神社の本殿は「奉安殿」 東京・目黒区にちょっと変わった神社がある。目黒通りを少し入った狭い道路に面して、敷地わずか一二坪の清水稲荷神社(目黒本町一丁目)。車で走ると、通り過ぎてしまうほどである。鳥居が種物屋と軒を接するように立っている。ややくすんだ赤に塗装された本殿は、1.5メートル四方の小さなものだが、ぶ厚いコンクリートの屋根が不釣り合いに大きく、妙にがっしりした印象を与える。 もともと清水稲荷は1897(明治三〇)年頃にできたといわれ、神社としては比較的新しい。1952(昭和二七)年に地元の篠福太郎氏が、現在の土地を寄進。同じ年の春、ここに本殿として、鷹番(たかばん)小学校(戦前は国民学校)の奉安殿が移設された。 奉安殿は、「御真影」(天皇・皇后の写真)と勅語謄本(教育勅語の写し)を入れる鉄筋コンクリート製の小さな建物で、校舎から離れた所(校門付近など)に設置されるのが通例だった。戦後、GHQの「国家と神道の分離指令」により、奉安殿は全国的に撤去・破壊されていく。鷹番小学校に奉安殿を寄付した太田喜八郎氏(元・清水稲荷神社奉賛会長、故人)は、戦後すぐにこれを自分の屋敷内に移して保存していた。52年の講和条約発効(占領終結)の年に奉安殿の移設(再利用)に踏み切ったのは、たまたまこの年に土地の寄進が行われたということもあるだろうが、占領終結によりGHQの規制がなくなったことと無関係ではないように思われる。 向かいの菓子店兼不動産屋のご主人山田澤太郎氏(75歳、清水東町会長)によると、移設当日は、近所の若い衆が大勢出て、コロの上にのせて、縄で引いて運んだという。あまりの重さに、作業に二昼夜を要したそうだ。本殿の欄干も階段もすべて奉安殿のものが使われているという。 東京には、奉安殿をリサイクルした神社がもう一つある。大田区東雪谷五丁目、長慶寺境内の「朝日稲荷」。近くの池雪(ちせつ)小学校(戦前は国民学校)の奉安殿が使われている。こちらは清水稲荷神社とは違い、赤い塗装がされておらず、扉のコンクリートもはげ落ち、鉄筋が剥き出しになっている。奉安殿の実際の雰囲気をリアルに伝えているという点では、これもまた貴重である。 近くに住む直井勝太郎氏(66歳)は池雪小の卒業生。戦争中、同校南門左側にあったこの奉安殿に最敬礼して登校した一人だ。門番(週番の生徒)が目を光らせていて、欠礼する者に注意したという。直井氏によれば、1946(昭和二一)年の春頃、町の世話役をやっていた父親や近所の人々が総出で、鳶職(住民の一人)の技術指導を受けながら、コロを使って長慶寺まで引っ張ってきたという。なお、「朝日稲荷」という名称の由来は、この地がかつて「朝日の長者」と呼ばれる人の屋敷だったことによる。 現在、これらの神社の近くに住む人でも、奉安殿が再利用されているという由来や、奉安殿がどういうものであったのかを知る人は多くはない。今回は、この奉安殿をめぐる問題を中心に、「学校防空」の状況を見ておくことにしよう。 学校報国隊の結成 防空法制下では、形式上の国民防空機関は、(1)主務大臣(内務大臣)、(2) 地方長官、(3) 警察消防署長、(4) 指定市町村長、(5) 主務大臣の指定する重要な事業または施設、(6) 市町村長、(7) 防空監視隊、(8) 警防団、の八つであった。だが、「実質的な防空機関」とされたのは、(1) 専門工作隊、(2) 特設防護団、(3) 隣組防空群、(4) 防空救護所・特設救護班、(5) 学校報国隊、である(警視庁防空課『隣組防空群指導要領』一九四四年、非売品一二〜一四頁)。末端における防空活動では、これらが中心だった。 このうち、「学校報国隊」は、1941(昭和一六)年8月の文部省訓令27号によって設置された。