最近、ある人に「親指シフトを使っています」と話したところ、「それ、何ですかぁ?」といわれて絶句してしまった。PC歴の長い方でも、「親指シフト・キーボード」の存在をまったくご存じなかったのだ。いささかショックだった。「検索で調べてみて下さい」といった手前、自分でもサーチをかけてみた。その結果、「親指シフト」にこだわりをもつ人々がたくさんいることを知った。何が違うのか。端的にいえば、入力速度と入力感覚が違う。いわば軽快感である。「軽快・感」ではなく「軽・快感」と表現した方が正確だろうか。とにかく一度この味を覚えたら、ローマ字入力で文章を書く気がしなくなる。試しに、下記サイトで確認してほしい(右下の「JISかな入力を含む比較アニメーション」をクリックする)。また、「親指シフト・キーボードを普及させる会」のサイトは心強かった。すぐに賛同メールを出した。そして、作家の姫野カオルコさんにならって、プロフィール欄に「親指シフトユーザー」と書き入れるようにもなった(手始めは2月11日熊本講演のレジュメ)。もっとも、「親指シフト」を知らない読者の方々も多いと思う。「ローマ字入力で十分。そんなの知って何になるん?」という方もおられよう。そこで、今回は、政治や法律の問題を離れて、やや個人趣味的に「キーボードの文化」について語ることにしたい。
80年代半ば、ワープロが普及しはじめた頃、当時在職していた札幌学院大学の同僚のすすめで富士通OASYS100シリーズを購入した。1985年当時、100万円近くした。車を買うくらいの覚悟が必要だった。やがて少しずつ値段も下がり、他の同僚たちも次々にワープロを導入して、職場はワープロ派と手書き派に二分された。ワープロ派は、ローマ字入力、JISキーボード、「親指シフト」の3つに分かれた。OASYSユーザーは、当然「親指シフト」になった。私は英文タイプを使っていたのでローマ字入力もできたが、すぐに「親指シフト」の魅力にとりつかれてしまった。広島大学でパソコンを研究室に導入した1990年。キーボードだけは特別に「親指シフト」にしてもらった。パソコンを買い換えるたびに、「親指シフト」を維持した。すでに18年間愛用している。『法学セミナー』1998年1月号「プロフィール」欄で、「体の一部になっている」「墓場まで持っていく」と宣言したほどである。
では、「親指シフト」と他の入力方法とでは、具体的にどこが、どう違うのだろうか。さきほど、入力速度と軽・快感と書いた。ワープロ普及期に入力速度を競わせたところ、OASYSの圧勝だったという。当然である。たとえば、「憲法学会」を出す場合、「親指シフト」なら「けんぽうがっかい」の8打+変換キーの計9打ですむ。「が」の濁音は、「か」のキーを打つ左手薬指と右手親指の同時打ちで出る。ローマ字入力だと、「が」はGAと2 回打つから、「KENNPOUGATTKAI」は14打+変換キーの計15打となる。かなりの開きである。「ピンポイント爆撃」だと、片仮名を出すための無変換キー2打を含めて「親指シフト」は13打、ローマ字入力が21打となる。ただ、私個人としては、ブラインド・タッチで相当速く入力できるが、オフィス文書を手早く作成する必要もなく、スピードはあまり問題ではない。他方、「親指シフト」は、平仮名で入力して変換キーを押すので、ローマ字入力のような「とんでもない変換ミス」が少ないという正確さもメリットだ。だが、速度や正確さも大切だが、何よりも、「思考の流れ」を、文字を意識することなく、自然に文章に表現できるところに最大のメリットがある、と私は考えている。
ローマ字入力だと、脳は無意識のうちに、思考をローマ字に分解して手への指令を出す。他方、「親指シフト」の場合には、頭に浮かんだ日本語がそのままキーボード上で指の運動に変わる。つまり、指に命令を出す系統と、頭のなかで文章を構成していく系統が違和感なく一緒に動いていくわけだ。「親指シフト」の場合、頭のなかで文章があふれるように出てくると、親指を含めた両手が自然に動いてくれる。心に思い浮かんだ文章が、目をつぶっていても文章として画面に再現される。変換キーが直前に変換したものを第一順位で出すから、同じような文章を書いているときは、ほとんど画面を見ないでも文章にできる。これが最大の魅力だろう。文章とその流れを大切にする作家が「親指シフト」にこだわるのもよくわかる。
