八日間で成立した防空法 ここで、防空法(1937年4月5日法律第47号)について簡単に述べておこう。 前回紹介したように、防空訓練は1928(昭和三)年の大阪市を皮切りに、1930年代には全国的に実施されるようになった。また、1935年を境に、ヨーロッパ各国でも防空法が制定される(世界防空事情研究会編『防空法とは』1937年、研精社、39〜90頁)。そうしたなかで、内務省や陸軍省防諜課などを中心に、防空法制定に向けた動きが活発化してくる。 第70帝国議会において、防空法はわずか九日間で成立した。まず、1937(昭和一二)年3月22日に、政府提出法案として議会に初めて上程された。そこでは、河原田稼吉内務大臣が次のような趣旨説明を行っている。 「……諸外国に於ても夙に防空に関する法規の整備に腐心し、現に防空法規定の制定を見たるものも、既に数箇国に達して居るやうな事情なのであります。我国に於きましても、数年来各地方に於て防空演習を行ひ、空襲の場合に処すべき国民の訓練に努めつつあることは、既に御承知の通りであります。併ながら従来より行ひましたる防空演習なるものは、之を法規に基き実施致して居るものでなく、即ち適宜官民の申合せに依り、適当に之を行ふに過ぎないものでありまして、其実績に徴しまするに……地方に依り其方法区々に岐れて……単に一時的に其演習を行ふのみでは、有事の際に欠くべからざる諸般の設備を予め準備する上に於て十分ならざるの憾みもあるのでありまして、政府と致しましては一定の防空計画を樹て、それに基づき平素統制ある訓練を行ふと共に、必要な設備資材等の整備を為し、且つ其費用を負担すべき者を定め、又は国民に対して或種の義務を命ずるの必要を感じ、即ち防空に関する法規を制定するの必要なることを認め……」。 これに続く趣旨説明のなかで挙げられた法案の重要ポイントは、次の八つ。即ち、1防空の実施は防空計画に基づくこと、2地方長官、市町村長、特に指定された行政官庁以外の者による防空計画の設定、3特定の者に対して防空計画遂行上必要なる義務を課し、灯火管制に際し一般国民に「光の隠匿」を義務づけたこと、4主務大臣の命令・統制下での防空訓練の実施、5防空に関する費用負担、6防空実施にかかる損失補償、7中央・地方防空委員会の設置、8勅令による施行時期の決定、である(『衆議院議事速記録』第28号747頁)。 防空演習のための法案?「防空法」 法案審議は迅速に進んだ。質疑は3月22、23日両日だけで、質問した議員は五名のみ。27日には早くも本会議で野村嘉六委員長による審議報告がなされた。内容は内務大臣の趣旨説明とほとんど同じだった。 「……従来行はれました各地の防空演習は、随時官民の申合せに依って行はれたるに過ぎざるものでありまして、演習の内容も区々に分れ、一時的計画でありまして、是では到底完全なる効果を挙げられませぬから、訓練、実行全体に対しまして、法制にて権限関係の範囲を定め、適切な計画を行はんとする為に、本案を提出したと云ふ理由であります」(『衆議院議事速記録』33号926頁)。 委員長報告の後、法案は途中の手続を省略して採決に付され、全会一致で可決され、直ちに貴族院に回付された。翌28日には同院の議事日程にのぼり、即日質疑を終了。特別委員会に付託された。そして30日、可決・成立に至ったのである。 ところで、採決前に行われた貴族院防空法案特別委員長報告には、次のような記述がある。 「(本法案は)……寧ろ防空演習法案と云ふやうに感じられるのでありますが……この原案で宜しいと云ふことになりまして……特別委員会は原案通り可決致しました」(『貴族院議事速記録』28号378頁)。 防空法は4月2日に公布され、10月1日に施行された。防空法施行令(1937年9月29日勅令549号)、官庁防空令(勅令550号)、防空法樺太施行令(勅令641号)ほか朝鮮、台湾、「関東州」に同法を適用する一連の施行令も、同時に施行された。 かくして、防空に関する各機関の権限および責任の範囲、損失補償、そして国民に対して防空に関する法的義務が新たに明確化されるに至った。