町内会長の「意見書」 いま手元に、『防空訓練・スパイに就て』(1940年9月19日)という謄写版刷(一部手書き)の意見書がある。これは、当時の東京市江戸川区小岩町第三部長〔町内会長〕板倉孝氏が作成したもので、送付先として、近衛首相、陸軍大臣、東部軍司令部など八機関が列挙されている。意見書によれば、小岩町における防空訓練の際、所轄の警防団員が毒ガス弾と焼夷弾との区別を明確にしなかったため、住民のなかに避難すべきか、消火すべきかをめぐって混乱が生じた。そのとき、警防団責任者が住民を一方的に叱責したため、板倉氏との間で公道上の「論争」に発展した。在郷軍人(元憲兵大尉)の板倉氏は、このような訓練の弛緩を、スパイによる「反戦思想の助長」、「防空訓練を利用し市民と指導者との離間を策」すものと捉え、すみやかに軍政を施行することを主張している。そして結論としてこういう。「彼ノ大震災ヲ思フトキ防空上吾人ノ最モ恐ルルモノハ敵ノ飛行機ニ非ラズ毒ガス弾ニアラズ焼夷弾ニモ非ラズ寧ロ国内的ニ他ニアリトナス所以デアル」(6頁)と。この元軍人の町内会長は、関東大震災時の「朝鮮人暴動」を例に挙げて、「敵は国内にあり」と強調するのである。 「民間防空」のねらい 太平洋戦争突入を前に、強力な国家総動員体制を形成するためには、下からテンション(緊張)を不断に高めていくことが必要であった。そのためには、「身近な敵」の強調ほど効果的なものはない。「市民的自由」を市民自らが切り縮めていくという構図である。 信濃毎日新聞主筆・桐生悠々の「関東防空大演習を嗤ふ」はあまりにも有名だが、こうした防空訓練の狙いは、空襲に対する備えというよりも、むしろ地方機関や市民を効果的に統制し、末端にまで管理を浸透させることに主な狙いがあった。「民間防空」ないし「国民防空」も、軍が行う「軍防空」と不可分一体の形で、国防目的に奉仕するものとして位置づけられていた。「民間防空」の目的は、国家体制の保護であって、国民の生命・財産の保護はその反射に過ぎなかった。「國民防空は根本に於て、強い國家主義に發足せねばならぬ。即ち國民全靆が國家と運命を共にすると云ふ殉國精神に出發してゐるのでなければならぬ」「國民は一人も残らず、……棄身となつて我が尊い國家を護り通すと云ふ決死の覺悟即ち防空精神を發揮することが何より大切であ(る)」(石井作次郎『実際的防空指導』1942年、80頁)。 「尊い國家」を守るために、「非常時」に、市民を効果的に動員する。だから、防空法は原則として市民(老幼病者を除く)の避難を認めておらず、居住者の事前退去の禁止・制限を定めていた(改正法八条ノ三)。「自衛防空の精神から、各自其の持場に踏止つて防護に努むることを本旨とし、空襲による被害、火災、被毒等已むを得ざる場合に限つて、混乱を来たさしめない範囲に於てのみ避難が認められる」という理由による(内務省計画局『国民防空の要領』1939年3月、25−6頁)。米軍が空襲警告の伝単(ビラ)をまいても、市民は個人の判断で逃げることはできなかったのである。「警告のビラがまかれたのに、何故逃げなかったのか」という疑問は、現代の市民感覚からのものであろう。 国民の生命の保護という観点からみて疑問視されるような「訓練」もあった。例えば、「鼻の訓練」。関東防空演習時の文書にこうある。「毒物の臭は人畜に害のある濃度よりもずっと薄いものでも人間の鼻で感ずる事が出来るから、各種ガスの匂を平生から嗅ぎわける訓練をしておく事は大切な事である。それによってその毒物の性質を知り、それに応じた防護処置を速に講ずる事が出来るのである。