

今回のベルリン行きの目的
高校1年になる孫の晃樹と9日間、ベルリンとその周辺をまわり、4月3日に帰国した。少し遅くなったが、今回から「イラン戦争下のベルリン訪問」を連載する。これはその第1回である。
なぜ、いまベルリンなのか。一つは晃樹にドイツの歴史を学んでもらうことが目的である。彼には2023年12月、まだ中学1年生の時に「ヒロシマの旅」を一緒にして、その感想をまとめてもらったことがある(直言「「次世代」と広島を訪れ、ヒロシマを考える」の後半参照)。
もう一つは、10年ぶりにベルリンの変化を取材したいという私自身の目的である。ドイツ統一の4カ月後、1991年2月から8月まで、旧東ベルリンのアレクサンダー広場(Alexanderplatz)前の8階に住んで、統一後の「一つの国家、二つの社会」について取材した。そして、その25年後にもベルリンを訪れて、直言「ベルリン首都決定の25年―ライン川からシュプレー川へ」を出した。それからさらに10年が経過した。再び訪れて、何が変わり、何が変わっていないかを体感したかったのである。とはいえ、後期高齢者に近づいた頭と体で、かつてのような動き方をすることは困難だと自覚している。そこで、晃樹に介助役を頼んだわけである。


かつて住んだ旧東ベルリンはいま
私がベルリンを訪れるのは7回目である。冷戦時代にも2回、ベルリンを訪れている。最初は1979年11月だった。この写真はブランデンブルク門を東側と西側から撮影したもので、門は東側にあったことがわかる。「注意!あなたは西ベルリンを離れる」という表示は、西側に設置されていた「お立ち台」(東側に1メートルほどせりだしている)から下に落ちると、東側に拘束されるという警告である。足が震えたのを覚えている。
「ベルリンの壁」崩壊の1年半前にも、「日独平和フォーラム」に参加して旧東ベルリンを訪れた。その際、壁崩壊への動きをつくる市民フォーラムの人々(その時は秘密警察(シュタージ) 対策で環境保護運動に「偽装」していた)とも、シオン教会(Zionskirche)の内部で会った。
今回のベルリン訪問では、私が、ドイツ統一の4カ月後から滞在していた、カール・リープクネヒト通り9番地のアパートの入口前で記念撮影をした。35年ぶりである。当時はチェコ、ポーランド、ハンガリーという「友好国」の売れない店ばかりだった。1999年と2016年にも同じ場所を訪れたが、今は、より観光客中心の町並みになっていた。

ホテルはそこから歩いて5分ほどのところにとった。7泊して、そこを拠点にして動くことにした。旧東ベルリン時代からのビルを改装して徹底的に現代風にしたもので、高い料金にもかかわらず、サービスは資源・人力節約のため「頼まなければやらない」が徹底されていた。それで何度もフロントに抗議した。晃樹の頼みで、後半は無理に笑顔を貫いたが(笑)。
「至る所が工事中」(Alles Baustelle)の旧東ベルリン中心部も、91年当時の雰囲気と空気は変わらない。違うのは観光客がさらに増えたことだろう。驚いたのは、Uバーン(地下鉄)2号線の構内の「臭い」が昔のままで、タイムスリップしたような気分になった。すぐ近くにある旧東独時代の「世界時計」の表記が、「平壌、東京、ソウル」の順番になっていることの意味を、周辺にたむろする若者たちは知らないだろう。
35年前、自分の部屋から毎日見ていたテレビ塔も、今はすっかり観光地化して、外国からの観光客が列をつくっている。入場料は26.5ユーロ。日本人なら2人で1万円も払って登ることになるので、おすすめしない。東独崩壊直後に10マルク払ってここに登って、回転レストランで高くてまずい食事をした経験からもいえる。
