国家保安省(シュタージ)と黒い手袋
今回も「シュタージ博物館」に向かった。旧東ドイツ国家保安省(Ministerium für Staatssicherheit)本部である。ドイツ語ではsiを「ジ」と読むから「シュタージ」と略称されてきた。ナチスの国家秘密警察のゲシュタポが、Geheime Staatspolizeiの頭文字を続けた言葉であるのと同様である。
滞在するホテルはアレクサンダー広場にあるから、そこから地下鉄5号線(U5)を使い7駅で着く。「ノルマンネン通り20番地」(Normanenstraße
20)。「ベルリンの壁」崩壊前、この地名は人々に恐れられていた。日本で「桜田門から来た」といえば、東京メトロ有楽町線桜田門駅上の警視庁本部庁舎を意味するが、それと同じである。
「ベルリンの壁」崩壊の翌年1月、市民運動の人々は、自分たちがどのように監視され、どのように文書に残されているかを知るため、この建物に突入した。以来、ここは市民運動「反スターリン主義行動」(ASTAK(Antistalinistische Aktion e.V.)が運営に関わり、1990年11月には博物館として一般に公開された。私はちょうど東ベルリンでの生活を始めたところだったので、新聞でそのことを知り、1991年4月6日に初めて訪れたが、それからは、ベルリンを訪れる人たちを案内するために何度も訪れている。
今回はその11回目になる。孫の晃樹をホテルで休ませて、一人でここを訪れた。正面入口から1号館(Haus 1)に向かうと、歩道と車道を区切るポールに大きな黒い手袋がかけられていた。その構図がおかしくて、思わずスマホで撮ってしまった(冒頭の写真参照)。
正面玄関を入ってすぐのところには、一つの像が置かれている。ゾロゾロと入館してきた観光客のグループはこれに関心を向けることもなく、私が撮影しているのを眺めながら階段を登っていった。しかし、この像こそほかならなぬ、フェリックス・ジェルジンスキーその人である。内務人民委員部(NKVD)、国家保安委員会(KGB)の草分け、「反革命・サボタージュ取締全ロシア非常委員会(チェーカー)」の創設者として知られ、レーニンの信頼も厚かった。「革命の時代において、テロルは絶対に必要である」と語り、「すべてが許される」「目的のためには手段を選ばない」という目的論的倫理を打ち立てた。1937年をピークとするスターリンによる「大粛清」を推進したのも、「チェーカーの思想」を体現したNKVDだった。このたった一つの官庁に、「遠隔判決、似非裁判手続、弁護人抜き、予審判事、検察官、裁判官、死刑執行人の役割」が統合されていた(直言「大粛清から70年」)。7桁以上の単位の膨大な数の人々が殺害された(Das Schwarzbuch des Kommunismus, München 1998,S.16)。
なお、10年前にモスクワを訪れたとき、かつてのKGB本部、現在のロシア連邦保安庁(FSB)本部のまわりを歩いたが、壁に貼ってあったのは元KGB議長(後の党書記長)ユーリ・アントロポフのレリーフだけだった(直言「「収容所群島」とグラーク歴史博物館」参照)。ソ連の衛星国家であった旧東ドイツが、その秘密警察部門であるシュタージ本部の正面玄関にジェルジンスキーの像を置いていたのは象徴的である。今回もこの像と再会したが、おぞましいシュタージ展示への予兆に身震いした。


「党はすべてを知らねばならない」(エーリッヒ・ミールケ)
「同志諸君、我々はすべてを知らねばならない」というエーリヒ・ミールケ国家保安大臣の言葉が、展示室に入ってすぐのところに掲げてある。これがシュタージの原点といえる。監視用グッズがずらりと並べられているが、いずれもアナログ感が強い。カメラを無理してネクタイの裏にセットしたり、カセットレコーダに組み込んだりしている。携帯電話やスマホなど存在しない時代である。手作り感満載の監視グッズの数々に、人の私生活を徹底的に監視しようという、シュタージの「執念」がうかがえる。
何度訪れても、毎回あきれるのが、尋問の際、椅子にオレンジ色の綿布を敷いて座らせ、対象者の体臭が染み込んだ布を瓶に保存する手法である。今回はこの一瓶しかなかったが、1991年に訪れたときはこれがずらりと並んでいて「壮観」だった。これを「臭いのアーカイブ(Geruchsarchiv)」という。訓練された嗅覚追跡犬が、政府批判のデモ参加者や反体制派を特定したり、追跡したりするのに使われた。