これは窒息ガスだからマスクをつければいいとか、これは糜爛ガスだから防毒衣を着なければならぬとか、更にここには晒粉や石油を撒く、これには炭酸ソーダの水溶液を撒けばいいとか、適宜の処置が臭ひで解る様になれば一番いい」(千田哲雄編『防空演習史』防空演習史編纂所発行・非売品〔1935年〕27頁)。毒ガスの嗅ぎ分けを「訓練」しても、「臭い」が分かったときはすでにガスを吸い込んでいるわけで、手遅れの場合もありうる(ちなみに、サリンは無臭)。旧軍の精神主義はこのようなところにもあらわれていた。 ところで、戦前の民防空体制のなかで、その基本単位とされたのが隣組である。その基本機能は、1.町会の基礎単位、2.交隣団体、3.防空防火等の対処組織、4.防諜組織、5.防犯組織、6.国民貯蓄の実行組織、7.生活刷新の実行組織、8.物資配給の基本単位、である(『隣組読本』1940年、10頁)。国家が、市民をその細部に渡って確実に捕捉・管理するためには、隣組は実に効果的だった。大阪市『隣組防空指針』(1941年3月)には、「防空は縦の防禦であり防諜は横の防禦である。国土防衛はこの両者が完全に行はれた時に於いて始めて(ママ)安全であるが、空襲は防諜の欠陥より起るとも云へるのである」(55頁)とある。また、『隣組読本』にも、「『吾等の機密は吾等で護る』と言ふ意気の下に、国民の一人々々が防諜員であると言ふ心構へでありたい」と書かれている(一一4頁)。「とんとんとんからりと隣組……」で始まる歌「隣組」(作詞・岡本一平)の一節に、「知らせられたり、知らせたり」というのがあるが、これも見方を変えれば、市民の相互監視、プライバシーの系統的侵害につながりうる。 こうして国民一人ひとりを「上意下達下情上通」(東京市役所編纂『隣組常会の栞』1940年、5頁)の状況に組み込み、「私的生活」を奪っていった体制は、結局、空襲そのものに対しても全く無力だった。興味深いことに、防衛庁が戦前の民防空体制を分析・総括した文書のなかでも、「〔戦前の防空政策に〕国民の生命財産の保護を目的とする発想は希薄であった」「国民の自衛防空組織に過大の任務を与え、また期待した統帥部、政府の指導者の誤り」などが指摘され、その「構造的矛盾」が批判されている(『大東亜戦争間における民防空政策』防衛庁防衛研究所研究資料87RO−4H、1987年、198〜300頁)。 冷戦の落とし子「民間防衛」 戦後、核戦争に対する備えとして、各国は「民間防衛」に力を入れるようになる。「民間防衛」(Civil Defense,Zivile Verteidigung)とは、「敵の攻撃から国民の生命、財産を守り、公共の建築物、設備、文化財等を防護し、速やかな復旧をはかることを目的とする組織的な非軍事的諸活動をいい、あわせて平時における大地震、暴風、洪水、高潮等の自然災害および大規模な火災、爆発等の人為的災害に対しても備えるもので、中央政府(多くの国では内務省、一部の国では国防省が主管)の計画指導とそれに基づく地方自治体の組織、指導のもとに主として軍以外の民間人が主体となって行う防護活動」と定義される(『国防用語辞典』352頁)。戦前の「民間防空」とは異なり、市民の生命・財産等の保護を目的とし、直接には軍事的性格をもたない。しかし、「民間防衛」には、そのまま受け入れることのできない「毒」がある。とりわけ憲法九条をもつ日本では、「民間防衛」には慎重な態度が必要である。 スイス民間防衛と1995年・ニッポン 1962年のキューバ危機は、核シェルター設置を含む「民間防衛」体制整備への重要な動機づけとなった。そのなかで、スイスの「民間防衛」体制は完成水準にあるとされてきた。 奇怪な事件が続発する世紀末日本で、そのスイスの「民間防衛」マニュアルが売れているという(スイス政府編『民間防衛』原書房)。