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《お知らせ》
 2024年4月1日付で早稲田大学名誉教授となりました。一研究者として、一市民として、このサイトを運営していきますので、
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※先週は更新が遅くなりましたので、「今週の直言」の下に続けて読めるようにしてあります。


2024年7月8日

「彼」が安倍晋三を殺したのか

日、7月8日は、「7.1閣議決定」を行った安倍晋三が殺害されて2年となる日である。この日、第1報を聞いてすぐに書いたのが、直言「安倍晋三銃撃事件―立憲政治の前提を壊した人物の死」だった。参院選の投票日直前の出来事で、直言「「7.8事件」は日本の「9.11」か―「ショック・ドクトリン」によるトータル・リセット?」において、「ボロが出ないうちに、大急ぎでリセットの舞台を整えているとしか思えない」と指摘した。国民に考える時間を与えない性急な手法は、安倍「国葬」から岸田政権の最近の内外政策に至るまで一貫している。そのことは後述する。 

  この2年間、ずっと気になっていることがある。山上徹也は本当に安倍を殺害したのかということである。そんな時、柴田哲孝『暗殺』(幻冬舎、2024年)を、発売(6月20日)と同時に購入して、その日のうちに読了した。「サスペンス小説」の形をとっているが、実際の事件をベースに大胆な推測を加え、叙述はかなりリアルである。ただ、安倍の死をめぐっては、いろいろな疑問が解明されないまま残っており、簡単に結論を急ぐわけにはいかないが。

  本書は、1987年の「赤報隊事件」(朝日新聞阪神支局記者殺傷事件)から説き起こす。直言「安倍政権と日本社会の「赤報隊」化」を書いたものとして、事件の複雑な背景のなかに、この事件を入れてきたことは興味深い。

  思えば、ケネディ米大統領暗殺事件(1963年)の実行犯とされたオズワルドが、テキサス教科書倉庫6階からイタリア製ライフルで撃った3発のうちの1発がケネディの命を奪ったとされるが、6階という高い位置から発射されたのに複雑な動きをしており、「魔法の銃弾」とされる所以である。他方、山上の場合、1発目の轟音と白煙のあと、時間差で発射された2発目が安倍の命を奪ったとされているが、手製の銃で、至近距離から、しかも箱に乗って演説する比較的高い位置の安倍を背後から狙ったわけである。左の写真は、『毎日新聞』2022年7月8日付デジタル版のものだが、背後にしっかり山上の姿が写っている。安倍の救命対応にあたった大学病院の教授が記者会見で、「右頸部から入った銃弾が心臓にまで達し(た)」という「上から下」への弾道について語っていた。だが、奈良県警はこの見立てを否定して、「左上腕部から入った銃弾が、左右の鎖骨下にある動脈を損傷したことが致命傷となった」としている。ただ、この銃弾は現場から見つかっていない。奈良県警の現場検証の遅さも問題にされている。

 統一教会の大会へのビデオメッセージ(下の写真)を見た山上が恨みと怒りを安倍に向けていったというのがメディアの見立てだが、本書は、元号が「令和」と発表された2019年4月1日に天皇の即位がなされず、1カ月あとの5月1日まで持ち越されたことにこだわる人々のことを書いている。5月1日は統一教会の創立記念日である。山上の統一教会への個人的恨みというよりは、もっと大きな脈絡で、安倍と統一教会との関係が事件の背後にあることを、本書で考えさせられた。
 

安倍総裁の最後の党大会

途中だが、ここで「わが歴史グッズ」への追加を一つ。冒頭の写真は、第86回自民党大会(2019年2月10日)で代議員に配られた袋の中身である。参加した方から「わが歴史グッズ」に提供されたものである。袋には、大会資料のほかに、記念のボールペンらしきものも入っていた。第85回党大会で記念に配られた「書いて消せるマグネットシール」のことを思い出す。しかし、これはボールペンではなく、LEDペンライトだった。照明が暗くても資料が読めるようにということだろうか。この記念品と『安倍晋三回顧録』を組み合わせて、「アベノグッズ」に加えておきたい(冒頭の写真)。

 この第86回党大会は、安倍総裁の最後の大会となった。その翌年の8月、病気を理由に辞任したからである。私はこれを「政治的仮病」と呼んだ。病気で辞任した過去の首相たちは記者会見に医師団を伴っているが、安倍の場合は、慶応病院の医師たちに拒否されたようである。

 