10年前にボンの自然豊かで、アットホームなドイツを味わった晃樹は、「ドイツのイメージが変わった」といった。アレクサンダー広場周辺に平日昼間からたむろする若者たち。パトカーがけたたましいサイレンを鳴らして走り、警官が集団で警備をしている。足を引きずる物乞い。晃樹は「障害者のために寄付を」と執拗につきまとう中東系の少女に対して、「I speak only ABC!といったら離れてくれたよ」と笑う。そして、「治安が悪いね」と一言。これもドイツなんだというにしても、あまりにすさんだところに滞在させてしまったことを一瞬後悔した。しかし、晃樹は文句一ついわず、ボンのような快適なドイツとは異なる「もう一つのドイツ」と正面から向き合ってくれた。
イラン戦争の影響でインフレ率が2.7%に上昇+猛烈な円安
連邦統計局の暫定試算によると、イラン戦争の影響で、3月のドイツの生活費は急騰。インフレ率は2.7%に達し、最高水準を記録したという。3月の家庭用の燃料価格は、前年同月比で7.2%高となった。ガソリンスタンドでは、1リットルあたり2ユーロを超える価格が数週間前から常態化している
(Die Welt vom 8.4.2026より)。2016年から2018年まではレンタカーを運転したが、1リットル2ユーロではとても運転できない(滞在中は1ユーロ185円)。今回は、ベルリンとその近郊の交通機関を乗り放題のBerlin
City Tour Cardを日本で印刷して持参した。航空券も入場券もほとんどの人がアプリに入れていくが、私は携帯・スマホ嫌いなので、さまざまな入場券・チケットなども、事前にQRコードを紙に印刷しておいた。それでもベルリン市内交通の経路案内(BVG Fahrinfoアプリ)は実に便利で、大いに活用した。
すさまじい物価高のなか、レストランには2度しか入らず、スーパーマーケットで毎日買い物をしてホテルの部屋で食べるという生活を、晃樹はむしろ楽しんでくれた。彼は魚が大好きなので、スーパーの魚の缶詰などの表示をしっかり見つめて選んでいた。

ドイツ連邦議会の審議風景を覗く
3月27日午前9時、ドイツ連邦議会議事堂(Reichstag)を訪れた。1995年も1999年もすぐに見学できたが、2016年に妻と訪れたときは「予約がないと入れない」といわれていたので、日本から議会事務局の予約サイトで予約しておいた。30分以上早く着いたが、「孫を連れて日本からきた」と係員にいうと、笑顔で入れてくれた。この透明のドーム(Kuppel)の意味については何度か書いてきた。とにかく初めて訪れた外国人観光客は、自分の国の議会(国会)の建物と比較して、その明るさと透明感に誰しも驚くことだろう。実際のドイツの政治が透明かどうかは別にして、1999年にボンからベルリンに首都を移すとき、ベルリンの過去を踏まえて、意識的に「透明度」を重視したわけである。背景には、この国の憲法となった「ボン基本法」に至るドイツ憲法の歴史的経緯がある。
1995年6月、この議事堂をポリプロピレン製の布で完全に覆うという歴史的パフォーマンスに直接立ち会ったことを思い出し、この透明のドームへのこだわりを改めて考えた。とはいえ、晃樹には難しかったと思うので、その場での解説は最小限にして、とにかく何でも見てもらうことを重視した。いつか勉強のなかでつながる時がくると思うから。
「椅子がちゃちだね」。エレベーターで1階に降りて本会議場を覗いたときの晃樹の感想は、議席のイスについてだった。私も27年前のボン滞在中、娘(晃樹の母)と初めて連邦議会の旧議事堂に入ったときに感じたことだが、ベルリンの議事堂でも同様だった。ブルーの会議室用の普通の椅子。日本の国会議事堂は、そこに座る議員のレベルは別にして、議場や議席のつくりは重厚である。
「首相はどこにいるの」というので目を凝らすと、議長席や演壇などが見渡せる場所で、ちょうどメルツ首相が演説しているところだった。私たちが立っていたスペースでは、音声は一切聞こえないようになっているので、内容はまったくわからなかった。なお、ホテルにもどってから、スマホでAIに、「連邦議会の 3月27日午前の審議」について聞いてみると、「Demokratie leben!(民主主義を生きる)」と呼ばれる連邦政府の民主主義推進プログラムをめぐる緊急討論が行われていたようである。過激主義の防止や市民社会・多様性・民主的価値の強化などを目的としており、各会派からの意見が表明されたという。
