雑談(25)大学教師20年 2003年7月14日

1983年 9月1日付で、北海道の大学に就職した。採用が決まったのは29歳だったが、赴任時は30歳になっていた。当時は札幌商科大学という名称で、職名は商学部助教授。翌84年4月に新設される法学部(同時に札幌学院大学と校名変更)の開設スタッフの一人だったが、私は「開設準備要員」として半年早く着任したのだった。授業は法学1コマだけ。あとは道内各地の高校まわりをしたり、入試説明会に出る日々だった。要するに「営業」である。札幌市内の主な高校はほとんどまわった。北海道に住んで初めての雪が降った時、手稲山にかかった黒雲のすごさは忘れない。酷寒の時期に、道北や十勝、後志方面にも行った。いやいや向かうか、行った以上は初めての土地を「楽しむ」か。同じ時間を使うのでも、考え方一つだ。私が講演で地方に行くときの行動パターンは、この頃に形成されたものである。
  当時、法学部が2つしかなかった北海道で、リーガルマインドをもった人間が増えることの意義を一生懸命に訴えた。「偏差値がすべて」という人には、私の話に数秒でも時間をさきたくないという態度をとられた。驚きだった。他方、私の話をじっと聞いてくれた進路指導の先生のなかには、「やる気のある若い先生たちがいる大学に、ぜひうちの生徒を受験させたい」と言ってくれる人もいた。入試説明会の会場には空席が目立ったが、何人かの先生方には「心が通じた」という手応えを感じた。事実、それらの先生方の高校からは、いい生徒が継続的に受験してくれた。私のゼミ生になった人もいる。あとで講演に私を呼んでくれるきっかけとなる出会いもあった。大学教師1年生、当時30歳の私にとって、あの時出会った高校教師の方々の態度や振る舞いを一生忘れることはないだろう。それは、私の教師として生き方にもさまざまな栄養となった。だから、反面教師(教授)にも、今は感謝したい気持ちである。
  札幌学院大学・水島ゼミは商学部1期、法学部6期まである。当時は私も若かった。北海道のさまざまな憲法問題を取材するために、学生たちと車で各地を取材してまわった。北海道で出会った学生たちが、その後、社会のさまざまな分野で活躍しているのをうれしく思う。30歳そこそこの私と一緒に学び、行動してくれた学生たちの顔が、今も浮かぶ。北海道での6年間、本務校以外でも、たくさんの学生を教えた。岩見沢にあった駒沢大学北海道教養部で毎年40名(法学部1、2年生)を4年間教えた。厳冬のアイスバーン状態の道路を飛ばして、南幌経由で岩見沢まで行き、教室に駆け込んだのを懐かしく思い出す。あの時、初めて、専門科目の「ドイツ法」を教えた。本当は一番やりたい授業だったからだ。ヴァイマール憲法やナチスのことを講義すると熱を帯びてくる。醒めた目で聴いていた学生たちの顔が次第に変わってきた。「ベルリンの壁」の話をすると、それに触発されたというS君(現在、国土交通省)がシベリア鉄道で東欧に向かい、最後は東ベルリンから西ベルリンに抜けるという旅をした。当時、西ベルリンから東ベルリンに短時間入るのが「普通の観光コース」だったから、彼はその逆を、しかもシベリア鉄道を使って、長時間かけてやったわけだ。1988年のことである。その翌年「ベルリンの壁」が崩壊。彼は、「あの旅のおかげで、なぜ壁が崩れたのかが理解できました」と私に語ってくれた。歴史的一回性の旅は、その後の彼の生き方にも影響を与えたようだ。
  私の人生にとって、札幌学院大学で久田栄正教授と出会ったことは決定的な意味をもつ『戦争とたたかう』の仕事がなければ、私は今頃、平和主義を軸にした、こういうホームページを出す研究者にはなっていなかっただろう。私の父方の祖父が、久田氏と同じ北海道・北見の出身であることも後で知った。私は特定の宗教は持たないが、不思議な縁を感じる。

