人の死は深い悲しみを伴うが、それが「新たな出会い」の始まりとなる場合もある。生物学的には死んでも心のなかで生き続けられる。ここ14年ほど、そんな体験を重ねてきた。
父の死で知った作曲家・高田三郎氏の奥深い世界。父の死の半年後には、私の生き方に大きな影響を与えた久田栄正氏の死。父の死の10年後、高田氏本人との出会い、そして別れ。「水のいのち」を実感した北海道余市川でのカヌー体験。さらに、ゼミ学生を介した鎌田定夫氏との出会いと別れ。何年かの単位で、「出会い」と「別れが繰り返され、その度に、いろいろなことに気づき、また元気をもらってきた。
先月2日、大切な友人を一人失った。ベルリンのティアガルテン区に住むハインツ・シュミット氏(1922年1月12日~2003年4月2日)。彼との出会いは、1988年5月、作家・小田実氏が主催する「日独平和フォーラム」に参加してベルリンを訪れたときだった。恰幅がよく、堂々たる話しぶりで、ドイツ側参加者のなかでも一際存在感があった。私が、ある地区の平和集会で久田栄正氏のことを話したところ、シュミット氏がすぐに私のところにやってきて、私の話に共感を表明してくれた。以来、私より30歳も年上だが、お互いをdu(君)で呼び合う交際を続けてきた。91年の在外研究のときは、家族でベルリンのお宅を訪問。近所のタイ料理店でご馳走になった。当時8歳だった娘は、シュミット氏がご飯に醤油をかけて食べたことを今でもよく覚えているという。
彼は、この12年間、私の研究テーマに関連する新聞記事を複数のベルリン地方紙から切り抜いて、まとめて小包で送ってくれていた。年に6~7回は届いたと思う。そのつど、絵はがきに近況を書いてきた。日本でベルリンの地方紙を読む人はほとんどいないから、90年代は彼の切り抜きが原稿書きや授業・講演などで大変重宝した。だが、インターネットを使うようになって、ベルリンの地方紙3紙もホームページで毎朝読めるようになった(とくにTagesspiegelは有益)。だから、彼から届く小包は、このところ「積読」状態になっていた。最後の小包となった2月11日着のものは、4月7日に彼の死亡を伝える遺族からの手紙が届いてから初めて開封することになった。後悔した。手紙には癖のある字で、私の仕事が成功するよう祈っているという趣旨のことが書いてあった。読みながら涙が出てきた。
早速、遺族に対して、彼の友情に感謝する手紙と、「ヒロシマ通り」で撮った彼と私とのツーショットを入れ、弥勒菩薩の切手を貼って送った。
13年もたつと、「ヒロシマ通り」はけっこう知られるようになった。「ヒロシマ通り」ないしHiroshimastrasseで検索をかけると、結構ヒットする。だが、なかにはとんでもないものもある。デンマーク留学1年の経験をもつ女子学生の旅行記にはこんな下りがある。「Hiroshimastrasse(広島通り)という停留所があった。ヨーロッパでは、一つ一つの道に名前が付いてる。わざわざ広島という日本の地名をつけたのはなんか意味があるのだろうか。ちみなに特に何もない狭い道だったが…」。単なる県(市)名の「広島」ではなく、「ヒロシマ」という言葉に想像力を働かせる姿勢は、そこにはない。
別のドイツ語学科の女子学生が出しているサイト。さすがドイツには詳しい。ドイツ一人旅もやっている。だが、ベルリン訪問日記には、こんな箇所が出てくる。「私は、駅も何にもない公園のど真ん中でトホホ気分になりました。途中、ヒロシマ通りというのを見つけました。三国同盟のときにでも名づけたのでしょうか」。危うく椅子から転がり落ちそうになった。日独伊三国同盟は1937年じゃろうが。三国同盟と原爆投下の関係がまったくわかっていない。トホホの歴史認識ではある。
「ヒロシマ通り」については、ドイツ滞在中に1 本書いた。また、ベルリンの日本大使館が「ヒロシマ通り」に新住所を定めたときには、『朝日新聞』(東京本社)2000年8月23日夕刊の記事が出た。上記の2人の女子学生のような例もあるので、歴史に記録を残すという意味で、シュミット氏のことを、『中国新聞』2003年5月1日付「文化欄」に急いで執筆した。以下、その文章を下記に転載しよう。
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ベルリン「ヒロシマ通り」誕生の立役者--ハインツ・シュミット氏を悼む『中国新聞』2003年5月1日付文化欄4月2日、ベルリン「ヒロシマ通り」実現の影の立役者、ハインツ・シュミット氏が亡くなった。81歳だった。
苦学して小学校教員となり、校長、最後にはベルリンのティアガルテン区教育長を務めた。1965年以来、3度来日して各地で講演。1980年4月には広島も訪れている。日本通で、夫人が亡くなったとき、石畳と灯籠に松の木を配した日本庭園風の墓を作っている。
79年に社民党政権が、北大西洋条約機構(NATO)の中距離核の欧州配備を推進したことに抗議して、社民党を離党。無党派市民の立場で反核平和運動を地域に組織して活動した。85年9月、区内の公園を「ヒロシマ公園」に改名する運動を始めるが失敗。次に、旧日本大使館と旧イタリア大使館の間の通りと隣接する橋を「ヒロシマ」に改名する運動に着手する。
この通りと橋は、33年12月にナチスが「地名の軍事化」を行って以来、海軍提督の名前が使われていた。シュミット氏は、この通りの絶妙なロケーションに注目。ここを日独伊三国同盟を象徴する通りから、平和を象徴する通りに変えるべく、区議会に働きかける。改名提案は何度か否決されたが、89年4月、「ヒロシマ通り」への改名が可決された。隣接する橋を「ヒロシマ橋」に改名する勧告も同時に可決された(橋名は市の権限)。その半年後、「ベルリンの壁」が崩壊。ドイツ統一を目前にした90年9月に「ヒロシマ通り」、その翌月に「ヒロシマ橋」の改名式典が行われ、シュミット氏も招待されている。
91年6月、連邦議会は首都をベルリンと決定。冷戦時代に旧西ベルリンのはずれで、人通りも少なかった場所に、ボンから日本大使館とイタリア大使館が帰ってきた。その時、そこは軍人の名前ではなく、日独伊三国が始めた戦争で原爆を投下された都市の名前の通りになっていた。そして、一昨年3月から、日本大使館の住所はヒロシマ通り6番地となった。
筆者は、シュミット氏と15年間にわたり交流してきた。広島大時代にベルリンに滞在した時、本紙91年5月29日付に「ベルリン・ヒロシマ通りの隠れた由来」を書き、彼のことを紹介した。94年には、本社出版部から『ベルリン・ヒロシマ通り--平和憲法を考える旅』を出版した。
彼は12年間、2カ月に1 度のペースで、私の専門分野に関わる新聞切り抜きをまとめて郵送してくれていた。多忙ゆえに、2月中旬に届いた小包を迂闊にも放置していた。4月7日に死亡通知が届き、慌てて開封すると、いつもの癖のある字の手紙が出てきた。それを読みながら、かつて彼がくれた手紙の一節を思い出していた。
「私が不満なのは、長崎への第二の原爆の犠牲者のことが注目されていないことだ。東ベルリンに『ナガサキ通り』を作る必要がある。なすべきことはまだまだある!」。