宣伝文句には「あらゆる危険から身をまもる世界最高の完全マニュアル。TV・新聞で話題の本。緊急事態ハンドブック」とある。購入者の主な関心は、「阪神大震災」を契機に、日常的に災害への関心を高めるためのものだろう。だが、その中身は核兵器、生物・化学兵器への対処が中心で、極めてハードである。初期消火の方法、災害への備えや避難の仕方といった技術論だけでなく、このマニュアルの重点は、「内なる敵」への警戒心の喚起にあることは見逃せない。スパイ行為への警戒、「疑わしいことがあったら躊躇することなく通報すること」などが盛んに説かれる。「内部の敵」である左翼政党に対する監視・密告も奨励される。災害マニュアルというにはあまりに政治的である。 この本を紹介した『毎日新聞』95年3月21日付「余録」はこう結んでいる。「地下鉄車内で猛毒ガスをばらまき、相手構わず乗客を奇襲した犯人、犯人というより敵といったほうがいい。備えを怠っているところをみて、敵は化学兵器の使用を思い立ったのかもしれない。敵はこの国の内部にいる」。これを執筆したベテラン論説委員は、残虐・卑劣な事件の前に度を失い、国家の論理に見事に取り込まれてしまっている。冷静さを失ってはならない。 民間防衛のパラダイム転換 筆者は、九年前に金沢市で開かれた憲法の学会で、「有事法制と民間防衛」というテーマの報告をしたことがある(その内容は、『現代における平和憲法の使命』〔三省堂〕所収の拙稿参照)。筆者が「有事法制」と「民間防衛」の関係にこだわって報告したのは、78年から始まった「有事法制」研究が、その第一分類(防衛庁所管法令)、第二分類(他省庁所管法令)の研究をそれぞれ終了し、当時「民間防衛」を含む第三分類の研究に入ったとされていたからであった。「民間防衛」が初めて『防衛白書』に登場したのも78年。「有事法制」と「民間防衛」は、この国では密接な関係にある。 80年代に入り、米ソ中距離核の配備をめぐり、核戦争をめぐる緊張が高まった。その中にあって、ドイツでは、中距離核ミサイルのヨーロッパ配備にかかわって、いわば「楯」の役割を果たす「民間防衛」体制を強化する新法案が焦点となった。この時、医療関係者などから、「核戦争では生き残れない」という批判が強く、ある論者は、「あらゆる戦争に対する市民の最良の防護は、新しい民間防衛法によってではなく、強力で、影響力ある効果的な平和運動によって生まれる」と主張した。結局、「新民間防衛」法案は成立しなかった。 ベルリンの壁崩壊に始まる「冷戦の終結」という新しい事態は、全面核戦争を最終シナリオとしつつ組織されてきた「民間防衛」体制に、その存廃を含む根本的問題を提起した。多くの国々は、「民間防衛」組織の改編に着手した。ドイツも同様である。そうした動きを象徴するのが、「民間防衛」専門雑誌の変貌である。この分野の半ば公的な刊行物として、『民間防衛』(Zivile Verteidigung)という雑誌がある。この雑誌は、「冷戦」後まもなくして『緊急配慮−民間防衛』と誌名変更したが、95年1月からは、サブタイトルの「民間防衛」までもが削除され、単に『緊急配慮』となった。軍事的機能に重きを置いた「民間防衛」に未来はない、ということを、この専門雑誌のタイトル変遷は象徴している。 「冷戦」後の新しい状況のもとで、まず主管官庁である連邦内務省が「民間防衛の将来的構造」という報告書を発表し、「民間防衛」の新しい転換構想を提示した(注)。連邦内務省は94年1月25日、「ドイツにおける民間防衛−−将来のためのプログラム」を発表。「冷戦」後の新しい安全保障状況に鑑み、従来の「民間防衛」態勢を改めるべきことを提言した。