
1993年2月、沖縄県庁での出会い
沖縄県読谷村長を6期務めた山内徳信さんが、9月26日、91歳で亡くなった(『琉球新報』2026年9月27日の訃報)。10月2日の葬儀には弔電を打ったが、山内さんとの間にはあまりにも多くの思い出がある。ここに、これまでの記録と私自身の記憶をたどりながら、山内さんを偲びたいと思う。
山内さんとの出会いは1993年2月にさかのぼる。沖縄県「軍事基地転換協議会」(会長・大田昌秀知事)に招かれ、沖縄県庁で講演した。たまたま広島大学水島ゼミの沖縄合宿と重なったので、日程を調整して参加した。
私は1991年のベルリン在外研究の際、旧ソ連軍の軍事演習場をドイツ連邦軍が引き続き使用するという政府の決定に対し、住民が「戦車の轍の代わりに、自転車道を」というスローガンを掲げて反対運動を始めたことを取材していた。住民たちが掲げたのは「平和、環境保護、雇用創出」の3点セットだった。演習場が返還されれば自然公園に生まれ変わり、雇用も生まれる(8年後の現地取材については直言「軍事演習場の「森のデモ」」参照)。講演の最後に、「軍事演習場に未来はない」という現地住民のスローガンを紹介し、沖縄の米軍基地を将来的に平和目的に転換する可能性、例えば嘉手納基地をアジア最大級の民間ハブ空港に転換する構想などについて語った。
大田知事は米国出張で不在だったが、副会長の山内読谷村長が満面の笑みを浮かべて握手を求めてきた。「先生、平和と環境保護、雇用創出を一体化する要求はすばらしいです」。そう言いながら、私の手を強く握った。
当時の読谷村は、広大な村域を米軍基地に占められていた。そのなかで山内さんは、基地の返還を求めるだけでなく、村民の生活と文化を取り戻すため、独創的な自治体行政を展開していた。「人間性豊かな環境・文化村」を掲げ、焼き物や伝統工芸の振興にも力を注いでいた。基地返還後の村づくりを見据えた長期戦略であった。
「先生、明日お時間があれば、村役場においでください」。私は喜んで応じた。
翌日、学生たちを連れて読谷村の旧役場を訪ねた。駐車場から入口に向かう途中、日本国憲法9条と99条を並べた看板が目に入った。9条を掲げた自治体は見たことがあったが、99条とセットにしたものは初めてだった。山内さんの憲法論の深さを、このときの私はまだ十分に理解していなかった。
旧役場の狭い村長室で、山内さんは「広島から沖縄へようこそ。日本国憲法には3つの原理があります」と、ゼミ生たちに熱く語り始めた。しばらくすると秘書がやってきて、「村長、議会が始まります」と耳打ちした。ところが山内さんは、「憲法には3つの原理がある。まだ2つしか話していない」と言って、話を続けた。私は気が気ではなかった。
ようやく話が終わると、「先生、またお会いしましょう」と手を強く握り、議場へ向かっていった。村議会議員を待たせてでも、ゼミ生たちに憲法を語り続ける。この人はただ者ではないと思った。
山内さんは琉球大学卒業後、高校教諭として16年間勤務した。1974年に読谷村長に初当選し、「人間性豊かな環境・文化村」の構想を掲げて、日本政府や米軍に読谷補助飛行場の返還を求め続けた。その独特の語り口は、普通の政治家とは違い、どこか高校教師の授業を思わせた。海兵隊司令官との交渉でも、アメリカ独立宣言についてとうとうと説き、相手を驚かせたという逸話がある。
山内さんは、対案を示して交渉する名人でもあった。例えば、使用されなくなった補助飛行場の滑走路について、まず救急車の通行を米軍に認めさせた。そのために滑走路の真ん中に黄色いセンターラインを引いた。やがて一般車両の通行についても交渉し、国道58号線へのバイパスが基地内にできた。また、沖縄国体の際にはソフトボール会場としての利用を働きかけ、基地内に野球場を建設させ、ついには基地のなかに村役場を建てるに至ったのである。
カーター大統領に直接手紙を書き、米軍幹部とも交渉した。日米地位協定2条4項(a)に基づく日本側の使用を足がかりに、国をも動かし、米側との合意を積み重ねていった。山内さんは、こうした実践を独自の「自治体外交」と呼んでいた。

米軍基地のなかに村役場をつくった