議事堂から外に出ると、2日後に4万人が参加する「ベルリンハーフマラソン」の準備のため、交通規制がしかれ、「6月17日通り」は進入禁止になっていた。すぐ横のティーアガルテンの散歩道を晃樹とゆっくり「戦勝記念塔」まで歩いた。鳥のさえずりがにぎやかだった。鳥に詳しい晃樹はすぐに木々の間にいる鳥を見つけて、その名前を言い当て、声を聞き分けて教えてくれた。空気もよく、ホッとする時間だった。
イラン戦争下の航空路線
話は前後するが、2月28日にイラン戦争が始まり、ベルリンに向かう飛行航路が心配だった。3月24日にベルリンに向かったANAのNH217便はアラスカを経由して、グリーンランドからミュンヘンを目指した(座席のフライトマップ)。ミュンヘンでルフトハンザのベルリン行きに乗り継いだが、これが一大事だった。ケープタウンや米国の都市などからの便が集中する時間で、手荷物検査とパスポート検査は長蛇の列だった。走りに自信のある晃樹の奮闘で、5分前にベルリン行きのルフトハンザ国内便に駆け込むことができた。
先回りするが、帰りのNH218便について。中東の国々を経由して、中国を通って羽田まで飛ぶコースだった。乗り継ぎ便のミュンヘン空港でANAのサービスでもらった『フランクフルター・アルゲマイネ』紙の28面に、偶然だが、私たちが乗る前日、4月1日の飛行地図が掲載されていた(冒頭の写真参照)。タイトルは「航空業界は燃料が不足しつつある」で、戦争の結果燃料費が2倍以上になり、しかもイラン上空を迂回することによって多くの燃料が余計にかかると書いている。この北側の迂回路を私たちが搭乗したANAのNH218便も飛んだわけである(フライトマップ参照)。
ちなみに、この新聞FAZは4.10ユーロである。昔定期購読していたDie Zeitを買おうとしたが、7.60ユーロとあったので手が出なかった。かつてドイツ滞在中は毎日4紙も買っていたのが嘘のようだった。
なお、個人的なことだが、帰りの便の飛行中に4月3日となった。私の誕生日である。客室乗務員との会話でさりげなく話していたのだが、何と、4月3日午前零時になると、3人の客室乗務員が手作りのケーキプレートを座席にもってきて祝ってくれた。ちょうどフライトマップを撮影しようとスマホのカメラを構えたところだった。エコノミークラスの乗客にもあたたかい配慮をしてくれたNH218便の客室乗務員の方々に感謝したい。急いで撮影したのが、午前12時9分の数字が入っているフライトマップである。カザフスタン共和国ザンブル州の上空だった。
大統領は「国際法違反」を明言した
さて、今回のイラン戦争について、西側各国の足並みは揃わない。スペインを除く欧州の首脳たちは、正面からトランプのイラン侵攻の国際法違反を批判できないでいる。日本政府も、トランプ政権に対する過度な配慮と忖度から、国際法違反には一切触れず、「事態の沈静化」などという表現でトランプ・イスラエルの侵略行為に曖昧な態度をとっている(直言「「ならず者国家」は誰なのか―トランプ暴走への「やましき沈黙」」参照)。ドイツのメルツ政権も、国際法上の評価は明確にはしていない。イランの核・ミサイル開発を問題視して、基本的に米国と協調している。
ところが、私たちがドイツに向かっている3月24日、ベルリンのドイツ外務省で開催された「ドイツ外務省再建
75周年記念式典」に参列した連邦大統領フランク=ヴァルター・シュタインマイヤーは、基調演説のなかで明確にイラン戦争について「国際法違反」と断定したのである(写真はDie Zeit vom 24.3より)。連邦政府は「全面支持とはいわないが、国際法違反ともいわない」という外交的に曖昧な線を貫いていたが、大統領が公然と国際法違反といったので注目された。ちなみに、私が知ったのは ドイツ到着後のことで、スマホで、定期購読している『南ドイツ新聞』を読んで驚いた。