注目されるのは、一般的な「脅威」の想定は存在せず、それと結びついた被害想定は妥当しないとされ、地域単位の災害対処が強調されていることである。かつてのような「全面核戦争」対処が無意味化したことを示す。核シェルター建設は当面まだ放棄されないが、公的シェルター建設促進の国家的プログラムが停止されるなど、再検討の必要性が説かれている。また、次のような指摘がある。「民間防衛」の基礎にある、核兵器や化学兵器を含むあらゆる態様の戦闘行動を伴う大戦争の危険は存在しない。そのかわり、現代的国民経済から出てくる、人間と社会に対する新しい脅威や危険、リスクが問題となる。旧ソ連のチェルノブイリ原発事故はその典型的事例である。そして、工業国家による天然資源の破壊と消費による脅威、即ち世界的規模での自然破壊である、と。 「民間防衛」の新たな存在証明は、自然や環境から生ずる大災害対処の方向に重点シフトしつつある。連邦民間防衛庁のもとにあった連邦技術支援隊(THW)という組織も、九三年に組織的に独立し、カンボジアやソマリアを含む世界各地に人道援助・技術支援に派遣されるに至った。かつての核戦争対処部隊がいまや、国内の水害等の災害に対処する活動と並んで、非軍事的国際貢献活動に重点を置くに至ったのである。このような「民間防衛」組織の脱軍事化傾向は他の国々にも見られる。軍事的要素がなお付着した「民間防衛」が生き残る道は、こうした災害・環境破壊に対処する組織への転換以外ないといえよう。くだんのスイスでも、94年に民間防衛法と防護建築物法(シェルター法)が改正され(95年1月施行)、「冷戦」時代とは異なる方向に少しずつ軌道修正しつつある。日本でベストセラーになっているスイスのマニュアルは「冷戦」時代のものであることに留意する必要があろう。 日本の「危機管理」をどうする 「阪神大震災」を契機に、市民の防災への関心は高まっている。その一方で、自衛隊と自治体との関係も密接になろうとしている。「国家的危機管理」の一環として、「民間防衛」の議論が出てくる可能性は高い。そうした国家的論理の方向ではなく、住民自治を基本とした、市民の視点からの災害対策の構築が求められている。災害救助組織についても、自衛隊活用論に走ることなく、自治体を基軸にした全国規模の常設救助組織の設置を検討すべきだろう(詳しくは、拙稿「いかなる救助組織を考えるか−−自衛隊活用論への疑問」『世界』1995年3月号参照)。 他方、毒ガスを使った無差別殺戮によって、住民が自治会・町内会、企業、学校などの様々なルートを通じて、国家(警察)との「協力」を強化させられる方向も強まっていくだろう。「原発の異変(事故またはテロの対象)」も危惧される。昔「地震・雷・火事・親父」、いま「(大)地震・毒ガス・テロ・原発」か。戦前の防空体制下の「スパイ」通報・監視システムの再現とはいわないが、毒ガスの臭いとともに、「警察国家」化のいやな臭いもすでに漂い始めている。市民の生命を平然と奪うテロに対しては毅然たる態度をとりながらも、市民的自由の縮減につながりかねない動きに対しては、厳しい監視の眼が必要だろう。 (注)以下の叙述については、Vgl.Zivilschutz in Deutschland.Prog-ramm für die Zukunft,in:Notfallvorsorge und zivile Verteidigung (NzV) 2/1994,S.4f.;Neukonzeption des Zivilschutzes in Deutschla-nd,in:NzV 3/1994,S.4f. (付記) なお、戦前日本における防空法制の運用状況を、市民生活の実態を踏まえて分析するというテーマは、今後、本誌を通じて引き続き追求していきたいと思っている。 |