  36歳のとき、広島大学に赴任した。89年9月。「ベルリンの壁」が崩壊する2カ月前のことである。学内的には無名の私の授業は、最初、憲法で89人、現代法政策論は8人、外国文献講読は5人という少人数だった。外国文献講読では、英語で「現代ドイツ政治史」を読んだ。学生はつまらなそうに訳していた。だが、10月になって東ドイツで動きが激しくなり、「ベルリンの壁」の問題も授業で詳しくとりあげるようになった。そして、11月9日(壁崩壊)。学生たちの目が明らかに変わった。
  広島大学は、当時、教育系だけで2学部(教育学部と学校教育学部)あった。教職の「日本国憲法」2単位が必修だったこともあって、翌年以降、この2学部を中心に1000人近い学生が私の授業に押し寄せた。大講義室には立ち見が出た。教員の数が学生よりも多いこともあって、ゼミは少人数だった。それでも5期生まで教えた。それぞれ個性的な学生たちだった。1993年、広島大学・水島ゼミ3期生と沖縄合宿を行い、そのとき初めて山内徳信・読谷村長を訪れた。今年は、その初訪問から10年である。広島大学時代は、何よりも総合科学部という学際的な学部に所属したことが私にとってはよかった。それを象徴するエピソードはかつて書いたので省略する。なお、広島大着任後1年半で、ベルリンでの在外研究に出してもらったことは大変ありがたかった。おかげで、統一直後の東西ドイツを定点観測するというチャンスに恵まれた。「ベルリン・ヒロシマ通り」について、現地取材に基づいて本にすることもできた。広島大では、北海道の大学のこじんまりとした快適さとはまた違って、巨大国立大学のメリットとデメリットを贅沢に体験させてもらった。もっとも、最近の総合科学部の様子をかつての同僚に聞くと、「独立法人化」なる手管に呪縛された国公立大学の全国的傾向をも反映してか、私がいた頃の学部のよさが次第に失われていくようで、実にさみしい。なお、非常勤講師をしていたエリザベト音楽大学における「音楽による法学」の体験も、広島時代の私の生活を豊かにしてくれた。
  美しい自然と地方都市の人懐っこさにいだかれて、北海道と広島での12年半は、私にとって「珠玉の時」となった。助手から教授になるまで、ずっと早稲田で過ごしていたならば、今の私とは違ったタイプの人間になっていただろう。その意味では、運命の多彩な悪戯に感謝している。

  早大法学部に着任した翌年、水島ゼミが誕生した。そして、水島ゼミ1期生が選んだ最初の合宿地は広島だった(1997年)。その際、学生たちは大牟田稔さん(元広島平和文化センター理事長、元中国新聞論説主幹)と出会った。まもなく、大牟田さんから「○○君はどうしていますか」という手紙をもらった。質問で食い下がる学生たちに、予定をはるかに超える3 時間も対応していただいた大牟田さんは、個々の学生の名前まできちんと記憶されておられた。大牟田さんに「惚れた」学生たちの方も、翌年また広島で「有志合宿」をやったりしていた。2001年10月、大牟田さんは亡くなった。当時のゼミ生の一人が広島での葬儀に向かう新幹線のなかからメールをくれた。ゼミ生の心のなかに、大牟田さんは今も生きている。なお、かつて大牟田さんから「三省堂ぶっくれっと」の仕事について、「早く本にして下さい。待っています」と二度も督促された。「国民保護法制」が登場するいま、大牟田さんとの約束を果たす時期がきたようである。そして、2001年の長崎合宿のおりにゼミ4、5 期生が出会った鎌田定夫さん。2002年2月に亡くなったが、このことはすでに書いたので省略する
  広島と長崎の今は亡きキーパーソンたちとゼミ生との出会いは、私がその場にいなかったからこそ、すばらしいものになったと思う。私は学生たちの取材に決して同行しない。出会う相手が学生たちと正面から向き合えるよう、教員はその場にいない方がいいという判断からである。今だから公開するが、1998年の沖縄合宿の際、岸本名護市長に学生たちが取材したが、その時私は、ゼミ合宿に密着取材していた沖縄タイムス記者と、名護市内の喫茶店で学生たちの帰りを待っていた。1時間の予定の面会時間が倍以上に延びて、少々待ちくたびれたのを覚えている。そして今年。6、7期生が合宿地に選んだのは北海道である。9月上旬、わがゼミ生たちが道内各地に展開して、北海道のさまざまな問題について取材する。出会いと再会が今から楽しみである。
  この20年。得たものが多い反面、失ったものも少なくない。もっと勉強しておくべきこともたくさんあった。勉強以外でも、やりたかったことをたくさん捨ててきた。とはいえ、自分で選んだ人生である。選んでしまった以上、自分ができなかったことを後悔することはもうやめにした。それを教師生活20年という節目に感じることができたのは幸いだった。定年まで20年という折り返し地点でもある。「水島ゼミ」は死ぬまで続けるが、その場は必ずしも「大学」だけを意味しない。このホームページの「直言」もいつまで続くかわからないが、執筆が不可能となる特別の事情でも生じない限り、連続更新のレコードはのばしていきたいと思う。

付記:9月1日掲載の予定稿だったが、諸般の都合で今回UPする。