さしなみのとなり さしなみのとなりにかよふ道ならむ 籬の竹のひまのみゆるは (明治三九年) 隣組の運営マニュアルの巻頭に掲げられた明治天皇「御製」の歌である。「さしなみ」は隣の枕詞、「籬」まがきは竹や柴を荒く組んだ垣、「ひま」は隙間をいい、「隣同志互ひに垣根を通つて往来し親しむ姿を御歌ひ遊ばされたもの」と解説されている(鈴木嘉一『隣組と常会−−常会運営の基礎知識』誠文堂新光社、1940年)。 古典落語の世界にも登場する日本独特の隣近所システムの分析は、その方面の専門研究に譲り(鰺坂学他編『町内会の研究』御茶の水書房、1989年ほか参照)、ここでは、太平洋戦争を目前にした時期に、なにゆえに国家が隣近所の問題に上から介入し、その体系的組織化・管理化に乗り出してきたのかについて少しこだわりたいと思う。この問題は、防空法体制のもとで、隣組がどのような位置を占め、またどのような役割・機能を果たしたのかという問題にもつながる。 近所付き合いの国家管理 もともと、隣近所が様々な形で関わり合う仕組みは、古くから存在した。自然発生的で素朴なものも少なくない。「大化の改新」の頃の「五保の制」をはじめ、江戸時代の「五人組」、「什(じゅう)人組」、「寄り合い」、「講」など。隣組常会の元祖としてよく引照されるのは、二宮尊徳の唱導にかかる「芋こぢ」である。里芋を洗う時に桶に入れて、棒でかき回すと、やがて皮がむけてきれいに洗える。だから、常会で心の皮が洗われて、自己本位の心がきれいになり、相互扶助の精神が培われるというわけである(東京市役所市民局町会課『隣組常会の栞』1940年22頁)。ただ、その時々の権力は、地域の再末端に位置する隣近所の問題に決して無関心であったわけではなかった。人々の自発的助け合いの形態と、権力側の管理・統制とは常に複雑に絡み合っていた。 東京で町内会活動が活発化したのは関東大震災(1923年)の頃からである。「その時焼けなかつた山の手や隣接町村では町から町へ『そら不逞の徒がやつて来る』といふやうな流言蜚語に脅かされて、続々と自警団が出来て街々の固めが強められて行つた。無論そんなばかなものの襲来はなかつたが、保安維持の為めに変事に処するいろいろな教訓となつたことは確かであつた。現存する全市三千有余の町会の中にはさうした歴史を有つものが余程あるだらうと思ふ」(東京市民局長前田賢次〔平林広人『大東京の町会・隣組』帝教書房、1941年26頁〕)。ここには、町内会発展の影の部分が吐露されている。 隣組の由来 東京市が町内会の整備強化に本格的にとりかかったのは1937(昭和一二)年4月のことだった。特別の調査研究機関も設置され、様々な検討がなされた。その結果、同年夏に、「最寄会」(もよりかい)を「隣組」に、「月例会」を「常会」に名称変更することが決まった。「隣組」という言葉が選ばれたのは、「有機的な一団としての社会組織をあらはすのには、『組』とするのが町内会の細胞組織体たるこの組織の名称として適切である」とされたからだという(平林・132頁)。「細胞組織体」という表現が妙に生々しい。 「隣組」という名称が初めて公式文書に登場したのは、翌1938年5月14日のことである。この日、東京市長小橋一太の名で告示された「東京市町会規約準則」のなかに、「隣組」という一章が設けられた。 東京市町会規約準則(1938年5月14日東京市告示第240号)第七章 隣組第三一条 概ネ左ノ標準ニ依リ隣組ヲ設ク 一 隣接スル五世帯及至二十世帯 二 五世帯以上ヲ収容スル「アパート」 三 貸事務所其ノ他ニシテ五世帯以上ヲ収容スルモノト看做シ得ルモノ 当時、隣組は「徳川時代の五人組制度の復興」といわれた(『町会と隣組の話』社会教育協会、1938年、24頁)。だが、東京を含め都市部では、伝統的な隣保制度は基本的に崩壊していた。