永井荷風の怒り 1945年5月5日(土曜)曇り。作家・永井荷風はこの日午前、麻布区役所に向かう。「途すがら市兵衛町舊宅の焼跡を過るに一隊の兵卒處々に大なる穴を掘りつゝあり。士官らしく見ゆる男を捉へて問ふに、市民所有地の焼跡は軍隊にて随意に使用することになれり。委細は麻布区役所防衛課に就いて問はるべしと答ふ。軍部の横暴なるや今更憤慨するも愚の至りなれば、そのまゝ捨置くより外に道なし。吾等は唯この報復として国家に対して冷淡無関心なる態度を取らんことのみ」(永井荷風『罹災日録』扶桑社〔1947年〕53頁)。 1937年制定の防空法(法律第47号)は、行政が土地・家屋を使用できるのは、防空上「緊急ノ必要」がある場合であって、かつ「一時使用」であると定めていた(九条)。だが、一九四三年改正防空法(法律第104号)は五条ノ八を追加し、防空上必要な場合、市民の土地や工作物等を収用・使用できるとしたのである。末端では、私有地を「随意に使用」するという感覚だったのだろう。荷風の怒りは現場の軍人よりも、無責任なる国家に向かう。 疎開という建物破壊 人(学童疎開、老幼者妊婦等の疎開)、建物、物資(文化財等を含む)の「疎開」は、1944年に入って本格化する。このうち、建物の強制疎開が始まったのはその一月のことである。法的根拠は、防空法五条ノ五。この規定も、もともと防空法には存在しなかった。41年改正防空法(法律第91号)で「工場其ノ他ノ特殊建築物ノ分散ヲ図ル為」の建築禁止・制限規定として追加。43年改正防空法で、「建築物ノ分散疎開」一般にまで拡大されたものである。こうして、都市部に防空空地(疎開空地)や空地帯(疎開空地帯)が設けられていく。 東京大空襲で下町が焼け野原になった五日後、政府は「大都市における疎開強化要綱」を閣議決定。これに基づき、第六次の建物強制疎開が実施される。全国で66万戸が建物疎開の対象として指定された。建物疎開といっても、実際には生活の本拠である住居の破壊である。もっとも、敗戦までに実際に取り壊されたのは1万4000戸(計画の2.1%)にすぎなかった(浄法寺朝美『日本防空史』原書房〔1981年〕279頁)。 強制疎開に対する損失補償も微々たるものだった。荷風は、麻布霞町のアパート所有者が提示された金額の少なさに、「驚愕のあまり発狂せしと云(ふ)」と記している(1944年7月13日)。 神戸市都市計画課長の報告 話は前後するが、日本軍がミッドウェー海戦に敗北する約一週間前の1942年5月29〜30日。第一回東亜道路技術会議が東京丸の内東亜会館で開かれ、都市の空襲対策などについての研究報告が行われた。579頁に及ぶ報告集には、九一本の報告が収められている。いずれも都市や道路、橋梁などの空襲対策の技術的側面を中心に分析したものである(『第一回東亜道路技術会議論文報文集』東亜道路技術会議事務局、1942年)。 この中に、神戸市都市計画課長・奥中喜代一の「都市空襲対策」という報告がある(497頁以下)。応急対策と復興対策が報告の二本柱である。前者の内容は、戦争も動物界の闘争と同じだから、動物が使う保護色、偽装などを防空対策に応用せよというもの。具体的には、都市の白い建物や光った屋根を保護色に塗りかえること、大きな建物や高い塔などに目立たないように緑の網をかけて、「森の様に見える如くする」ことなどが挙げられている。ただ、「最も実行(ママ)的」とされるのが「我家を防空壕と考へて適当な一室を選択して其周囲に工夫をこらして防護壁を作ると云ふ方法」である。 また、あらかじめ復興計画を策定し、事前疎開や空地確保とともに、「不経済な私道」を整理し、公道を拡張しておくことなどが強調された。「都市全体を疎開して置けば本復興即ち永久建築をなす場合もそれに充分対応出来る」というわけだ。そして、次の言葉で報告を終わる。 「空襲復興の問題は、20世紀後半に於て世界人類に課せられた問題である。之れを完全に解決したる人種は次の世紀に於て、世界に覇を唱ふるものである」。 その「20世紀後半」に阪神淡路大震災に見舞われ、「住民を忘れた都市計画」の弱点を一気に露呈する結果になることなど、この課長は知るよしもない。 