安倍晋三の「強さ」の秘密

ところで、2年前にこの世を去った安倍晋三。その「強さ」の秘密は何か。私は「無知の無知」の突破力と考えている。例えば、安倍は国会で、「私は立法府の長」と発言した。首相は「行政府の長」である。これは単なる言い間違いではない。2007年5月、2016年4月、5月、2018年11月と、少なくとも国会で4回発言している(直言「「私は立法府の長」―権力分立なき日本の「悪夢」」参照)。これだけ突き抜けた無知を堂々とやってしまい、恥ずかしげもなく、自然に振る舞えるところが、安倍晋三のすごさなのである。

 直言「安倍晋三の「野望の階段」の終わり―米ドラマ『ハウス・オブ・カード』を診る」でも書いたが、安倍は首相の激務の合間に、Netflixの政治ドラマを6シーズン、73話(1回平均50分)、計60時間も見続けた。私もメモをとりながらすべて見た。シリーズ4から5にかけては、大統領権限を自らの選挙での当選のために濫用・悪用・逆用どころか、私用する様子がリアルに描かれている。

 「桜を見る会」問題では、国会で虚偽答弁を118回も繰り返し、権力の露骨な私物化を見せつけた。直言「「総理・総裁」の罪―モリ・カケ・ヤマ・アサ・サクラ・コロナ・クロケン・アンリ・・・」のうち、「クロケン」こと、黒川弘務東京高検検事長(当時)を、安倍の強い意向で検事総長にするための、無理筋の定年延長について、6月27日、大阪地裁が、関連文書の不開示決定を取り消し、黒川のための法解釈の変更であると認定した。訴訟を起こした上脇博之(神戸学院大学教授)のクリーンヒットである(『朝日』『毎日』6月28日付1面トップ、『読売』同第2社会面)。

    元首相の故・中曽根康弘は、安倍のことを次のように評していた。「最近の安倍君は、『まるで着ていないように感じる最高の布を作りました』と献上され、本当に裸になって王宮を歩いた王様になっている」( 吉田繁治メルマガ2017年7月6日号)と。いい得て妙ではないか。そこまで増長していた安倍が排除されたわけである。柴田哲孝『暗殺』の推測と結論については留保しておくことにしよう。

 

安倍晋三より出でて、安倍より安倍的な政治

さて、安倍が殺害された直後から、岸田首相の動きが生き生きしてきたように感じるのは私だけだろうか。それまでは根拠のない自信に見えたが、「ポスト7.8」では力強ささえ感じる。安倍周辺から声があがる前に、早々に「国葬」の実施を打ち出して、彼らの出鼻をくじいた。電光石火だった。他方で、被疑者段階の山上を鑑定留置してメディアから遠ざけ、その間に統一教会問題が一気に浮上した。統一教会との関係は、岸田個人にも出てきたが、圧倒的に安倍と安倍派議員たちである。2022年7月22日(日曜)のゴールデンタイムにお茶の間に流れた日本テレビ系「真相報道バンキシャ」のスクープ映像は衝撃的だった。これで衆議院議長・細田博之(安倍派元会長)がまず沈んだ。

 選挙におけるマンパワーで圧倒的な力を発揮する統一教会。東京24区の萩生田光一は苦しい。世話になっていてここまで突き放せば、八王子の統一教会関係者の怒りは限りなく深いに違いない。解散総選挙で落選しても、安倍がいない以上、浪人時代のポストとして加計学園の千葉科学大学「名誉客員教授」(! )となることはもうあり得ない(もっとも、大学自体が来年以降の存続が未知数だが)。

統一教会問題は、宗教法人法81条に基づく解散請求にまで進んでいる。これもこの2年における劇的変化であろう。

 「裏金」問題は、改正政治資金規正法の成立に矮小化することで、自民党全体へのダメージにならないようにされたものの、安倍派には痛手だった。安倍派は解体に追い込まれ、党内力学は大きく変容した。「親分」なき安倍派は烏合の衆以下だった。もし安倍が殺害されなかったら、自民党最大派閥・安倍派はなお健在で、岸田政権は「安倍院政」のままだっただろう。

 安倍が2022年8月に「政治的仮病」を使って退陣したのは、2007年9月の政権投げ出しとは異なる「戦略的思惑」があったのではないか。菅義偉岸田文雄を「ワンポイントリリーフ」にしたあとに、自らが総裁選に出て、3度目の安倍政権を狙っていたのではないか。在任期間が憲政史上最長というだけでなく、3度内閣を組織した桂太郎と並ぶ。その道が絶たれたわけである。結局、岸田は「ワンポイントリリーフ」ではなく、6月29日に「在任1000日」を達成して、戦後8番目に長い政権となった。選挙に負けようが、不祥事続きだろうが、支持率が10%台になろうが、岸田は決して辞めない。「支持率0%」でも政権を維持するだろう。私は、直言「国民は政治を「自分事」にできるか―岸田流「他人事」の1000日を前に」において、岸田政治を、「安倍より出でて、安倍より安倍的な政治」と特徴づけた。