この時期の隣組は、国家総動員法(1938年法律第55号)のもとで、住民をその生活の末端において捕捉・管理するとともに、戦争への「住民参加」の意識と儀式と形式を確立するための「装置」として、国家により目的意識的に創出されたものといえる。 隣組の「装置」化の転機となったのが、内務省訓令一七号「部落会町内会等整備要領」(1940年9月11日)である。1「万民翼賛ノ本旨」に即した地域的共同任務の遂行、2「道徳的錬成」「精神的団結」、3「国策ヲ汎ク国民ニ透徹セシメ国政万般ノ円滑ナル運用ニ資セシムルコト」、4「国民経済生活ノ地域的統制単位」、の四点が「目的」として列挙されている。これ以降、全国レヴェルで、町内会、部落会、隣組(隣保班)の整備確立が急速に進む。東京市の「町会整備運動」でも、一丁目ごとに一町会を作るとともに、「向こう三軒両隣」で隣組をつくることに重点が置かれた。地方も同様であった。たとえば宮城県多賀城では、村内の「契約講」が隣組に再編され、葬式の世話などを中心とした活動から、行政の末端組織としての性格を強めていく(『隣組と戦争』第三文明社、1978年17頁)。 かくて、1943年までに、町内会は6万5千、地方の部落会は14万5千、隣組は120万に達したのである。 「隣組三綱領九則」と隣組常会 隣組を広めていく上でのいわば「理念」にあたるものが、「隣組三綱領九則」である。 1交隣団体としての隣組 常会その他の方法によって、組員互いに相識り、和親を厚くするようにつとむること 組員の吉凶禍福に際しては速かに適宜の方途を講ずること。 組内をより住みよい、働きばえのある楽園とするようにつとむること。 2町会の細胞組織としての隣組 町会の通諜を滞りなく、全組員に徹底せしむると共に、町会の要求する報告を正確になし得る機構をもつこと。 各種の申合せ及行事の実行を期する方法を講ずること。 町会及び公益団体のために出動する当番を公平に分担する制を定むること。 3自衛団体としての隣組 各世帯及びこれに準ずるものは常に非常災害時の担当者を明らかにしておくこと。 非常災害特に空襲時に際しては、各部門の活動を分担出来るように常に組内の係を決めておくこと。 非常災害に対する各方面の機関と速かに連絡のとれる用意をしておくこと。 隣組が「装置」として駆動する上での核(ケルン)となったのが「常会」である。常会は市町村、町会、部落会、隣組の各レヴェルで行われたが、最も重視されたのは「隣組常会」であった。なにゆえ国家は、そうまでして、定期的に近所同士が集まることを重視したのか。その背景には、向こう三軒両隣りの付き合いさえしなかった「都会人」が隣同士で助けあうのは一つの進歩だが、「隣組一家」でなくてはならない、「これぞ皇國一家の単位であり、八紘一宇の具体化の第一歩である」という思想がある(鈴木・31頁)。戦前の支配体制の特徴の一つとして家族主義イデオロギーの強調があるが、隣組のレヴェルにもそれは貫徹していた。 隣組・常会の特徴と機能 隣組や常会の特徴として、次の点が指摘できよう。 まず第一に、「上意下達・下情上通」という標語に象徴されるように、住民の最末端まで国家意思を浸透・徹底させる装置であったことである。相互監視と相互牽制によって、「赤化分子」の炙り出しや、「不満分子」の抑制にも効果があった。 第二に、社会のレヴェルで、予測不可能なものを可能な限り排除し、矛盾を解消していく機能である。それにはある種の更生機能も含まれる。たとえば、「妾宅は隣組から除名すべきか」という豊島区住民(女性)の質問に対する、東京市の担当者の回答はこうだ。「隣組は今や国民の生活の母体であり、土台です。如何なる感情的理由をもつてしても、それから除名するなど誤りであるばかりでなく同じ国民の生活権を奪ふことにさへなるのです。