だが、いみじくも「防空演習法案」と言われたように、この法律の目玉は防空演習・訓練の全国的実施・統制に対する法的根拠の創出にあった。防空法一〇条は次のように定める。 「主務大臣ハ防空計画ノ設定者ニ対シ防空計画ノ全部又ハ一部ニ基キ防空ノ訓練ヲ為スベキコトヲ命ズルコトヲ得」。防空に関する主務大臣は内務大臣である。 「防衛計画ノ設定者」とは、地方長官およびその指定する市町村長のほか、「規模大ナル事業又ハ施設ニシテ防空上特ニ必要アルモノ」(1941年の防空法改正で「防空上重要ナル事業又ハ施設」となる)を管理する行政機関以外の者を指す(防空法二、三条)。具体的には、「工場、鉱山、鉄道、軌道、水道又ハ電気、瓦斯、石油、電気通信、海運若ハ航空ニ関スル事業又ハ施設」をいう(防空法施行令二条)。こうして、地域や職場など、日常の生活の場でも、国民は徹底的に捕捉・統制・動員され、戦時体制に組み込まれていく。 回覧板に見る新町三丁目の防空訓練 東京・世田谷区新町三丁目。駒沢公園の西側、玉電(現・東急新玉川線)桜新町駅北側の地域。1945年4月20日当時、286世帯1142名の住民が居住していた(玉川警察署資料より)。いま、手元に、戦前の新町三丁目町会の手書き・孔版刷の回覧板などの束がある。持ち主はこの町会の隣組長のようで、回覧板の要所要所には赤鉛筆で傍線が引かれている。前回は1930年代の防空訓練を見てきたが、今回はこれを参考にして、ドゥーリトル爆撃隊による日本初空襲(1942年4月)以降の防空訓練の変遷を追ってみよう。 まず、1943(昭和一八)年6月16日付の『玉警防第250号……昭和十八年度東京府防空訓練要綱中隣組防空群基礎訓練実施ノ件』。芥川玉川警察署長、渡辺世田谷消防署長、河野世田谷区長の連名で、各町会長に宛てたものである。これは訓練方針としては、「間欠的奇襲」の可能性と、「中期以降ニ於テ相当大ナル機数ヲ以テスル反復的空襲ヲ受クル公算大」という基本認識のもと、「実践的ナル教育訓練ヲ重点的ニ施行スル」ことが強調されている。「施行ニ当タリテハ全般ノ計画ヲ俟(ま)チテ着手スルガ如キコトヲ避ケ重要度ニ応ジ逐次計画施行スルコト」という一文も、事態が切迫しているという認識を示している。 初空襲以来、中央レベルでは盛んに「実践的ナル訓練」が強調されるようになる。それまでは、例えば『昭和十六年度総合防空訓練京都市実施要綱』に見られるように、「軍防空ニ即応シ防空上ノ要度ニ応ジ防空業務ノ全般ニ渡リ総合的ニ之ヲ実施シ……」という一般的な形がとられ、訓練内容も、監視、通信、警報伝達、灯火管制、消防、防毒、避難、救護というように総花的であった(期間は10日程度)。これに対し、『昭和十八年度京都市防空教育訓練要綱』では、「本教育訓練ノ実施中防空警報発令セラレタルトキ又ハ状況緊迫シタルトキハ直ニ之ヲ中止シ実践ノ態勢ニ移ルモノトス」、また、「各期ヲ通ジ時ニ予告ナキ実践的(ママ)訓練ヲ合セ施行スルモノトス」という形に変化している。訓練内容も、防火、消防、防毒(教育のみ)、退避及び応急復旧に絞られ、訓練期間も通年にわたっている。 新町三丁目町会文書も、ほぼ同様の内容である。関係指導者に対する「研究会」の開催、「予告ナキ実戦的訓練」の実施も同様である。家庭の訓練では迅速なるバケツ注水に、隣組防空群では「(焼夷弾)落達場所ニ対スル包囲鎮滅」のための人員の配置に最重点が置かれている。『玉警防250号』に添付された『隣組防空群各種防空業務訓練要項』でも、「実戦的訓練」が強調されている。だが、落下した焼夷弾の処理訓練の最大の被害想定について、「小型焼夷弾は各戸一個以上、大型焼夷弾は一群一個トスルコト」など、まもなく始まるアメリカ軍M69集束焼夷弾による絨毯爆撃を考えれば、かなり牧歌的なものであった。 末端までいきわたらなかった防空訓練 『玉警防468号……月例訓練の徹底ニ関スル件』(1943年10月22日付)。「一部ニ依然トシテ形式的ニ終始シ或ハ月例訓練ヲ欠略シ或ハ……散漫ナル行動ニ出デル者若クハ徒ラニ感情ニ走リ事ヲ構ヘテ紛議ヲ惹起スル等真ニ遺憾ナル事例散見セラル」とある。