防毒マスクが似合う街
 水島朝穂
 〜『三省堂ぶっくれっと』No.116 July, 1995



 1942(昭和一七)年4月18日12時30分、アメリカのドゥーリトル爆撃隊(B25爆撃機一六機よりなる)が日本本土に第一弾を投下した。この日、伊藤整は、日記にこう記した。「初めての本当の空襲であるが、晴れて明るい日のこととて、のん気である。あの飛行機が敵機というのだそうだが、ふだんの日本の飛行機を見るのと変らない気持。今まで受け身でばかりいたアメリカ人も初めて少しは仕事らしいことをしたと、ほめてやりたい位の気持ちである。昼間の東京に入って来るなど、なかなかやるわい、といかにも冒険好きなアメリカ青年の顔が目に浮かぶやうだ」(伊藤整『太平洋戦争日記』新潮社、1983年105頁)。
 この直後にやってくる日本の運命を考えると、そこからは、庶民が、のんびりしたムードで初空襲を迎えたことが読みとれる。伊藤の筆致には余裕すら感じられる。この「余裕」は、いったいどこから生まれたものなのだろうか。
 この連載では、日本の防空法制がどのように作られ、運用されていったかについて、庶民の生活上のさまざまなことがらに光を当てながら明らかにしていきたい。


「空襲だ!水だ!マスクだ!スウヰッチだ!」

 1928(昭和二)年7月5日から三日間、大阪市で日本初の都市防空演習が実施された。市内各所で、防毒、消防、救護、灯火管制の訓練が行われた。翌一九二九年には、名古屋で同様の訓練が行われた。1930年代に入ると、軍港や軍事施設のある都市を中心に、防空演習が盛んに行われるようになる。しかし、当時は、空襲のリアリティは希薄で、市民の関心はいま一つ盛り上がらなかったようである。この頃の防空演習は、焼夷弾よりもむしろ毒ガス攻撃に対する防毒訓練のほうが重視されていた。一般的な消火・避難訓練よりも、国民の危機感をあおり、緊張を強めて地域社会・市民の「下から」の動員をはかり、管理・統制する上で効果的と判断されたからだろうか。
 1932(昭和七)年、軍港都市の佐世保でも防空演習が実施された。佐世保薬剤師会編『毒瓦斯空襲ニ對スル知識概要』(長崎薬剤師会発行・非売品、1932年9月)によれば、「佐世保軍港連合防空演習」では、対毒ガスのための防毒訓練が重視された(「佐世保防毒演習」とも呼ばれた)。この資料は、薬剤師会の編集ということもあって、毒ガスそのものやガス防禦知識、毒ガス中毒に対する治療法、防毒中和剤等の記述が、化学式かや製造法から説き起こされ、実に詳細に記述されている。1929(昭和三)年から、陸軍は広島県竹原沖の大久野島で、毒ガス製造を大規模に開始していた(後に中国戦線で実戦使用)。防毒演習が実施され始めた時期は、大久野島での毒ガス製造の開始と妙に符合する。


←『わが家の防空』は、当時流行の誌面デザインと凝った写真を贅沢に駆使し、毒ガスの恐怖を訴えている。


『わが家の防空』には毒ガス攻撃を想定した演出写真が随所に掲載されているが、これはよく見ると駅での写真である。乗客もラッチに立つ駅員も防毒マスクをしている。一番右の腕章の人物は憲兵。↓