  【文中敬称略】




「7.1閣議決定」から10年――徳島で考える
2024年7月1日


徳島弁護士会で講演

週末、徳島弁護士会で講演した。2001年の憲法記念日に講演して以来、23年ぶりの徳島だった。講演の翌日、主催者のご配慮で鳴門市ドイツ館(板東俘虜収容所)を再訪した(直言「第九のふるさと」訪問」参照)。「渦の道」も見学した。

昨日の午後、帰りの便に乗ろうと徳島空港に着くと、SPが随所に立っている。土産物コーナーでお菓子を探していると、すぐ横に木原稔防衛大臣と三宅伸吾政務官が立っているではないか。2人とも議員バッチを外して目立たなくしているが、政務官はブルーリボンのバッジを付けていたのですぐわかった(ちなみに、不祥事隠蔽疑惑で問題となっている鹿児島県警本部長がこのバッジを付けて答弁しているのには違和感)。4月20日に伊豆諸島の鳥島東方海域で訓練中の海上自衛隊哨戒ヘリSH-60Kの16号機と43号機が接触して墜落。この事故で8人の隊員が死亡したが、43号機が所属する海自小松島基地(第24航空隊)で、4人の隊員の葬送式が行われていた。非公開のため、大臣、政務官の出席について、NHK徳島のニュースは「防衛省関係者」としか伝えていない。事故の背景には、近時の自衛隊任務の拡大のなかで、現場の負担がかなり大きくなっていることもあるようだ。

 今日、7月1日は、第2次安倍晋三内閣が、集団的自衛権行使を容認する憲法解釈の変更を行った「7.1閣議決定」から10年である。徳島弁護士会での講演でも、そのことについて触れた。徳島出身の三木武夫が首相だった1976年10月、「専守防衛」を明確にした「防衛計画の大綱」と防衛費対GNP1パーセント枠が閣議決定された。中曽根康弘首相のもとで官房長官を務めた後藤田正晴も徳島県出身。田中派の後藤田は、同じ選挙区(旧徳島全県区)で三木と争った。湾岸危機のとき、海自掃海艇を湾岸に派遣することになったとき、後藤田はそれを「アリの一穴」と呼んで反対した。憲法9条と自衛隊の矛盾的併存状態を「憲法の枠内」にとどめようとした往年の政治家たちは徳島出身だった。秀吉股肱の臣の蜂須賀小六(正勝)以来、関ヶ原の戦では家康につき、戊辰戦争では「官軍」に味方して、乱世をしたたかに生き残った徳島藩の歴史になぞらえる地元の方もいて、なるほどと思った。それはともかく、よくできた絶妙な「屁理屈」として、1954年以来60年にわたって続いてきた「集団的自衛権行使の違憲」の政府解釈は、長州藩の桂太郎の在任期間を超えた安倍晋三によって、ちょうど10年前の今日、いわば「力ずく」で変更された。

 

貫かれているのは「恣意」

 この「7.1閣議決定」による憲法解釈変更前は、「我が国に対する武力行使の着手」がなければ日本は個別的自衛権の行使として武力の行使をすることができなかった。憲法9条が明文改憲されないまま存在していること自体が規範力を発揮し、それを軸として、長年にわたる国会における議論の積み重ねや長沼一審判決の存在が、政府の憲法解釈を変更する際の高いハードルとなってきた。集団的自衛権行使の違憲解釈についても、1954年以来の「自衛力合憲論」を軸とした政府解釈の根幹に関わるため、「7.1閣議決定」まで寸止めで維持されてきた。だが、憲法解釈変更により、「他国に対する武力の行使」を契機とする集団的自衛権行使が認められてしまったため、「我が国に対する武力行使の着手」前から集団的自衛権行使として武力の行使が可能となってしまった(詳しくは、直言「「敵基地攻撃能力=抑止力」という妄想(その2)」とその図を参照)。これは日本の平和にとってきわめて重大な意味をもっていた。それが2015年の安全保障関連法(「平和安全法制」)につながっていくことについて、詳しくは、拙稿「「7.1閣議決定」と安全保障関連法」(『法律時報』87巻12号(2015年)(拙著『平和の憲法政策論』(日本評論社、2017年)所収)を参照されたい。