1997年5月、再び読谷村を訪れた。同年3月に完成した新しい村役場を見学するためである。そのときのことは直言「基地内の村役場と憲法」に書いた。
シーサーが鎮座する門柱には、右側に「平和の郷」、左側に「自治の郷」と彫り込まれていた。4年前の旧役場とは比較にならないほど広い村長室に通され、山内さんと再会した。そこには、山内さん直筆の「歴史を生きる」という詩を記した屏風があった(全文はここから)。
「地方は先端であり 地方主権を確立し 輝く地方社会を創ろう」「中央政府の目からばかり見ていてはいけない。地方は末端ではない。先端である」。山内さんは屏風の前で、基地内に村役場を建設するまでの米軍との粘り強い交渉について、熱っぽく語ってくれた。
その話を聞くうち、私は思わず口にしていた。「村長、いまの話、本にしませんか」。
かつて札幌の寿司屋の2階で、当時の同僚・久田栄正教授からルソン島における戦場体験を聞いた際にも、私は同じように「先生、いまの話、本にしましょう」と申し出た。それが後に『戦争とたたかう』の出版につながった。今回も、まったく同じ流れになったのである。
帰京後、すぐに岩波書店の大塚茂樹さんに企画を持ちかけた。拙著『武力なき平和―日本国憲法の構想力』の担当編集者である。すぐに企画は通り、2カ月後の7月3日、村長室で長時間のインタビューを行った。手帳には「7時間30分」と記されている。冒頭の写真は、そのときの風景である。
山内さんは秘書に、インタビュー中は誰も通さないよう命じていた。しかし、たった一度だけ、電話のために席を外した。後で聞くと、橋本龍太郎内閣の首相補佐官だった岡本行夫氏からの電話だった。普天間移設問題をめぐり、岡本氏が沖縄側との交渉にあたっていた時期である。山内さんにとっても、岡本補佐官からの電話は別格だったようだ。
ほどなくテープ起こしの原稿が出来上がり、私は冒頭から一気に書き下ろした。ペラ215枚の原稿をまとめ、山内さんには校正刷りが真っ赤になるほど修正していただいた。インタビューから4カ月で完成したのが、『沖縄・読谷村の挑戦―米軍基地内に役場をつくった』(岩波ブックレット、1997年)である。
山内さんの話を聞いていると、最初は実現不可能と思える構想が、いつの間にか具体的な現実として見えてくる。山内さんの高校時代の教え子が、基地返還の実務を担当していた。その方も含めて、とにかく発想のスケールが違った。基地のなかに役場をつくるという「ホラ話」が、やがて現実となり、「ホラー話」(「ほらーっ、この通り」)に変わっていったのである(直言「沖縄・ 読谷村 再訪」参照)。

村長室の憲法9条と99条―「平和のスリーナイン」
私にとって忘れられないのは、村長室に掲げられていた2本の掛け軸である。1本には憲法9条、もう1本には憲法99条の憲法尊重擁護義務が記されていた。いずれも山内さんの直筆だった。
99条によって、9条を国家権力の担当者に守らせる。そうして平和を確保する。まさに立憲平和主義である。私はこれを「平和のスリーナイン」と呼び、山内さんの強い賛同を得た。山内さんは私に語った。
「憲法99条は、憲法を守らない可能性がある者を縛るためにある。村長であるわたくしも……当然入る。これは自分への戒めでもあります」。
そこで私は、「憲法を村長が擁護する義務ですね(笑)」と応じた。このやりとりは『沖縄・読谷村の挑戦』54頁に収め、直言「自衛官の改憲構想と立憲政治」でも紹介している。
権力を担う自分自身を、憲法によって拘束される側に置く。山内さんにとって憲法99条は、他人に守らせるための条文ではなく、自分を律するための規範でもあった。
なお、改憲問題について、2006年3月15日、小林節・慶應義塾大学教授(当時)とともに「権力主導の改憲」を批判する講演会を行った(当時のチラシ)。山内さんが村長を去ったあとも、読谷村の憲法への関心は高く、この講演会とその後のシンポジウムについて、『沖縄タイムス』3月16日付は1面トップで伝えた。
村長を辞任して沖縄県三役入り
『沖縄・読谷村の挑戦』で私は、村長の任期についても質問している。当時すでに6期を務め、7期目も無投票になるといわれていた。