……むしろ自分の組内に大きな気持ちで抱き入れ市民、国民としての更生を助けるやうにすることこそ隣組精神であり、真の国民更生の源泉となるのです」(平林・228頁)。 第三に、職業・貧富・老若・男女の区別なしの「隣保全員参加」である。そこにある種の「平等」が生まれ、女性の「社会参加」の機会もその限りで「拡大」した。だが、所詮それは、臨月の妊婦までもがバケツリレーにかり出されるという類のものだった。 都市部では、「インテリ層」の動員に苦労したようで、運営マニュアルには、こんな「美談」も紹介されている。「過般〔1940年〕十月の防空演習には杉山(元)はじめ参謀総長は夜中の一時から三時迄、自ら其の隣組の見張番に立たんとした。……生憎総長の外男手がなかつたからである」(鈴木・156頁)。一住民として、現役の陸軍大将も隣組に参加しておるのだぞというわけであろう。 第四に、住民の「自発性」が重視されたことである。常会運営についても、たとえば、「面白い集まりだ」「ためになり役に立つ大切な集まりだ」と思われるように、企画や運営面での工夫が求められた(『常会の手引き』自治振興中央会、1941年、15頁)。町会常会の会場の席次についても、有力者が上座に座り、借家人らが参加しづらくならないよう、到着順に座るように指示されている(鈴木・121頁)。 第五に、隣組は動員・訓練と思想統合の単位であった。「系統的計画的市民訓練組織」として、住民の動員に「貢献」した。たとえば、杉並区の婦人たちが、休暇で遊んでいた学生たちとバケツリレーの競争をしたところ、一定時間に婦人側は54杯運んだのに対して、学生側は33杯だったという。「訓練さへしてゐれば、婦人の力で大丈夫護れますよ」というわけだ(「家庭の共同防衛を語る 防衛当局と隣組長の座談会」『主婦の友』1941年4月号87頁)。 また、隣組常会は、「教化宣伝実施上の総合統制の中軸」として位置づけられた。そこでは、各種記念日の行事を通じて、一種のイデオロギー教育が行われた。常会では、まず「御真影」や「国旗」を前にして拝・黙祷を捧げ、「国歌」斉唱ののち、議事に入るよう指導された(前掲『隣組常会の栞』10頁)。 第六に、隣組は防空の基礎単位であった。「非常災害の自衛団体としての隣組」である。「隣組防空群」の機能については後述するので、ここでは省略する。 第七に、隣組(常会)は経済の単位でもあった。統制経済に伴う切符配給の末端機関であり、共同購入など消費組合的な機能も果たした。冠婚葬祭の無駄や慶弔行事の虚礼、「贅沢廃止・貯金・節米等の如きも常会にかけると苦もなく全面的に実践が行はれる」と、その「効用」が説かれている(鈴木・32頁)。 第八に、政治の単位としての側面も無視できない。隣組は「大政翼賛会の基礎単位」の位置づけを与えられていた。「新体制」のもとで、大政翼賛会が、全国の市町村の政治指導を強化していた。たとえば、青森県浅虫で開かれた北海道・東北地区の町内会部落会指導委員研究協議会(1943年10月23日)で、香月秀雄(大政翼賛会町内会部落会指導委員)は、ひどく荒っぽい、町内会と隣組の軍事化思想を説いている。すなわち、「戦陣訓」第五「諸兵心を一にし、己の任務に邁進すると共に、全軍戦捷の為欣然として没我協力の精神を発揮すべし」のなかの「諸兵」を「諸民」と読み替え、「全軍戦捷」を「全村(町)振興」と置き換えるだけで、直ちに「銃後の戦陣訓」となり、「町内会部落会の敢闘精神」となるのだ、と(『必勝態勢と町内会部落会』大政翼賛会、1943年8頁)。 町内会・隣組の整備確立を軸とした地域再編は、太平洋戦争開始までにほぼ完成した。次回は、この全国的な傾向が、各地の町会・隣組にどのように反映・投影していったかを、再び世田谷区新町三丁目町会に立ち戻って明らかにすることにしたい。 (この項続く) |