このようなアナログ的手法だったから、監視対象者の自宅に盗聴器をしかけるのも徹底したもので、それはアカデミー賞を受賞したドイツ映画『善き人のためのソナタ』(2006年)にリアルに再現されている。監視技術が稚拙だったから、人力に依存せざるを得ないことになる。そのため、監視対象者の親族や友人、職場の関係者など、身近な人に情報源をつくる。これをIM(非公式協力者)という。国民の7人に1人がこれだったそうである。夫婦生活までシュタージに報告されていたが、誰が密告者かは明らかだった。統一後、離婚が続出したという。
冬季五輪の金メダリスト、カタリナ・ビッドは、恋人とのセックスにかかった時間まで、シュタージ文書に記録されていた。それを文書で確認した彼女のショックはすさまじかった。恋人が非公式協力者だったことは明らかだった。自著『メダルと恋と秘密警察:
ビットが明かす銀盤人生』(文藝春秋社、1994年)に出てくる。シュタージによって支えられる旧東ドイツ国家の本質について、詳しくは、アナ・ファンダー(伊藤淳一訳)『監視国家--東ドイツ秘密警察(シュタージ)に引き裂かれた絆』(白水社、2005年)参照(私の書評はここから)。

「シュタージ監獄」再訪――精神的拷問の手法
東ベルリンのホーエンシェーンハウゼンにある「シュタージ監獄」にトラム(路面電車)で向かう。乗客は外国人が多い。それぞれの乳母車を引くトルコ人女性4人で一度に乗ってくるなど、1991年に滞在したときとほとんど変わらぬ風景である。ソ連方式の旧東独型高層住宅が立ち並ぶ一角に、監視塔が見えてくる。ホームページによれば、ガイド付きでのみ入場可能であり、予約が求められている。3度目の訪問となる今回は、若者のグループが多かった。課外実習の生徒たちも何組かあった。10人ほどのグループに分けてガイドがつくのだが、私は自分で説明するのが癖になっていて、他人に延々と説明を聞かされるのが苦手で、どうしても表情や態度に出るのだろう。「Gummizelleが見たいのですが」と専門的な質問をしたら、どうぞ一人でいってくださいと、それがある方向を教えてくれた。これ幸いと、単独行動をした。27年前に書いた 直言「東ベルリンの「暗黒の水牢」」から引用しよう。
「ここは、1945年以降、旧ソ連秘密警察の第3特別収容所(Speziallager)だった。20000人以上が拘禁され、3000人がここで死んだ。ナチ党員だけでなく、ソ連占領軍の「敵対分子」とされた人々も多数含まれていた。旧ソ連刑法58条(反革命罪!)も適用されたので、共産党との「合併」(社会主義統一党[SED]の結成)に反対した社民党幹部や、冤罪を主張した牧師までが拘禁された。その後、シュタージの未決勾留施設となったが、その本質は拘置所や行刑施設(刑務所)などではなく、「政治司法」の施設だった。「ゴム暗黒独房」(Gummi-Dunkelzelle)や「Uボート」という窓なし独房を見ればそれは明らかだ。前者はラジオスタジオのような構造で音を完全に遮断。光も入らない。後者は一種の水牢。寒い暗闇のなかで注水された。精神障害を起こした人もいたという。「鳥かご」(Käfigen)という野外独房にも入った。人間を精神的にいためつけるサディスティックな工夫が随所に見られ、吐き気を覚えるほどだ。…」

今回、収容者を従順にするため、睡眠剥奪の手法も用いられていたことを知った。夜になると、看守たちは15分おきに独房のまぶしいネオン照明を点灯させ、その直後に再び消灯するということをやったという。睡眠が不安定になると、人間の精神は病んでいく。犯罪者の更正が目的なのではない。体制にはむかう人々を精神的に萎えさせ、抵抗不能に追い込む。ポル・ポト政権下のカンボジアのツールスレーン(Toul Sleng)収容所とは違って、肉体的拷問よりも心理的・精神的拷問に重点が置かれていたことがわかる。
21年前の直言「「壁とともに去らぬ」―旧東独の傷口」ではこう書いている。「32年間トップの座にあったエーリッヒ・ミールケ国家保安相(社会主義統一党[共産党]政治局員)。エーリッヒ・ホーネッカーが党書記長になってから、シュタージは質的に強化され、「二人のエーリッヒ」の操る巨大組織となっていった。この「党の盾と矛」と呼ばれる組織は、子どもたちをも協力者に養成し、家族や先生を密告させた。ミーケル大臣のモットーは、「すべてを知り、すべてを統制する」であった。…」
国家は国民のことをすべて知り、すべてを統制する誘惑にかられる。このシュタージ的傾向は、いま、高市政権下の日本でも生まれている。