避難を禁ずる防空法 「弾も火も 一死奉公 何のその」で始まる「我が家の防空二十則」のなかに、一六「避難者は 老幼病人のみと 知れ」、一七「命令前 避難退去は 恥の恥」とある(『家庭週報』一五二七号〔家庭防空特集〕1941年10月1頁)。 防空法八条ノ三は、「主務大臣ハ防空上必要アルトキハ勅令ノ定ムル所ニ依リ一定ノ区域内ニ居住スル者ニ対シ期間ヲ限リ其ノ区域ヨリノ退去ヲ禁止若ハ制限シ又ハ退去ヲ命ズルコトヲ得」と定める。この規定も当初防空法にはなく、四一年改正法で導入されたものである(退去命令は四三年改正法で追加)。同時期に改正された防空法施行令(一九四一年勅令第一一三五号)七条ノ二は、退去の禁止・制限の対象にならない者を掲げている。(1) 国民学校初等科児童または七歳未満の者、(2) 「妊婦、産婦又ハ褥婦」、(3) 六五歳以上の老人、「傷病者又ハ不具廃疾者ニシテ防空ノ実施ニ従事スルコト能ハザルモノ」、(4) 前各号に列挙した者の「保護ニ欠クベカラザル者」。避難できるのは、まさに「老幼病人のみ」である。 避難の種類は、退去、事前退去、緊急避難の三つ。その実施時期は、東京の場合、内務大臣の指示で、警視総監が決定した(「東京都永年計画」六九条)。 火傷覚悟で飛び込め ところで、現場で消防活動に従事していた人々はリアルな認識をもっていた。たとえば、栗原久作『消防戦法概論』(大日本警防協会発行、1941年)はいう。「消防戦法必勝の要件は、優秀なる相当量の機械器具と之が使用に充分なる水利の重要なるは今更言を俟たざる所なり」と述べ(1頁)、消防車や消防水利の充実、人員の配置などを含む合理的な消防対策が展開されている。「家庭防空」についても一応触れてはいるが、決して過大評価はしていない。そこには、火災にはあくまでも消防のプロが対処すべきだという冷静な眼がある(127頁)。 一方、帝都防空学校編『隣組防空群指導要領』警視庁防空課発行(1944年4月10日、非売品)を見ると、そこには過度の精神主義が見受けられる。たとえば、「大型油脂焼夷弾に対する戦法」はこうである。 「ある者は表口から又他の者は裏口から又は窓からと云ふ具合に四、五名のものが四方から飛び込んで火焔をまともに受けて居る天井や襖等周囲の燃え易いものに馬穴や喞筒でどんどん水をかけ飽迄一にも延焼防止、二にも延焼防止を原則として當らねばならぬ」。 「火と戦はんとする十分な身仕度があり火と戦ふ以上少し位の火傷を覚悟の下に必勝敢闘の心構へさへあれば直ぐそばまで飛び込んでも何等危険はないのであるから勇敢に飛び込んで飽迄懸命防火の戦法に出る事が原則であることを忘れてはならない」(249〜253頁)。 消防のプロなら、こんな無謀な要求を市民にはしないだろう。精神主義の極致は次の一文に示される。 「空襲を受ける以上前線も銃後の区別もない訳である。各家庭は勿論凡ての建物は自家であらうが借家であらうが何れも国家を守る保塁であり陣地である。…火と戦ふものは人である。そして戦ふものは人間の精神であり更に勝敗を決するのも人間の精神である。…最後の勝敗を決するものは結極個人々々の精神である其の魂が決するのである」(253〜4頁)。 火災に対する知識をもち、十分な訓練を受けた消防士は、引き際も心得ている。だが、避難を恥とされ、引くに引けず、無茶な消火活動を強いられた結果、どれだけの市民が逃げ遅れたことか。 避難・退去を認めず 昨年公開された第八一回帝国議会衆議院議事速記録によれば、1943年2月に二度にわたり秘密会で防空対策が取り上げられている。住民の退去避難に対する政府の姿勢は極めて冷淡なのが特徴的である。たとえば、2月5日(金曜)の東京都制案委員会で、上田誠一政府委員(内務省防空局長)はこう述べている。 「日本ノ防空法ニ於キマシテハ防空ハ市民ノ義務ニナツテ居リマス、……防空能力ヲ有スル者ノ退去ト云フコトハ政府ニ於テ全然考慮シテ居リマセヌ、寧ロ事態ニ依リマシテ之ヲ禁止スル権限サヘ内務大臣ニ與ヘラレテ居ルノデアリマス」(国会図書館所蔵議事録623頁)。 