「全校編隊の組織を持ち、総力を結集して適時出動し要務に服し、その実効をおさむるものにして防空活動のみにあらず教練、食糧増産、作業その他勤労奉仕、国体訓練等を実施する」ものとされた。学校報国隊の防空補助隊は、防空警報発令とともに、隊長以下全員が警視総監の指揮下に入るものとされていた。こうした活動のゆえに、学校報国隊のメンバーも、死亡・負傷等の場合、防空法一二条に基づいて扶助金が支給される「防空従事者」(防空従事者扶助令〔1941年勅令第1137号〕二条1項)の資格を有することが追加的に決められた(1941年12月27日内務省告示第689号)。扶助令「別表」による扶助金の額は、たとえば障害扶助金で最高1500円、死亡の場合の遺族扶助金で最高1000円と規定されていた。もっとも、これは空襲が始まる前の話である。空襲の激化のなかで、これらの決まりが存在することすら忘れられていったのではなかろうか。 生徒も防空補助員に 1943(昭和一八)年9月11日、文部省は「学校防空指針」を発表した。戦局の「悪化」は著しく、東条内閣は「国内態勢強化方策」(文系学生の徴兵猶予の停止等を含む)を打ち出す。「学校防空指針」はこの「国内態勢強化方策」の一環であった。 「指針」によれば、「学校防空」とは、校長のもとに教職員学生生徒が一丸となって実施する「自衛防空」と、学校関係者が一般民防機関の活動に参加する「校外防空」とに大別される(以下、「学校防空の重点」内閣情報局編『週報』1943年9月29日号8〜15頁参照)。とりわけ、中学三年以上の生徒は、自衛防空または校外防空機関の「防空補助員」として参加することが義務づけられた(ただし、二年以下の生徒および国民学校児童、幼稚園幼児は帰宅させられた)。また、学校防空活動の開始時期は、従来の「空襲警報発令時」から、「警戒警報発令時」にまで早められ、警報発令と同時に授業を休止し、防空活動に入るものとされた。それまでは、空襲警報が出るまで授業をやっていたから、この措置は学校の戦時色を一層強めることになった(「指針」の出た半年後には、「学童疎開」が始まる)。 「御真影」優先の学校防空 やや前後するが、ここで「御真影」について少し述べておこう。 「御真影」は、1889(明治二二)年の文部省総務局長通牒を契機に全国的に普及するようになる。1936(昭和一一)年までの段階で、小・中学校における「御真影」の「下賜率」は100%近くに達したという。 ところで、「御真影」が「下賜」されるようになってから、火事や災害のときに、「御真影」保護が直接・間接の原因となって命を落とす校長や教員が出てきた。「御真影に殉じた」最初のケースは、一八九六(明治二九)年の三陸大津波の際に死亡した教師・栃内泰吉だった。その後、「御真影」を守るために、何名もの教師(校長)が命を落とす。その死は粉飾・装飾をほどこされ、「美談」として喧伝された(詳しくは、『「御真影」に殉じた教師たち』岩本努著、大月書店、一九八九年参照)。 「御真影」の「下賜」開始の二年後、1891(明治二四)年11月17日。文部省は、「御真影」と勅語謄本を「校内ノ一定ノ場所ヲ撰ヒ最モ尊重ニ奉置セシムヘシ」という訓令を出した。これ以降、全国各地の学校で、「奉安室」や「奉安庫」が設けらるようになった。ただ、校舎の火災で焼失する危険も考慮して、校舎から離れた場所に「奉安所」が作られるようになるのは1920年代以降であるという(岩本前掲98頁)。1940年代には、ほとんどの学校に独立した「奉安殿」が設けられていた。なお、公式文書では「奉安所」とされているが、外見が神社の形をしていたため、重々しく「奉安殿」と呼ばれるようになったのだろう。 