そこで私は本書において、カリスマ的な首長の場合、長期政権が腐敗を招く危険があると指摘した。そのうえで、山内さんは憲法99条を常に身近に掲げ、自分を「憲法を破る可能性をもつ側」に置きながら、「いつも心の中に辞表を携えておられる」と述べた。しかし、私は「6期でやめるべきだ」とは言えなかった。
だが、運命とは不思議なものである。本書は沖縄県でも注目され、大田知事はこれを読んで人事を進めたといわれている。地元紙記者からそう聞いた。実際、出版から2カ月後、山内さんに県出納長への就任要請があった。7期目の村長選挙を目前にした時期だった。大田知事は、「山内さんは読谷村で長く基地問題に取り組み、産業振興も厳しい状況の中で壁を破った」と述べた。これは、通常の出納長ポストに任命する人物への評価とは思えない(直言「大田昌秀氏を悼む―沖縄と憲法を問い続けて」)。
大田知事は当初、山内さんを副知事に任命しようとしたが、周辺の反対があったようである。そこで出納長に任命し、実質的には基地問題を担当する特命副知事のような役割を担わせたのだった(直言「山内読谷村長、沖縄県三役入り」参照)。その人事のきっかけの一つが、本書だったようである。県議会の自民党も、東京の出版社から本を出すなど「社会的評価も高い」ことを賛成の理由に挙げていたという。
しかし、1998年11月の県知事選挙で、大田知事は3選を阻まれた(直言「沖縄知事選をどう見るか」)。大田知事の退任とともに、11カ月余り全力で活動した山内出納長も県庁を去った。
〈補注〉2006年の地方自治法改正(2007年4月施行)により、都道府県の出納長と市町村の収入役は廃止され、一般職の「会計管理者」となった。
「地方は先端である」という思想
山内さんが残した「地方は末端にあらず、先端なり」という言葉は、こうした自治の実践を象徴している。中央政府からの補助金をあてにし、中央政府の顔色をうかがう。市町村のなかで「村」は最底辺で、みんな「町」への「昇格」を願う。取材の際に山内さんは、村議会で「町制」への移行の意見が出たとき、ぴしゃりとこれをさえぎり、「村より町のほうが上だという人がいる限り、読谷村のままでいくと言った」と、私に語った。読谷村を先端の自治体にするという意気込みは、山内村政以降も、この村に引き継がれている。ちなみに、読谷村の人口は現在4万1000人で、日本一人口の多い村である。全国には792の市があり、そのうち人口5万人未満の市は300を超える。
山内さんの視野は、一つの村にとどまるものではなかった。沖縄という地域の現実から日本の国のあり方を問い、さらにアジアや世界の平和へと視線を向けていた。
2003年6月、山内さんは、沖縄で開催された日韓共同研究「21世紀北東アジア平和・安全保障情勢の変化と日韓の安保・治安法制の構造」に参加した。役場の大会議室を使った研究会で、私は「『日米同盟』から地域的安全保障体制へ―沖縄が問うもの」と題して報告した。山内さんの報告は「平和のための地方自治」と題するもので、スケールの大きい沖縄からの実践報告は、韓国の研究者から大変好評だった。特に会議室のある村役場が米軍基地内にできたことについては、驚きの声があがった。この写真は終了後の役場前での記念写真である(右端の野球帽が山内さん)。
自治体の長という立場を離れてからも、沖縄の基地問題と日本国憲法を結びつける山内さんの姿勢は変わらなかった。

2007年の参議院選挙で、山内さんは社民党の比例代表候補として初当選し、1期務めた。国会でも米軍基地問題を鋭く追及した。
2009年6月、私は1年ゼミの学生たちを連れて霞が関・永田町散歩を行った。国会見学の後、参議院外交防衛委員会での質問を終えたばかりの山内さんが、学生たちに国会と沖縄の現状を語ってくれた。
2011年にも、参議院議員会館でその年の1年ゼミの学生たちと話をする機会をつくっていただいた。会館入口の案内板には「早大水島ゼミ憲法学習会」と出ていた。質疑応答を含め、90分にわたる充実した時間だった。
別れ際、山内さんは学生たちにこう語った。「従来の常識や発想は乗り越えるべき壁であり、夢のためには死に物狂いで勉強しなさい」。 後に学生たちから届いた感想メールを読むと、この言葉が強く印象に残ったようだった。