家庭での毒ガス対策

 防空法(1937年4月5日法律第四七号)一条には、「防空」の定義として、「陸海軍以外ノ者ノ行フ灯火管制、消防、防毒、避難及救護竝ニ此等ニ関シ必要ナル監視、通信及警報」とある。防毒は「防空」の不可欠の構成部分をなしていたわけである。防空法制定直前に出された東部防衛司令部編纂『わが家の防空』(軍事会館出版部発行、1936年)の裏表紙には、次のようなスローガンが掲げられている。「空襲だ!水だ!マスクだ!スウヰッチだ!」、「一に灯管〔灯火管制〕・二に防火・三に防毒・四に笑顔」、「防火防毒洩らすな灯火・断じて守れ国の空」。この時期、関西方面でも全く同じスローガンが掲げられていた(第四師団司令部編『家庭防空』神戸・防衛思想普及会発行、1936年)。これらの資料には、毒ガス対策が、焼夷弾よりも大きなスペースを割いて紹介されている。そのなかで、「都市に対するガス空襲は市民を殺傷する効力よりも寧ろ精神的脅威を與へる効果が大である」(前掲『家庭防空』30頁)とされているのが注目される。姿が見えず、何処ともなく忍び寄る「毒ガス攻撃」の恐怖や不安を煽ることは、地域社会や市民の管理・統制には実に効果的であったといえよう。
 当時、「家庭防毒十則」という標語も唱えられた。一番は、「軍隊、警察、防護団、頼り過ぎては却つて危険、家を護るは家庭の責務」。10番は、「警戒警報あるときは遠出は控へ天気でも、ゴム引きマントや油紙、ゴム長履いてマスク持て」である。ちなみに、「家庭防火十則」の一番は「火事は最初の五分間、焼夷弾は最初の三十秒」。「落ちた途端に拾って投げよ、用意のシャベルで庭先へ」が10番である。「家庭防空」の原則として、「敵が焼夷弾を投下したら、その家庭で焼夷弾を仕末(ママ)をなさい。敵が瓦斯弾を投下したら、各家庭自らその家族を保護なさい」ということが強調されていた(前掲『わが家の防空』一頁)。民間防空では、家庭を主体とした「自己防護」が重視されたのである。
 「自己防護」による毒ガス対策の具体的内容を見てみよう。まず、各家庭内に防毒マスクを備えるほか、「防毒室」や「防毒蚊帳(かや)」を設置するように指導された。「防毒室」の「棲息可能時間例」として、例えば、四畳半に四人の場合、約七時間。防毒蚊帳は四畳半吊で、四人で約三時間半とされている。一人一時間0.8立方メートルあれば、無換気でも生存が可能と見積られていたのである。ここで想定されているガスは、窒息ガス、くしゃみガス、催涙ガス、糜爛(びらん)ガス(持久性)の四種類。毒ガスから身を守るために着用する防水手袋や油外套、ゴムマント、油紙、長ゴム靴の手入れ・保存なども各家庭に義務づけられた。ただし、「防毒室」は、一般の家屋の一室をあて、建具の隙間を紙に糊を付けたもので目張りするという程度のもので、その気密性はかなり怪しい。陸軍科学研究所編『市民ガス防護必携』(前田干城堂発行、1935年)によれば、「防毒蚊帳」は、麻糸等にゴム引布、防水紙、障子紙等を蚊帳状に張り合せ、下部を書籍や座布団でおさえて隙間を塞ぐようにしたものであった(四六頁)。いま、我々の目から見ると、もし実際に毒ガスが流れてきたとしたら、「防毒室」や「防毒蚊帳」で防ぎうるとはとうてい思えない。しかし、先にあげた防毒室や防毒蚊帳、避難の際の防毒装備用として指定されている道具は、防毒マスクを除いて油紙、和紙など家庭で簡単に手に入る材料ばかりである。このような材料を使った家庭での毒ガス対策の必要性の宣伝は、実際の防毒効果よりも、それによって国民のテンションを高めることに主眼が置かれていたといえよう。
なお、前記「家庭防毒十則」の六番には、「防毒室には老幼患者、室がなければ頼め隣家へ」、同七番には、「畳一畳数時間密閉第一隣り前室」とある。