那須義雄政府委員(陸軍省兵務局長)は、「出来ルダケ各方面トモ現情勢ニ於テ出来ルダケノコトヲシテ、足ラヌ所ハ精神力デ補ツテ行ク」と、答弁のたびに「精神力」を強調している(同641、642頁)。 一昨年公表された第86回帝国議会貴族院の秘密会議事速記録。東京大空襲の四日後の3月14日(水曜)。空襲被害状況を報告した大達茂雄内務大臣に対して、質問に立った大河内輝耕議員(子爵)は、「人貴キカ物貴キカ」と厳しく追及する。 「此ノ次ハ東京ガ全部ヤラレルカモ知レヌ、恐ラクヤラレルデセウ、其ノ場合ニ人ヲ助ケルカ物ヲ助ケルカ、ドッチヲ助ケルカ之ヲ伺ヒタイ、私ハ人ヲ助ケル方ガ宜イト思フ、……ソレガ宜イトスレバ、一ツ内務大臣カラ十分ニ徹底スルヤウニ隣組長ナリ実際ノ指揮ヲスル者ニ言ッテ戴キタイ、火ハ消サナクテモ宜イカラ逃ゲロ、之ヲ一ツ願ヒタイ」(国会図書館所蔵議事録468頁)。 内相は、「ドウモ初メカラ逃ゲテシマフト云フコトハ是ハドウカト思フノデアリマスガ、……一応従来ノ計画ト致シマシテハ、大火災ノ場合ニハ、例ヘバ神田区ノドノ辺ノ者ハ何処ヘ一応避難スル、サウシテ避難ヲシタ先カラ今度ハドノ方面ニ向ッテ又更ニ移動シテ行ク、是ハマア机上ノ計画カモ知レマセヌガ、一応サフ計画ハ出来テ居ルノデアリマス……」と、のらりくらり。答弁中、「一応」という言葉が四回使われる。 大河内議員が、「逃ゲ場所ヲ予メ作ッテ置クト云フコトハ御答ガナイヤウデアリマスガ」と迫ると、内相はまたも「一応」という言葉を頻発しながら、避難場所を作るとは決して言わない。 「私ノ御尋シタイノハ、第一ノ避難場所、夜火災ガ起ッタラ何処ヘ逃ゲテ行クト云フコトノ場所ナンデス、其ノ場所ノ設備ガ十分デナイ、例ヘバ逃ゲテ宜イヤウナ場所ニ余計ナ建物ガアッテ見タリ、余計ナ設備ガアッテ見タリスル、サウ云フモノヲ綺麗ニシテ、何時デモ受入レラレルヤウナ態勢ニシテ置キナスッタ方ガ宜カラウ…」。逃げ遅れ、焼け死んだ多くの住民の惨状を目にしたであろう大河内議員の質問は、極めて切実で具体的である。 これに対する内相の最後の答弁。「特ニ避難場所トシテ広場ヲ作リ或ハ邪魔ナ物ヲ取除ケテ置クト云フ、斯ウ云フ所迄ハ致シテ居リマセヌ。〔午後零時四十一分秘密会ヲ終ル〕」(同議事録469頁)。 防空法制への批判 1944年9月から45年6月まで警視総監の職にあった坂信弥は、東京大空襲を回想して、こう述べている。 「防火を放棄して逃げてくれればあれほどの死人は出なかっただろうに、長い間の防空訓練がかえってわざわいとなったのだ。また、私が思った通り、事前に退避命令を出すよう関係方面と協議していたら、あのように多くの犠牲者は出さずにすんだだろうに……私のほかだれもがそういう事態の予想をする人がなかっただけに、よけい悔やまれてくる。全くあい済まないことをしてしまった」(「私の履歴書」『東京大空襲・戦災誌』四巻・東京空襲を記録する会刊〔1973年〕1004頁)。 また、東京大空襲当時の東京市長・大久保留次郎は、戦後、反省の弁を次のように述べている。 「バケツと火たたきでする隣組の防空演習なんて、まつたく幼稚でお話にならん。……バケツと火たたきでする消火なんて、家一戸が焼ける場合を対象とした戦術で、何千戸も焼かれる場合には何の役にも立たなかつた。これを考えると、当時の軍は一体何をやつていたか憤慨に耐えない。軍、特に陸軍が当時は防空を指導していたんだが、軍は飛行機の発達、電波兵器の発達等々について、何の研究もしていなかつたのだ。向うは日本の隅々まで知りつくしているのに、日本は相手の情勢、世界の現状を何一つ知らずに戦争をしていたのだ。これぢや負けるのも当然だと思う。そのくせ軍は偉張つてばかり居た」(大越一二編『東京大空襲時に於ける消防隊の活躍』警察消防通信社、1957年1〜2頁)。 「民間防空」を市民に押しつけ、政府・軍は「国体護持」に奔走した。結果として、多くの市民が「初期防火という名の自殺」(松浦総三『天皇裕仁と地方都市空襲』大月書店〔1995年〕145頁)に追い込まれていった。一般市民に対する無差別爆撃の責任は当然問い続けられるべきだが、市民の犠牲を拡大した軍・政府の責任も忘れられてはならないだろう。 |