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《お知らせ》
199713日(月)から2710カ月にわたり、毎週1回、月曜日に「直言」の更新を休みなしにやってきました。今後は、週の途中での更新、あるいは長文の「直言」を2週に分けてアップするなど柔軟な方法をとっていきたいと思います。「直言ニュース」の送信は不定期となります。ご了承ください。
(2024年11月4日)



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2024年11月13日



私のブルックナーへのこだわり

外ともに激動の政治状況が続くが、都合により、私の趣味の世界、雑談シリーズの「音楽よもやま話」をアップする。前回は「「世界のオザワ」のこと―ブルックナーとP-51」だった。私はブルックナーを好むので、小澤征爾の追悼文なのに、彼があまり演奏しないブルックナーを取り上げている。思えば中学2年の夏のこと、父が注文した2枚の新譜(レコード)が家に届いた。それを父に無断で聴いてしまった。それがブルックナーの交響曲第9番ニ短調だった。音楽の授業でクラシックを無理やり聴かされるのを好まず、「ザ・ベンチャーズ」(私はビートルズ派ではなかった)にはまっていた頃だったので、まったくの別世界に心を奪われ、立ち尽くして聴き入ったのを覚えている。以来、57年間、「ブルックナー・フリーク」を続けている。「聖地」であるオーストリア・リンツ近郊の聖フローリアン大聖堂も2回訪問した(なお、10月20日NHKBSが、この修道院で97歳のヘルベルト・ブロムシュテットが指揮した第9交響曲の全曲を放送した)。

  新幹線を使って朝比奈隆指揮の大阪フィルの演奏会に行ったことも、若い頃にはある。日本ブルックナー協会(朝比奈隆会長)には1985年12月に入会した(会員番号505番)。会報が充実していて、いまも保存してある。ある時から会費請求も来なくなって、2012年に解散していたことを知った。

   ブルックナーの作品を、内外のさまざまなオーケストラで聴いてきた。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団では交響曲第9番を聴いた。ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団ではマーラーは聴いたが、ブルックナーの体験はない。私の個人的感覚では、この作曲家と相性のいいのは南ドイツのオーケストラである。バイエルン放送交響楽団では交響曲第8番ハ短調を、ロリン・マゼールの指揮で聴いたことがある(直言「雑談(120)音楽よもやま話(25)公演パンフレットのこと」の末尾参照)。このオケはラファエル・クーベリックと縁が深いが(チェコ事件との関係でも)、この指揮者でブルックナーを聴く機会はなかった。

同じ南ドイツのミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団を生で聴いたのはこれまで2回ある。1986年10月にセルジュ・チェリビダッケ指揮でムソルグスキー組曲「展覧会の絵」などを、2013年4月には、ロリン・マゼール指揮でブルックナー交響曲第3番ニ短調を聴いた。

ミュンヘンフィルの演奏で第8番の演奏で有名なのは、ハンス・クナーパーツブッシュ指揮のレコードである(直言「雑談(30)音楽よもやま話(2)」 )。冒頭の写真の右上にそのレコードの写真が見える。これは父が50年前に買って、何度も何度も聴いてきた。第4楽章でかなりの小節を省略したりして、その超個性的演奏には評価が分かれる。

先週、11月8日、久しぶりにミュンヘンフィルの生演奏で、ブルックナーを聴いた(サントリーホール)。指揮者はトゥガン・ソヒエフ(Tugan Sokhiev)というロシアの指揮者である。これについては後述することにして、この日のコンサートのことを記しておこう。

 

トゥガン・ソヒエフを初体験

   開演前から満足だった。舞台ではコントラバス奏者が数名と、ハープ奏者が美しい音色で調整しているだけ。客席は声一つない。聴衆の多くは、私と同趣味であろう、中高年男性である。会話はほとんど聞こえてこない。夫婦や若いカップルがほとんどいない。多数の聴衆が開演前から息を潜めて開演を待つのは、他のコンサートではちょっとない風景である。この空気を私は「予韻」と呼んでいる。対照的だったのは、2年前、サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団でブルックナーを聴いたときのこと。開演30分前から舞台上にほとんどのメンバーが揃い、大音響で勝手に音だしをやっている。「アメリカンスタイル」というのだそうだが、きわめて不快だった(直言「雑談(133)音楽よもやま話(31)コンサートの余韻と「予韻」」参照)。今回は「予韻」から楽しめたわけである。