大統領はいう。「私の見解では、この戦争は国際法に違反している。その点については ほとんど疑いの余地がない」「国際法違反を国際法違反と呼ばないことで、 我々の外交政策がより説得力を持つようになるわけではない」「もし戦争の目的が本当にイランの核兵器開発を阻止することだったとすれば、それは政治的に致命的かつ回避可能だった過ちの結果である」「我々はかつてないほど イランの核武装に近づいていた」とシュタインマイヤーは述べ、2015年に イランと締結された国際的な核合意に言及した。トランプ米大統領はこの合意を破綻させた。彼は最初の任期中に合意を破棄し、「2期目では今や戦争を仕掛けている」とシュタインマイヤーは述べた。また、「政治的に破滅的な誤り」「避けることができた不要な戦争」とも表現した。
大統領は折に触れて、重要な局面で戦争についてのメッセージを発信してきている。直言「過去の歴史といかに向き合うか」でも書いたが、第二次世界大戦開戦80周年という節目では、ドイツ軍がポーランドに最初に爆弾を投下した小さな村まで行って演説している。だが、今回は、評価が対立する外交・安全保障の具体的な問題である。そこで大統領が政府と違う見解を表明するというのはきわめて異例であり、ドイツ基本法の大統領制度のあり方からしても実は問題を含むのである。
第1に、ドイツ基本法の大統領制度は、ヴァイマル憲法の強力な大統領制と違って、限りなく日本の象徴天皇制に近い存在だということである。儀礼的・形式的な行為のみ行い、国政に直接関与しない。ところが、今回は政府とまっこうから対立する見解を表明したのである。これはきわめて異例といえる。
第2に、ドイツの「同盟国」の米国を公然と批判したことであり、さらにトランプ大統領の1期目のイラン合意の破棄までも非難していることである。大統領が米国の軍事行動を国際法違反と断言することは、西ドイツの建国以来の経緯からすれば、これまたきわめて異例といえるだろう。
第3に、大統領が連邦外務大臣のときに、イラン核合意(2015年)を成立させたという経緯から、彼の外交政治家としての矜持がトランプの暴走を許せなかったのではないかと推測される。加えて、シュタインマイヤーは、ギーセン大学の憲法学者、ヘルムート・リッダーの弟子であることから、国際法違反という原則的な問題を曖昧にすることはできなかったのではないか。
21年前の2005年1月、ハイジャックされた民間航空機を撃墜する権限を連邦国防大臣に与える航空安全法について、当時のホルスト・ケーラー大統領は「憲法上、最大級の疑義」を表明した上で、法律案を認証(署名)した(直言「大統領の「抵抗」」参照)。ドイツ基本法82条は、両院で可決・成立した法律は、連邦大統領が認証(署名)して官報に公布されると定める。大統領に拒否権のようなものはなく、日本の天皇の国事行為に近い。だが、ケーラー大統領は署名に時間をかけ、その異例の遅延に世論が動き、最終的に連邦憲法裁判所が航空安全法の当該条文を違憲・無効と判断した(直言「「ハイジャック機撃墜法」の違憲判決」参照)。
スペインのサンチェス首相、イタリアのメローニ首相、ドイツのシュタインマイヤー大統領と、西側各国のなかからもトランプ・イスラエルの暴走に対して「ノー」という動きが出てきている。トランプに「媚びて×5まいります」路線の高市早苗に期待することは無理だろうが、日本の市民がこの戦争を批判しているという姿勢は見せていく必要がある。その点で、少しずつ市民のデモや集会が広がりつつあることは重要であろう。

次回は、旧東ドイツ国家保安省(シュタージ)本部などを再訪したことを紹介しながら、日本にもスパイ防止法案や国家情報局設置法案が国会に出てきて、日本の「シュタージ化」の動きが生まれていることについて論ずることにしよう。(この項続く)
【文中敬称略】