「故ナク出動セザル者、正当ノ理由ナキ不拘種々条件ニ籍口シ出動ヲ拒否スル者」については、その住所、職業、氏名、年齢、理由を警察署に報告するとしている。防空訓練が必ずしも末端まで徹底していなかったことに対する当局のいらだちが分かる。 この時期の訓練は、メインの月例訓練が毎月八日午前九時から一一時とされ、この日が「防空日」とされている。夜間・払暁の訓練は毎月第三日曜日である。また、「人命救助、緊急避難」が重視されていたのが特徴である。町会文書に添付されている『隣組防空群人命救助竝(ならびに)緊急避難訓練要綱』によれば、訓練内容は五種類。1不発弾・時限爆弾による緊急避難、2爆発焼失等による緊急避難、3包囲火災脱出避難、4火煙中よりの人命救助、5倒壊家屋よりの救出作業、である。訓練のメニューは、初空襲までの一般的・網羅的訓練とは異なり、かなり具体的になってきている。なお、町会文書には、妊産婦、病人、老幼婦女等に「充分留意スルコト」とある。理由として、妊産婦を強制的に訓練に参加させた結果流産したり、病人や老幼婦女に「過激危険ナル動作」をさせた結果、負傷者や死者(心臓麻痺)が出たという事例も挙げられている。 1944年になると、サイパン守備隊「玉砕」をはじめ、戦況は一層悪化してくる。更に薄く、粗悪な紙に刷られた『玉警防第四八号……防空警備訓練其ノ他実施ニ関スル件』(同年2月5日付)。発信人は増田玉川警察署長。空襲時における「治安確保」のため、警察官、警防団員などによる専属警戒部隊を編成し、町会や隣組防空群がこれに協力するという内容である。いかなる事態のもとでも、体制維持の観点が第一義となっていた(拙稿「『内なる敵』はどこにいるか」本誌一一5号6〜7頁参照)。 『玉警防号外・回覧板−−家庭防空初動訓練実施要領』(1944年6月7日付)。冒頭に、「一般家庭ノ防空態勢整備ニ就テハ、未ダ訓練不徹底ノ憾アリ」とある。空襲が夜間・払暁になる可能性に鑑み、家庭における「初動訓練」の徹底が指示されている。これに基づき、玉川警察所管内では、早朝五時からの訓練が実施された(新町三丁目は6月11日〔日曜〕)。 新町三丁目町会長・指導係長名の通達『防空警報伝達ニ関スル件』(1944年12月8日付)。それまで防空警報発令時、同解除時はサイレンで知らせると共に、警防団員が「口頭」で伝達をしていたが、これ以降は「口頭」を省略し、サイレンのみの告知とされた。12月に入ると、連日のように空襲が続き、人員の不足が深刻化していたことを示している。 決戦態勢への大転換「町会義勇隊」 1945(昭和二〇)年になると、空襲の激化を反映して、町会文書が極端に減る。世田谷区の空襲被害は比較的軽いが、それでも死者81名を出している。 新町三丁目町会長『国民義勇隊組織ニ就テ』という回覧板。1945年5月21日午後八時から開かれた隣組会議で配布されたものである。 「今回政府ハ未曾有ノ重大危扁ニ際シ全国民挙ゲテ戦列ニ参加シ皇土防衛ト生産ニ挺身セシメ事態急迫セル場合ハ直ニ戦闘隊ニ移行セシムル国民義勇隊ヲ組織スル可トナリタルヲ以テ我町会ニ於テモ左記要領ニ依リ町内居住民ヲ以テ町会義勇隊ヲ組織ス可キニ付協力相成ルベシ」とある。具体的方針のトップに、「町内居住ノ国民学校初等科修了以上ノ男子六十五歳、女子四十五歳以下ノ者ヲ以テ組織ス(但シ病弱者及妊産婦ヲ除ク)」とある。この年齢以外の者でも志願により隊員に編入されるとしている。まさに根こそぎ動員である。 この回覧板綴りの持ち主であった隣組長は、この日、回覧板の余白に万年筆で、初めて会議の模様を書き残している。 「二〇、五、二一日午後八時町会事務所ニテ隣組長会議ヲ開キ町会長ヨリ本趣旨ヲ専ラ説明シ……調査事項ヲ提出セシメルナド……九時散会セリ」。 防空法はまがりなりにも、隣組単位で住民の「安全」をはかることをも目的としていた。「町会義勇隊」の組織により、その仕組みは崩壊する。国民総動員による「本土決戦」への道は、この小さな町会にも影を落としていた。 次回は住民管理・統制の「細胞」であった隣組について検討する。 |