  ここでは、「7.1閣議決定」がこの国の憲法体制(constitution)に与えた決定的なダメージについて触れておく。9条規範(条文)に手をつけることなく、そのもとで60年にわたって反復継続して蓄積されてきた政府の憲法解釈(憲法運用)を、一内閣の閣議決定でいとも簡単に壊してしまったことは、「法の世界の下克上」といってよいだろう。「7.1閣議決定」の底に流れるものは、「恣意」(Willkür)である。立憲主義の存在理由は、権力者による恣意的な統治の排除であるが、この10年間、安倍の後の菅義偉、岸田文雄にも一貫しているのは、まさにこの「恣意」にほかならない。その意味で、「7.1閣議決定」の8年後、「安保3文書」(「戦略3文書」)の「12.16閣議決定」は、まさにその到達点といっていいだろう。


まず人事ありき――法制局長官人事の愚

 「7.1閣議決定」に至る手始めは、法制局長官人事だった(直言「「壊された10年」―第2次安倍晋三内閣発足の日に」)。2012年に政権にカムバックした安倍が最初に手をつけたのは、日銀総裁、内閣法制局長官、そしてNHK会長の人事だった。従来の政権に見られない露骨さ、あざとさは、その後も、黒川弘務・東京高検検事長の人事をめぐって、検察庁法や国家公務員法の体系に、閣議決定を使って強引に手を突っ込んでいったことからもわかるだろう(直言「検察庁法改正をめぐる政権の恣意」参照)。 

 法制局長官人事は、2013年8月、まったく予想外の人選だった。外務官僚である小松一郎前・駐仏大使を長官に任命したのである。小松は集団的自衛権の行使に前向きの人物で、安倍のお気に入りだった。衆院議院運営委員会でスマホを見ながら答弁して、野党委員にたしなめられている(写真は『毎日新聞』2014年4月18日付)。法制局長官という、法の解釈・運用の要となる機関の長にもかかわらず、この軽さは際立っている。毎日新聞

 内閣法制局というのは、長官、次長、第1部から第4部までの部長、総務主幹の7人の幹部がいて、長官になる人のコースは、総務主幹から始まり、2部から4部のいずれかの部長を経験し、意見部の第1部長として、政府の憲法解釈を担当してから次長となり、長官となっていく。だから、長官は、次長と第1部長を必ず経験した者がなる。この表をご覧いただきたい(『毎日新聞』2014年9月28日付3面)。これが法制官僚の頂点である内閣法制局長官人事である。安倍が壊したのは、人事を通じて、法制局を政治的に支配することだった(直言「誰が内閣法制局を壊したのか」)。この10年間、内閣法制局の憲法解釈や意見が注目されることは格段に減ってしまった。

    ここで思い出すのは、この長官人事について怒っておられた俳優の菅原文太さんのことである。2013年9月29 日、ニッポン放送のラジオ番組「菅原文太日本人の底力」に出演を依頼され、スタジオに入って、挨拶もそこそこに本番となり、開口一番、菅原さんはこう切り出した。「先月(2013年8月)、内閣法制局の長官が小松一郎さんという人に替えられたじゃないですか。彼は外務省出身で、法律家ではない。そんな人が「憲法解釈の変更がおよそ許されないことはないと考えている」という発言をする。そうなると、これはもう出来レースなんじゃないかと思わざるを得ない」と。言葉数は少ないが、一言一言に重みがあり、菅原さんがこの人事について危機感を抱いておられたことが伝わってきた。菅原さんの死後、この怒りは奥様に受け継がれ年に何度か励ましのメールが届く。
   なお、「7.1閣議決定」の具体化としての安全保障関連法の制定過程については、拙著『ライブ講義 徹底分析! 集団的自衛権』(岩波書店、2015年)を参照のこと。

民主党政権時代の「政治主導」

 内閣法制局への嫌厭は、民主党政権下でも存在した。過度の「政治主導」が強調され、その一環として、国会答弁における政府委員出席の制限も試みられた。直言「なぜ法制局を排除するのか― 歪んだ「政治主導」」でも指摘したように、「官僚が国会審議や議員の活動に口を出すことを禁止し、政治家自身が政策を立案・決定する本来の制度に改め」ることが強調され、行政機関職員と国会議員との接触制限も考えられていた。「内閣法制局廃止法案」まで想定されていた。安倍政権の無法を体験した野党は、政権交代をしても、この「政治主導」や法制局排除をとることはないだろう(と信じたい)。あの「事業仕分け」の愚を繰り返すべきではない。
    来週、7月8日は、「7.1閣議決定」を行った安倍晋三が殺害されて2年となる。

【文中敬称略】

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「アシアナから」:カブールの職業訓練施設の一少年

Dieses Spielzeug wurde aus der Aschiana-Schule,
Kabul geschickt.

――「アシアナから」――

2002年のカブールの職業訓練施設で一少年が作った木製玩具。
肉挽器の上から兵器を入れると鉛筆やシャベルなどに変わる。
「武具を文具へ」。
平和的転換への思いは、いつの時代も同じです。

「直言」2002年6月10日