先日、修士論文の面接試験をやった。論文を丸めて片手に持って教室に入ってきた院生を見て、ふと自分のことを思い出した。ちょうど25年前の1978年。同じ教室で、私は「質問される側」にいた。当時、修士論文は手書きのため、私は1000頁近い重い原稿用紙の束を両手で抱えて教室に入っていった。いま、そういう院生は一人もいない。手書きで原稿を書いていた頃が懐かしい。モンブランの極太万年筆が原稿用紙を滑るように文章を紡ぐとき、何ともいえない快感があった。逆に、文章がまったく出てこないときの焦りとペン運びの鈍重さも、右手がしっかり記憶している。「文章のノリ」はペンの流れと一体である。インクの出が悪かったり、ペン先に違和感が残ったりして、思考の流れを妨げる要素が少しでも出てくれば、文章を書く気力が急速に失せていく。だから、貧しい院生時代でも、下書きはシェーファー、原稿用紙への清書はモンブラン(極太)と贅沢に決めていた。手書きからワープロに移行しても、この手書き感覚は失いたくないと思った。そのこともあって、思考を妨げることなく、文章が流れるように出てきて、ブラインド・タッチで入力できるワープロ専用機をいまも書斎に置いている。便利になりすぎた時代、あえて無駄を省いたシンプルな機種は「書く」道具として秀逸である。インターネットやCD-Romなどからの膨大なデータやファイルを、執筆過程でそのまま取り込むことをあえて「禁欲」する。執筆作業を意識的にそうした膨大なデータの集積から一端切り離す。すると、不便な分、「書く」という作業がピュアになる。便利になりすぎた時代に、思考を冷静に保つための自己防衛といえようか。書斎にはワープロ専用機とワード搭載デスクトップ型パソコン(親指シフト)を置き、研究室にはノート型パソコン(ローマ字入力)。これらを組み合わせれば、何の不自由もない。何でも「進化」させないと気がすまない、「ヴァージョンアップ・オブセッション」(新しいもの強迫観念)の傾向が世の中を支配しているようだが、最先端を追求するだけでなく、古いものを使い込み、深化させていくところに、文化の真価がある、と私は思う(ただし、ウィルス対策ソフトの不断のヴァージョンアップだけは必要!)。パソコン全盛時代、あえて「手書き感覚」を維持している所以である。ここまで書いてきて、パソコンどころか、ワープロもやめようという議論があることを思い出した。少々長くなるが、いま少しお付き合い願いたい。
私が注目するジャーナリストの一人に外岡秀俊氏(現・朝日新聞ヨーロッパ総局長)がいる。彼が今からちょうど3年前に書いたコラムに、「ワープロ廃止論の重み」(『朝日新聞』2000年2月27日付「閑話休題」欄)がある。書家・石川九揚氏の「文学は書字の運動である」という文章を紹介したものだ。石川氏は、教育の場や家庭からワープロやパソコンを追放せよという大胆な論を展開しているという。石川氏によれば、表音文字を中心とする西欧文化では、ワープロは「書く」から「打つ」行為への転換にすぎない。だが、表意文字の漢字を中心として、ひらがな、カタカナが交じる日本の文化では、その根底が覆る。たとえばワープロで「雨が降る」と打つ時、人は「amegafuru」や「あめがふる」のキーを打ち、「飴が降る」「あめが振る」などの同音異義の漢字から「選択」する。文章を思考を集中、持続し、極点で発熱して初めて生まれる身体運動のはずだ。ところがワープロでは、これが表音を「打つ」行為と、漢字を「選択する」行為に分断される。これでは思考は絶えずかき乱され、ひっきりなしに電話がかかる中で文章を書くようなものだ。「電子メールは、言葉の垂れ流しでしかない。手紙は重い。やっとの思いで書き、封筒に入れる。切手をはっても、ポストの前で出さずに引き返すかもしれない。そういう深い思いや迷いを経て、ようやく届くのが手紙です」と石川氏はいう。この文章を読んだ外岡氏は自問する。「私たちは、情報の海の中で仮想の人間関係を確認し、自分は孤立していないと安心したいばかりに、発信を続けているだけではないのか。インターネットが欠かせなくなった時代だからこそ、石川氏の言葉をかみしめたい、と思った」と。
外岡氏の言葉に共感を覚える。ただ、手書きだけの世界にもどることは、外岡氏もそうだと思うが、私にもできない。だからこそ、「打つ」という場合でも、「書く」という気持ちを大切にしたい。そんなとき、日本語の特性と流れを最大限追求・重視した「親指シフト・キーボード」は、「思考をかき乱す」ことが少なく、本来の「書く」という作業に近いものになっているのではないか。やや我田引水に響くかもしれないが、私の個人的体験から、「親指シフト」は、ローマ字入力と手書きの間にあって、「打つ」のだけれども、日本語の思考を流れを自然に演出してくれるという意味で「書いている」といえるのではないか、と思うのである。「親指シフト」愛好者は、この指摘に共感すると思うが、他のキーボードのユーザーには「?」だろう。いずれにせよ、パソコンがここまで普及した現在、それをより上手に使いこなすためにも、キーボードにこだわってみることは無駄ではないだろう。
※イラクや朝鮮の問題が重大の局面を迎えていますが、入試繁忙期のため、ストック原稿をUPします。ご了承ください。