水島ゼミの沖縄合宿の際には、山内さんと村役場の会議室やご自宅で学生たちの質問に答えていただいた。学生たちが圧倒されるほどの博学、そして憲法を語ることが心の底から好きだというのを彼らも感じたようである(直言「水島ゼミ沖縄合宿の20年―知事選下の沖縄へ」など参照)。
1993年、読谷村の旧役場で村議会を待たせながら憲法を語った山内さん。2011年、参議院議員会館で学生たちに学ぶことの意味を説いた山内さん。村長であったときも、国会議員になってからも、若い世代に伝えようとしたものは変わらなかった。
沖縄県知事選挙の結果をどう診るか―山内徳信さんが残した問い
山内さんが実践したのは、国の政策が変わるのを待つ自治ではなかった。住民の側から構想を示し、行動し、既成事実と思われていたものを変えていく自治であった。米軍基地のなかに村役場を建てるという発想は、その象徴である。しかし、それを単なる奇抜なアイデアで終わらせなかったところに、山内さんの真骨頂があった。平和、環境、文化、雇用、そして憲法を一つにつなぎ、粘り強い交渉によって具体的な成果を積み重ねた。
だが、山内さんが亡くなる2週間ほど前の9月13日、沖縄県知事選挙において、保守系の古謝玄太氏が過去最多の42万3124票を獲得し、現職の玉城デニー氏を約14万7000票の大差で破って当選した。山内さんもその一角にいた「オール沖縄」を掲げる県政は終わった。『琉球新報』9月15日付社説は「オール沖縄の終焉 地滑り的大敗の検証を」は、「沖縄戦後史で光を放った政治潮流は終焉を迎えた。民意との間に乖離やずれが生じてしまったのではないか」と書いた。「今知事選で県民は基地問題より経済・暮らしを重視したことを見逃してはならない」「沖縄の民意を顧みず新基地建設を強行する政府と対峙する政治勢力はさまざまな困難に直面してきた。今回の知事選敗退もその一つである」。
この選挙の翌週の那覇市長選挙の結果を含めて、沖縄は、県、那覇市、名護市、県議会、衆議院の全選挙区が「オール自民」になった。もはや、中央政府への「抵抗の沖縄」はなくなり、基地容認の沖縄になったかに見える。だが、そうはならないだろうというのが私の見立てである。かつて大田知事を破って誕生した稲嶺恵一県政は自民党の支持で成立したが、中央政府の言いなりになったわけではなかった。今後の展開次第では、古謝県政が、あるいは沖縄の保守勢力が高市政権と距離をとる可能性がないとはいえない。また、翁長雄志元知事は自民党沖縄県連幹事長だったが、「オール沖縄」の立場で安倍政権とたたかったことも想起される。
ところで、「オール沖縄」を終焉に導いた背景には、本土の野党勢力のお粗末で不甲斐ない状況があることも指摘しなければならない。社説も言及している、2月衆院選における沖縄2区問題(立憲民主党と社民党の醜態)もその一つである。民主集中制の組織硬直化と恣意性(異論を除名、「除籍」で排除) がますます色濃くなっている志位共産党のさらなる衰退も避けられないだろう。山内さんから、社民党に対する批判的意見も聞いたことがある。山内さんのいう「本土革新」の衰退が現実だとすれば、今回の県知事選の結果を山内さんは予感していたと私は思う。ぜひ、意見を聞いてみたかった。 知念覚那覇市長は自民支持で当選したが、沖縄社会大衆党も立憲民主党も支持しており、市長は「オール那覇」といって、国や県との距離を示唆している。「人間性豊かな環境・文化村」を実践した山内さんならば、若者の夢も実現できる新しい「オール沖縄」の構想を考えていたのではないか。
仲地博(沖縄大学名誉教授)は『沖縄タイムス』9月17日付評論「国動かすか 古謝「県民党」」のなかで、古謝氏が、「国に忖度しない、沖縄のためにならないことは反対意見を述べる。それでも国が動かないときは野党の力も使う」と述べたことに注目し、新しい「オール沖縄」の可能性があると指摘する。そして、そのきっかけは自衛隊の「南西シフト」になるだろうと見る。同感である(直言「沖縄を切り捨て、誰の「国益」を守るのか」参照)。山内さんの思い出とともに、新しい「オール沖縄」の方向と内容に注目していきたい。
山内さん、長い間、本当にありがとうございました。心からご冥福をお祈りします。そして、沖縄と日本の行く末をしっかり見守ってください。合掌。