   実はこの指揮者、私にとっては後述する「ウクライナ戦争」をめぐる「事件」との関連で名前を知っただけで、CDでも生演奏でも一度も聴いたことがなかった。今回はソヒエフ初体験である。先週の演奏は、この曲の演奏としては長い部類に属し、100分近かった。長老たち、例えば朝比奈隆の1980年の東京カテドラル聖マリア大聖堂での演奏(右の写真参照)は、長い残響もあっても88分4秒だった。ギュンター・ヴァントが90歳の時にベルリンフィルを振った演奏も86分54秒である。一番短いのは、カール・シューリヒト、ウィーンフィルの演奏で70分59秒である。ソヒエフは、第1楽章の冒頭から「オッ」と思うほどのスローテンポで、最後までこれが持続した。かなりの集中力を要求された。3回ほど生演奏を体感したセルギュ・チェルビダッケは、時にスコアの指示を無視したようなスローテンポで、すさまじい集中力を要求される。1993年のミュンヘンフィルとの演奏(EMIのCD、同じノヴァーク版)は104分13秒という、この曲の最長演奏である。そこまではいかないまでも、第1楽章から悠揚迫らぬテンポで進んでいくこの47歳の指揮者には驚かされた。ミュンヘンフィルなので、チェリビダッケを意識したと推測されるのだが、メリハリや起伏を求められる箇所を驚くほどあっけなく素通りしたりして、「若さ」を感じさせるところもあった。チェリビダッケ(私は70年代から海賊版レコードや、エアチェック(死語?)したカセットで聴いている)と比較するのは酷というものだろう。
    各楽章に散りばめられている至福の瞬間(例えば第3楽章211小節から頂点をなす239小節など)も意外と「薄味」ですませている。もう少し官能的にやってもよかったかもしれない。第4楽章のコーダ708~9小節の「ソー・ミ・レ・ド」のところは少し意外だった。ここを最速で終わらせたのが前述のシューリヒトで、逆にハンス・クナーパーツブッシュはゆっくり刻んで、おそらく最長だが、ソヒエフはどちらでもなく、むしろ抑えぎみのフィニッシュだった。 

  ソヒエフはタクト(指揮棒)を使わず、素手で指揮をすることが多い(左の写真はThe Moscow Times より)。ロヴロ・フォン・マタチッチ(NHK交響楽団)はこの曲でも、タクトを使わなかった。小澤征爾もほとんど素手で指揮した。一流のオーケストラは厳密に拍をとる必要がないともいわれるが、テンポの動く複雑な曲はリスクを伴うだろう。ただ、反面、右手も自由に使えるので、顔の表情と全身を使った表現の幅と自由度が増すという面はあるだろう。細かな指示よりも、感情の伝播という点でまさっているのかもしれない。

    ともあれ、この若い指揮者の注文に応えつつ、伝統と特質を十二分に発揮したミュンヘンフィルも見事だった。弦の透明感と繊細さ、木管の色彩豊かな響きはいうまでもなく、特に金管セクション、とりわけホルン(ワグナーチューバを含む)はこの曲の理想的な響きを出していたように思う。このオケのティンパニーは名手(第4楽章で大活躍)で、迫力だけでなく、明るさとユーモアを感じさせられ、思わず微笑むことも。

 昔なら、この曲が終わると同時にブラボーの嵐だった。近年は「指揮者がタクトを降ろしてから拍手を」と、事前に場内アナウンスをするホールもある(東京芸術劇場など)。この日は驚くべきことに、指揮者が手を降ろしてもしばらく何も起きなかった。マナーのよい、通の客ばかりという事情だけでなく、ラストの「ソー、ミ・レ・ド」の「ド」の部分の驚くほど控えめな締めのために、ソヒエフが両手で最後の一音を包み込むようにして終わったので、聴衆は拍手も忘れてしまったという感じだった。やがて拍手がパラパラと始まり、ブラボーを伴う「長く続く大きな拍手」となった。

  今回初めてソヒエフを聴いて、これはただ者ではないと思った。NHK交響楽団のコンサートマスターの篠崎史紀氏(愛称は「マロ」)のインタビュー記事を見つけた。2008年にN響を初めて指揮した時のことをこう語っている。「まさに「凄いやつを見つけた」といった感じ。オーケストラの反応も良くて、「スターが生まれる瞬間に立ち会った」との思いがありました。彼は“身体から滲み出るフォースやオーラ”を持っている」と。「このような指揮者は現役では他にいません、指揮者ではカルロス・クライバーやチェリビダッケ。ソヒエフもその一人だと思います」と手放しでほめている。これからはソヒエフのコンサートに通おうと思う。
    ソヒエフはロシア人である。「ウクライナ戦争」が始まった2022年2月から、ロシア人音楽家やロシア音楽に対する「音楽外的強制」が各国で目立つようになった。

 

「敵性音楽」と「敵国の指揮者」?