懸賞当選小説にみる「毒ガス攻撃」への対処

 1940年代に入り、東京市防衛局は、防空体制強化のため、防空に関する小説や戯曲などを懸賞募集した。その当選作品、松村清「いざ来い敵機」という「小説」のなかにこんなくだりがある(夫が第一次大戦での毒ガス戦について妻に話をしている場面)。
 −−「まあ! でも貴郎(あなた)、毒瓦斯(ガス)なんて、今度の世界戦争で、未だ何処の国でも使つてはゐないでしよ?」
 夢のやうに甘い新婚の語らひかと思へば、これはまたなんと、恐ろしい毒瓦斯の話とは……。二人はやっぱり何処か似た者夫婦だつた。
 「うむ、いまのところはね。だが戦争は手段を選ばないんだからな。敵がいつこれを使わないとも限らない。1899年のヘーグ会議で、毒瓦斯の使用は残酷だから止めやうと、決めたのは、いつか約束を破る人間同志の、気休めなんだよ。しかもアメリカ代表ハーマン提督は、その会議の席上で、皮肉にもはつきりと将来を断言して、列席の各国代表の舌を巻かして了つたんだ」  「あら、どう言つて……?」
 「……それはつまり、人道的見地から云へば毒瓦斯の使用は、大して残酷じゃないと云ふんだ。少くとも魚雷を駆つて相手を撃沈溺死させることに比べれば、毒瓦斯で敵を窒息させるのも同じことだ。新しい戦法はその出現当初、兎角野蛮残酷視されるものだが、結局各国は競つてこれを採用するやうになる。……と斯ふ云ふのだよ。」
 「今度の戦争で、病院船や俘虜護送船を平気で撃沈してゐる米国の、先輩らしい言葉ですわね」
 「全くだよ。そして世界各国は、秘密裡に、新しい毒瓦斯の発見研究に、絶へず脳味噌を絞つてゐるわけさ。毒瓦斯の王イペリット、死の露と呼ばれるルイサイトなどの糜爛瓦斯の出現は、ヘーグ会議を皮肉に嗤わらつてゐる悪魔の形相を思はせる……」−− (『防空物語・七篇』東京市防衛局発行〔1943年〕40〜41頁)
 イペリットやルイサイト等々、具体的な毒ガス名が出てくる。アメリカを非難しているが、日本軍はこの当時、すでに中国戦線で毒ガスを使用していたのである。さらに、この「受賞作」には、こんな精神訓話めいたくだりもある。
−−「奥さん、毒瓦斯ですって!」
 見れば隣の奥さんは防毒面の用意がない。
「奥さん、さあ早くこの防毒面を……」
 理恵は防毒面を隣の妻君の方へ差出した。
「でも奥さん、貴女は?……」
 隣の妻君はもう死の恐怖で、蒼白い顔の眼を瞠つた。やがてあの恐しい毒瓦斯が、自分達の集圍を、風の如く襲つて来るのだ。……「さあ早くツ」
 躊躇している場合ではない。理恵は無理に押しつけるやうに、隣の妻君に防毒面の装面をしてやつた。二人に一個の防毒面だ。一人は斃れなければならぬとしたら、どちらが死ぬべきだらう。隣の妻君は妊娠している。一人と云へすぐ二人になるべき身体だ。二人と一人の生命なら当然二人を生かすべきだと、理恵は咄嗟に決断したのだ。……表の方から組長が駆けて来た。 「大丈夫もう敵機はありません。それに駅前の大通りへ落ちた爆弾で、水道、瓦斯の鉄管が破裂したんですが、今工作隊が復旧工事の最中ですよ。その瓦斯の洩れを誰か間違つて毒瓦斯だなんて早合点の聞き違ひをやつたんですが…。今警察の方から特に注意がありました」
 理恵は大急ぎで口の手拭いをはずした。−−
(前掲『防空物語・七篇』48〜49頁)

「防禦」と「攻撃」は一体

 ところで、前記『市民ガス防護必携』には、ホスゲンやイペリットなどについて、その被毒症状の微細・詳細な記述や効果的な治療法に至るまで、およそ実際に使用してみなければ分からないようなくだりが実に多く見られる。毒ガスに対する「防護」の知識は、「攻撃」のためのノウハウの開発・実践のなかから得られてきたものといえる。前述したように陸軍は、大久野島で毒ガスを大量に製造し、中国戦線で実戦使用していた。最近明らかになったGHQ提出の極秘報告書によれば、戦時中に陸軍が製造した毒ガス兵器は517万発。そのうち370万発が大久野島の毒ガス工場で製造されたという(『中国新聞』95年5月25日付〔共同通信の配信〕)。
 このように、一方で毒ガスを製造し、中国でこれを使用しながら、国民に対しては、アメリカによる毒ガス攻撃への危機感を煽る。東京市防衛局長の菰田康一陸軍中将はいう。「今度の戦争がはじまつて見ると、一向どこの国も毒ガスを使はない。毒ガスの爆弾もかけ声だけはやかましいが、まだ実際に使はれたことは聞かない。……〔だが〕必ず不意に使ひ始める国がありさうである。しかもその国はおそらく米国で、わが日本に対して、飛行機から落とすガス弾として使ひはしないかと思はれる。米国はもともと毒ガスの原料の沢山出る国だし、日本の国民を毒ガスに驚く国民と見くびつてゐるだらうから」(『防空読本』時代社、1943年78頁)。この文章は、サリン製造・使用の疑惑の渦中にありながら、「米軍に毒ガスを噴霧されている」と主張した某教団を彷彿とさせる。
 一方で、自国で毒ガスを製造・使用しながら、国内に向けてはその「見えない」脅威を叫んでいた。ドゥーリトル初空襲の10年以上も前から市民生活の細部にわたってテンションを高める宣伝が繰り返し行われ、「民間防空体制」が整えられつつあった。
 
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