前記の文部省「学校防空指針」によれば、「自衛防空上緊急に整備すべきもの」のトップに、「御真影、勅語謄本、詔書謄本の奉護施設(奉安所の設置のほか、必ず奉遷所も決定し置くこと)」が挙げられている。ちなみに、第二順位は、「教職員学生生徒及び児童の退避施設」である(『週報』12頁)。 被害報告の仕方についても同様であった。「空襲による被害があつたら所轄警察署へ、1御真影、勅語謄本、詔書謄本の安否、2死傷者数、3建物被害の程度を速報する必要がある。詳報は一定の様式を以て文書で、後刻文部省及び地方長官に提出すればよい」(同14頁)。さらに、「指針」は、奉安殿が危なくなった場合の処置方法をこう指示している。「直ちに所定の奉遷所に奉遷するのであるが、その場合は、御真影奉遷所であることを明らかにする標識を掲げ、警備を厳重にせねばならない」(同14頁)。ここからは、子どもたちの命よりも、天皇の写真と言葉を記した紙きれを重視するという、異様なフェティシズムと倒錯した価値観が浮かび上がってくる。 ちなみに、同じ時期の大阪市教育局発行『学園防空必携』は、第一章「防空準備」、第二章「警戒警報発令の場合」、第三章「空襲警報発令の場合」、第四章「災害を受けた場合」という構成をとるが、いずれもトップ項目は、「御真影竝に勅語謄本の奉護(奉遷)」である。 写真は命より重し 1945(昭和二〇)年の空襲時に、「御真影」を「守護」するために死亡した教師(校長および訓導)は10名にのぼったという。そのうち、福井市の若い女性教師の場合、公式記録には「御真影奉遷中爆死」とされているが、実は学籍簿等の重要書類を持ち出そうとしていたという(岩本前掲249、253頁)。国家は人の死を単色に染めあげようとする。その教師が「御真影」を背負う校長のあとに続いて、必死に持ち出そうとしたものは、子どもたちの貴重な記録だったのである。 その頃、中学校の生徒のなかでも、「学校守備役」というものが選ばれていた。奉安殿を守る係である。これに選ばれたばかりに命を落とした生徒もいた。 1945(昭和二〇)年8月8日夜。広島県福山市はB29九一機の二波にわたる空襲を受けた。555トンの焼夷弾が投下され、死者358人が出た。このなかに、「学校守備役」のため、避難せずに学校の奉安殿に向かい、途中で爆撃にあい死亡した高田仁さん(誠之館中学校)も含まれていた。仁さんの姉は、「安全な南へ逃げたと思っていた。わざわざ危ない方へ行くなんて……」と悔やむ(「福山空襲から50年」『朝日新聞』1995年8月8日付広島版)。 「たかが一枚の写真のために、なぜそこまで」というのは今日的な視点からの物言いだろう。この連載で見てきたように、当時は、天皇絶対の価値尺度に基づくマインド・コントロールが徹底していた。真面目で責任感が強い人ほど、こうしたコントロールは深く浸透したのだろう。 その「たかが一枚の写真」が納められた奉安殿だけが焼け跡に立つ、荒涼とした風景を目撃した人がいた。 広島に原爆が投下されたとき高等師範学校二年生だった森田定治氏(元高校教師)は、広島市内で死体埋葬作業に加わった。その体験をこう書いている。 「次から次へと運ばれてくる死体に石油をかけて焼いたが、深夜は奉安殿の警備にあてられた。学校は全焼して崩れ落ちたが、奉安殿は鉄筋だったため焼け残っていた。……一瞬にして20数万人の命が消えた夜、なぜ奉安殿の警備かと、私は分からなくなった」(『朝日新聞』1989年1月17日付、岩本前掲257頁)。 「御真影」を守るために命を落とした最初のケース(前述)では、その死をめぐって、『国民新聞』1896年7月8日付に批判的投稿が掲載されたが、そこにこういう一文があった(岩本前掲29頁)。 「写真は再製し五製し十製すべし、人の性命は再製すべからず」。 次回は、空襲下の灯火管制とその機能について見ていこう。 |