    今回聴いたミュンヘンフィルの首席指揮者は、2年前までヴァレリー・ゲルギエフだった。大変力のある指揮者だが、プーチン大統領と個人的親交があることで知られていた。ウクライナ侵攻が始まると、ミュンヘン市は、ゲルギエフに対して、プーチンから「明確に、無条件に距離を置くように」と要請した。だが、ゲルギエフはこれに反応しなかったため、ミュンヘン市は彼を解雇した(『朝日新聞』2022年3月1日)。ゲルギエフはオランダのロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団からも解雇されるなど、世界中の音楽関係の仕事を絶たれた。プーチンと親交があり、ウクライナ侵攻を非難しないという理由で。確かにゲルギエフはウクライナ侵攻について一言も語らない。彼のこの「沈黙」に対して解雇などの不利益が与えられている。弁明の機会も与えられたが、彼は「話さないこと」を選択した。明らかに世界は冷静さを欠いていた。

    同じロシア人のソヒエフはどうか。彼も西側諸国からすればウクライナに侵攻したロシアの指揮者である。ただ、厳密にいうと、ソヒエフは北オセチア共和国の生まれである。人口68万7000人あまり。東京都江戸川区よりも少ない。ソ連の自治共和国だったが、ソ連時代にもさまざまな抑圧を経験してきた。連邦消滅後、周辺のチェチェンなどと対立した。1992年にアブハジア紛争、第1次、第2次のチェチェン紛争、南オセチア紛争を経て、かなりの期間、不安定な状況にあった。ソヒエフはそうした国に生まれ、育った。

    2022年2月のウクライナ侵攻を受け、西側諸国では、ロシア人作曲家の演奏を控えたり、ロシア人演奏家の出演を見合わせたりする動きが起きた。私は、直言「雑談(131)音楽よもやま話(30)チャイコフスキー交響曲第2番「小ロシア」or「ウクライナ」」をアップして、そのことの問題性を指摘した。終わりの部分で、まだ一度も演奏を聴いたことのないソヒエフについても触れている(前述)。バレエ音楽「白鳥の湖」などを「敵性音楽」として上演しないという動きや、日本でも、チャイコフスキーの作品を演奏曲目から外したオーケストラのことなどを指摘して、それを批判する直言「雑談(135)音楽よもやま話(32)チャイコフスキーは「敵性音楽」か?」]を出した。今回のソヒエフの演奏を契機に、音楽家としての熱い思いを語る彼のメッセージのことを知った。

 

ソヒエフの訴え──「ウクライナ戦争」1000日を前に熟読を

 ソヒエフは侵攻後、「ヨーロッパでロシア音楽・芸術家が "キャンセル文化" の犠牲になっていること」「愛するロシアの音楽家たちと愛するフランスの音楽家たちのどちらかを選ぶという不可能な選択を迫られたこと」を理由として、ボリショイ劇場とトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団の音楽監督を辞任した。その際、「トゥガン ソヒエフからのメッセージ」を3月7日付で発表している(梶本音楽事務所のサイト参照)。以下、その翻訳文の全文を下記に引用する。

 

2022.03.07 大切なお知らせ

トゥガン・ソヒエフからのメッセージ

─ Message from Tugan Sokhiev

 

多くの方が、私が現在の自分の見解を表明し、現在起きていることに対する私の立場を明らかにすることを望んでいると思います。

 今、何が起きているのか、そしてそれらによって私の中に生まれた極めて複雑な感情をどう表現すればよいか、考えをまとめるのに時間がかかりました。

 はじめに最も重要なことを申し上げなければなりません。私は、どんな形であれ、紛争を支持したことはありませんし、これからも反対しつづけます。音楽家である私に、平和を望んでいるかどうかの質問を投げかけ、音楽で地球上の平和以外の何かを語ろうとしていないかを問いただす人がいることが、私にとっては衝撃的であり不快なことです。

私の20年にわたるキャリアの中で、人類は様々な紛争に直面してきましたが、私はいつも仲間の音楽家たちとともにすべての紛争の犠牲者に対する支援や思いを示し、表現してきました。これこそが私たち音楽家の使命なのです。音楽で物事を表現し、音楽で感情を語り、音楽で慰めを必要とする人たちに寄り添います。私たち音楽家は幸運なことに、音楽という国際的な言語をもち、時として文明社会に存在するどの言葉よりも雄弁に語れるのです。