日本型シュタージの創設へ――国家情報会議・国家情報局設置法案
4月10日、政府のインテリジェンス(情報収集・分析)機能強化と銘打って、「国家情報会議」と、実務を担う「国家情報局」を設置するための関連法案が衆院内閣委員会で実質審議入りした。この法案が成立すれば、内閣情報調査室は国家情報局に格上げされる。
「どこの国にもあるではないか」「日本はスパイ天国だ」「政府がその対応にあたるのは当然」など、この法案に対する国民の受け止め方は鈍い。これはある意味では当然だろう。行政法的にいえば、組織や任務、所掌事務などを定める組織法であって、国民の権利義務に関わる行政作用法ではないので、条文も淡々としていて地味である。国民に対するどのような権限を国家情報局に与えるのかは書いていない。しかし、その活動は国民のプライバシーにかかわる個人情報の収集などに及び、組織法ではあるけれど国民の権利義務に深く影響することは明らかなのである。SNSの監視は当然のように行われるだろう。
「組織的な偽情報」と「個人の批判的言論」の境目を区別することは容易ではない。高市は4月17日の衆院内閣委員会で、「政府の政策に反対するデモや集会に参加していることのみを理由として、『普通の市民』が調査対象になることは想定し難い」と答弁した(『毎日新聞』4月17日)。自分たちの基準で「普通でない市民」をターゲットにして、監視や情報収集に向かう。こういう機関が強い権限をもてば、それをチェックする仕組みを設けておかなければ一人歩きする。古今東西の情報・諜報・保安機関の歴史を見れば明らかであろう。
自民党と維新の会との連立合意書には、「スパイ防止関連法制」やCIAをモデルにした「独立した対外情報庁の創設」も掲げられている。まずは国家情報局を7月をめどに発足させ、「対外情報庁」の創設に着手するという。スパイの摘発を口実に、国民への監視が強まることは容易に想定できる。市民社会に「非公式協力者」(IM)を増やして、情報の効果的な収集をはかる。こうした機関が一端権力をもって暴走する社会の恐ろしさを、今回ベルリンで改めて確認してきたわけである。
シュタージの存在と活動が社会にもたらした負の影響を参照すれば、情報機関の権限拡大が、いかに日常の自由を侵食していくかは容易に想像できる。「党はすべてを知らねばならない」というミールケ大臣の言葉は、国会の「安全」のためには「疑わしい者」はすべて把握するということを意味している。国家情報局を立ち上げようとする高市の発想のなかにも、それがうかがえる。
高市の場合、国会の関与の必要性を無視するところに特徴がある。どこの国でも、情報機関に対する議会統制の仕組みをもっている。例えばドイツは、連邦議会に議会統制委員会(PKGr)が置かれ、守秘義務を課せられた各党の代表9人によってのみ、すべての情報機関に対する統制が行われる(直言「議会は「民主主義の心臓」―ドイツ憲法政治のいま」 参照)。日本では、4月2日の衆議院本会議で野党が、国会による民主的統制を求めたが、首相の高市は、「本法案は国民の権利義務に直接関わるような権限を強化するものではない」といって、国会の関与の必要性を否定している(『東京新聞』4月11日付、見出しは「議会の監視 拒む政権」)。
菅義偉政権時代、菅の粘着質で陰湿な政権運営について、直言「菅義偉政権、「恣意」の支配―「シュタージ国家」への道」を出した。だが、高市の場合、菅以上に危ない。周囲の意見を聞かず、自意識過剰で、より乱暴な対応に出る傾向がある。総務大臣時代は「停波の高市」として知られた。それが首相にまでのしあがったのである。法案が成立すれば、メディアはさらに政権忖度の傾向を強めていくだろう(直言「高市政権は日本をどこに「戻す」のか――JAPAN IS BACKの意味」)。
だが、高市政権にはさまざまなほころびが見えており、それは滅びへの道につながる。「普通でない市民」をあぶりだして監視したり、「スパイ」を摘発することにエネルギーを使うわりに、自らの足元には徹底して甘い。権力の中枢に近いところにいる人物が、実は最も危ないということを、直言「防衛副大臣の「適性評価」は大丈夫か―「セキュリティ・クリアランス」制度の落とし穴」)」で警鐘を鳴らしておいた。スパイ防止法で国民を敵視するよりも、身内を「引き締める」べきではないか。旧統一教会の「マザームーン」にかしずいた議員も防衛副大臣経験者だったことを想起すべきである。
【文中敬称略】




