違った内容になるからだ。普通に教育を受けた人ならば、この問題文に違和感を持つのは当然だろう。試験委員から依頼された教員が、校正段階でも、何の違和感もなしにOKを出したとすると、これはもう驚きである。そもそも、「日本社会の『合憲的』な体質」とは何だろうか。もし私が受験生で、この問題文にしたがって論述するように求められたら、深刻に悩むだろう。
  まず、「日本社会の『合憲的』な体質に違和感を持ち…」とあるから、出題者は日本社会が憲法に適合しているという認識(これは?であるが)に立っていると受験生なら考えるだろう。「体質」という表現にネガティヴな意味が込められているから、私が受験生なら、この段階でますます理解不能になってしまう。そもそも憲法と社会の関係というのも重要な理論問題である。「憲法と社会」という言葉は、Googleでサーチをかけるといろいろヒットする。「と」をどう考えるかによって、大学の授業の一コマでは終わらない深い問題と関連してくる。これは、憲法が何のために存在するのかとも関連している。近代的な意味での憲法は、第一義的には、国家権力のありようを定め、それを制限することを任務とする。「国家からの自由」を核心とする人権の保障と、権力の分立が重要な不可欠な柱となることはいうまでもない。憲法が国家権力を厳しく限定し、制約するのに対して、社会のありように対しては過剰な介入を慎み、むしろ開かれた性格をもつ。「社会権」という形で、国家が社会に介入することにより実現する権利が登場するのは20世紀に入ってからである。普通の人々(私人)の間の問題に憲法がコミットするには、それなりの論理と段取りが必要なのである。だから、「社会の合憲的な体質」という言葉にこだわってみたわけである。

  さて、その憲法について改憲論議がにぎやかだが、論者によっては「日本国憲法には環境権がないから、環境問題の解決に役立たない」という言い方をする向きがある。そういう人々のなかには、過去において環境保護運動や環境権訴訟に冷たい態度をとっていた人も含まれているからおかしい。憲法9条を改正しなければ、日本の平和と安全を守れず、「国際貢献」も十分にできないという物言いをする人も同様である。いま「日米同盟」オンリーの、非常にかたよった安全保障論がはばをきかせている。そういう人々から見れば、憲法9条は実に邪魔な存在なのだろう。
  そうしたとき、憲法は「問題解決」のためというよりは、「問題創出」の装置ではないかという趣旨の指摘をみつけた。酒井直樹『死産される日本語・日本人』(新曜社、1996年) 所収の「国際社会のなかの日本国憲法」(初出「アメリカから見た日本国憲法――社会性の比喩としての移民と憲法」『窓』1992年秋号)である。酒井氏は米コーネル大学教授(日本思想史、文化論)。以下は、「憲法は社会問題を創出する」という章からの引用である。

…憲法は一見、実現不可能な理念を掲げることによって人びとの間に議論を引き起こす。現存する社会問題を円滑に解決するというよりも、憲法の存在によって、社会的な矛盾が顕在化され、公開の議論の場へともたらされるのである。憲法の役割のひとつは、社会紛争の効率的な解決ということよりも、社会問題の創出にあるようにみえるのである。問題がなければよいという考えとは違って、憲法は、社会問題をつくり出す。だから国民にとしての同一性は、自らも、社会問題をつくることに参加する決意として表現されることが多い。憲法に宣誓することは、憲法に忠実であることを越えて、自分も憲法に基づいて社会問題をつくることに参加する、という意味合いがあると私は思う。
 「憲法とは何か」という問いに対して、憲法研究者とは違った切り口から応答する、実に興味深い指摘である。酒井氏は、「憲法第九条は国境をまたいでいる」という章において、真珠湾と原爆投下を並置する議論を批判しつつ、次のようにいう。
…憲法第九条は復讐の論理による正当性を突き崩すのである。戦争そのものを否定しようとすることで、戦争の悲惨さの経験を、戦争の起こらない制度への欲望へと差し向ける。と同時に憲法第九条は、自国対敵国の二分法による均質な国体建設を不可能にしてしまうのである。そして、個人の死を国体へと同化することを不可能にしてしまうはずである。憲法第九条は、国民国家を死の共同体として表象することによって、国民の主体化をはかる近代の国民国家の典型的な自己制作の技術(テクネー)を、無効にしてしまうのである。
 実に興味深い指摘である。国民国家が持っていた「危ない一線」を乗り越える論理を憲法9 条はもっている。だが、この国は、いま、「国益」のために「死」を求める方向に確実に歩み寄っている。外交官の死も、個人の死としてではなく、「国に殉じた死」として演出されている。いずれ自衛官の柩が羽田空港に到着するとき、国民国家に共通のセレミニーがそこで展開されるだろう。そうしたセレモニーを拒否するのが9条の論理である。そこを見抜く酒井氏の眼力は鋭い。「憲法第九条の可能性」という章からも引用しよう。
…この条文は国際紛争について規定しており、その意味で、国境をまたいでしまっているのであり、このために自衛の問題が、条文に内在する矛盾としてつねに起こってしまうのだ。…憲法第九条の条文が指示する事態が実現するためには、日本の国民以外の人びとの合意が必要であり、この条文は日本国民のみを聞き手として設定することができないように出来上がっている。この条文に自衛の問題が不在であるようにみえるのは、この条文が、日本以外の人びとに向かって言表されるのでなければ、条文としての言行為の役割を果たさないからではないのか。…憲法第九条という発話行為には、古代人が『拡充』と呼んだ事態が、構造的に繰り込まれていると考えざるをえないのであり、国民国家を越えて拡がってゆくというのは、現在の国際社会で認められた合理性に対する問題提起をすることによって、共生の可能性をつくってゆくことが、この条文には発話の構造として設定されているということなのである。
 酒井氏の作品を読むと、憲法9条や人権規定というのは、それをとっかかりにして永遠に問題提起が可能となるような、いわば「社会問題創出装置」であるように思える(特に少数者にとって)。問題解決装置というよりは、「憲法の存在によって社会的な矛盾が顕在化され、公開の議論の場へともたらされる」という理解である。だから、9条も含めてそれらが「古くなる」ということはあり得ないし、同時に「達成された」ということも実はあり得ないわけである。憲法は、「永遠にプロセスを生起させる装置」なのであって、その意味において、「プロセス(過程)としての憲法」という意味が浮かび上がってくるのではないか。この点は、来年以降に正念場を迎える改憲論議といかに向き合うかというときに、一つの視座を提供しているように思う。と同時に、憲法と社会の関係についても、憲法研究者の側が応答する必要を感じる。
 というわけで、今年の直言は、やや専門的で固いテーマで締めくくることになった。読者の皆さん、どうぞよいおとしをお迎えください。来年も本欄をどうぞよろしく。