 私は、豊かな文化を持つ国ロシア出身の指揮者であることを常に誇りに思っていますし、同時に、2003年からフランスの豊かな音楽文化の一翼を担っていることも大変誇りに思っています。これこそが音楽の役割なのです。音楽は、異なる大陸や文化の人々、アーティストたちを結びつけ、国境を越えて魂を癒し、この地球上の平和を愛する全ての存在に希望を与えてくれるものです。音楽はドラマチックで、叙情的で、愉快で、悲しいものです。しかし決して攻撃的なものではありません!これこそが、私とトゥールーズの素晴らしいオーケストラとの実りあるパートナーシップが示すものであり、ボリショイ劇場の優れたアンサンブルがロシアでの公演やヨーロッパツアーのたびに私に教えてくれたことです。トゥールーズでもボリショイ劇場でも、私はウクライナの歌手や指揮者を定期的に招いていました。国籍のことなど、私たちは考えたこともありませんでした。私たちは共に音楽を創りあげることを楽しんでいたのです。そしてそれは今でも変わることはありません。  フランスとロシアの人々が歴史的、文化的、精神的、そして音楽的につながっていること、そして私が愛するこの2つの偉大な国のつながりを誇りに思っていることを人々に示すために、トゥールーズでフランス=ロシア・フェスティバルを立ち上げたのです。今日、このフェスティバルはトゥールーズの政治家や行政によって開催が阻まれています。なんと嘆かわしいことでしょう。そして彼らは、私に平和に関する見解を表明するよう求めているのです!私は、このフェスティバルがどのような政治的な言葉よりも、架け橋として多くのことを成し遂げられると信じています。

 この数日というもの、私はこれまで想像だにしなかったものを目の当たりにしています。今、私はヨーロッパで選択を迫られ、仲間の音楽家たちの中からどちらか一方を選ぶことを余儀なくされています。

私は、どちらかひとつの文化的伝統を選ぶよう求められています。

私は、特定のアーティストを選ぶよう求められています。

私は、特定の歌手を選ぶよう求められています。

まもなく私は、チャイコフスキーやストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチと、ベートーヴェン、ブラームス、ドビュッシーのどちらかを選ぶようにと求められるでしょう。ヨーロッパの一国であるポーランドでは、すでにロシア音楽が禁止されています。

 私は、仲間であるアーティスト、俳優、歌手、ダンサー、指揮者たちが脅され、不当に扱われ、“キャンセル文化”の犠牲になっている様を目撃することに耐えられません。私たち音楽家は、偉大な作曲家の音楽を演奏し解釈することによって、人類がお互いに思いやりと尊敬の念を持ち続けるための特別な機会と使命を与えられているのです。私たち音楽家は、ショスタコーヴィチの音楽を通して戦争の悲惨さを人々に思い起こさせるために存在しているのです。私たち音楽家は、平和の使者なのです。今や私たちや私たちの音楽は国や人々を結びつけるために用いられるのではなく、分断され、排斥されようとしています。

 以上のような理由から、そして、愛するロシアの音楽家たちと愛するフランスの音楽家たちのどちらかを選ぶという不可能な選択を迫られたことから、私はモスクワのボリショイ劇場とトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団の音楽監督の職を即刻辞任することにしました。この決断は、私がボリショイ劇場や トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団の音楽家たちと知り合うことができてとても幸運であったということをお伝えするためのものです。これら2つの団体の素晴らしいアーティストたちと音楽を創ることは常に光栄なことであり、私はこれからも「音楽家」として彼らの側にいます!!!!!!!」

 トゥガン・ソヒエフ

 原文の末尾は、“ It is always a privilege to make music with all wonderful artists from those two institutions and I will always stand by them as MUSICIAN!!!!! ”である。音楽家が大文字になっており、“!”が5個も付いている。日本語訳は7個なので2個多い。この文章からは「音楽家」としての強い思いが感じられる。

  「ウクライナ戦争」も来週11月19日で1000日となる。西側諸国(特に副大統領時代からのバイデン)とウクライナの側の「不都合な真実」も少しずつ明らかとなり、トランプの再登場もあって、停戦に向けての動きも進むだろう。音楽界の状況も、ゲルギエフ排斥を除けば、落ち着きを取り戻しているようにも思える。

  最後に、ソヒエフが、来年1月19日のNHK交響楽団定期演奏会(私も参加する)で取り上げるショスタコーヴィッチの交響曲第7番ハ長調「レニングラード」について語った動画を紹介して、本稿の結びとしたい。
 

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「アシアナから」:カブールの職業訓練施設の一少年

Dieses Spielzeug wurde aus der Aschiana-Schule,
Kabul geschickt.

――「アシアナから」――

2002年のカブールの職業訓練施設で一少年が作った木製玩具。
肉挽器の上から兵器を入れると鉛筆やシャベルなどに変わる。
「武具を文具へ」。
平和的転換への思いは、いつの時代も同じです。

「直言」2002年6月10日