守るべきものは何か──防空法制の終焉
 水島朝穂
 〜『三省堂ぶっくれっと』No.123 April,1997



防空の歌

一 朝だ真澄の  青空だ
  光は呼ぶぞ  眉あげて
  尊い国土の  防衛に
  競ふ一億   鉄壁と
  護る我等の  大空を

二 空に織りなす 光芒の
  照空燈に   聴音機
  一機の敵も  逃がすなと   邀へ蹴散らす 荒鷲や
  闇に火を噴く 高射砲

三 大和心の   意気燃えて
  迫る敵機の  猛襲も
  日ごろ鍛へた 訓練に
  なんの爆弾  焼夷弾
  往くぞ決死の この覚悟
四 皇国の空を  ゆるぎなく
  護り固めて  高らかに
  日本晴れの  青空に
  仰げ畏い   大稜威おおみいつ
  アジヤの空に 陽が上る

 伊藤宏作詩・佐々木俊一作曲「防空の歌」。変イ長調、四分の二拍子。「行進曲風に」という指示がある。内閣情報部選定、文部省検定済、大日本防空協会作製のクレジットが付いている(『国民歌謡』六三号〔日本放送協会、一九四〇年〕)。 実際、市民のなかで、これがどの程度歌われたのかは分からない。やがて市民は、「迫る敵機の猛襲」のなか、「なんの爆弾 焼夷弾」とはいかないことを思い知らされることになる。

「其ノ他」の思想

 大本営発表三月一〇日正午  「本三月十日零時過ヨリ二時四十分ノ間B29約百三十機主力ヲ以テ帝都ニ来襲市街地ヲ盲爆セリ。右盲爆ニヨリ都内各所ニ火災ヲ生ジタルモ宮内省主馬寮ハ二時三十五分其ノ他ハ八時頃迄ニ鎮火セリ。現在迄ニ判明セル戦果次ノ如シ。撃墜十五機。損害ヲ与ヘタルモノ約五十機」。
 消失した「其ノ他」の範囲は広く、首都・東京の約四割(二七万戸)にのぼった。
 この大本営発表について、小説『空襲とヒコクミン』(岬たん〔もぐら書房、一九九五年〕一〇〇頁)に、主人公らのこんな会話がある。−−  「宮内省主馬寮って何なの」と紅子はきいたが、私は知らなかった。
 「その他は、だって」と紅子は言う。
 「その他は、きれいさっぱり焼けたり、死んだり、怪我したりしたのよね。あたしたち国民は、いつだって、“その他”なんだから」。
 東京空襲の約五ヵ月後、広島が原爆空襲を受ける。政府は八月六日以降、三回にわたり「新型爆弾」対策を出していく。
 「新型爆弾は大爆音を発しその爆風偉力(ママ)は強大、また非常な高熱を発し相当範囲に被害を及ぼす。次の諸点に注意すれば被害を最小限度に止めかつ有効な措置であるから各人は実行しなければならない」。
 「有効な措置」として具体的には、「毛布や布団をかぶる」、「蛸つぼ式防空壕は板一枚でも蓋をする」、「白い下着類は火傷防止に有効」、「退避時の火の用心と初期消火の徹底」などが挙げられている(『朝日新聞』一九四五年八月九日、一〇日、一二日付)。
 「初期消火」が不可能な原爆に対してさえ、「初期消火」を要求している。無知でなければ、度し難い傲慢さである。放射能の被害やその恐ろしさについての認識の欠如は悲しいばかりだ。
 いずこでも、「其ノ他」の被害への眼差しは、「国体護持」に突っ張る政府・軍部には欠けていた。


末期症状の防空体制

 ここで再び、東京・世田谷区新町三丁目に立ち寄り、「町会義勇隊」について見ておこう(拙稿「防空法と防空訓練」本誌一一七号二〇頁参照)。
 敗色が濃厚となった一九四五年五月二一日付の回覧「国民義勇隊ニ関スル件−−指令第一号ニ基ク趣旨並実施要領」(新町三丁目町会資料)にこうある。
 「戦局洵ニ危急皇国正ニ興廃ノ関頭ニ立ツ。特攻血戦克ク…【読みとり不能】…トスル沖縄ノ戦況モ愈々急迫ヲ告ゲ醜敵本土侵寇ノ日遂ニ目前ノ間ニ迫マル。今コソ一億皇民真ニ眼ヲ決シ本土決戦ニ必勝撃敵ヲ期シテ起ツノ秋。茲ニ全都民ノ総力ヲ結集シ以テ悉ク戦列ニ参加シ生産ニ防衛ニ一切ヲ挙ゲテ戦力化セシメ、事態急迫ト共ニ直ニ戦闘配備ニ着手、隣保戦友相携ヘテ神州護持ノ大任ヲ完フスルハ我国民義勇隊ノ任務タリ……」。神がかった威勢のいい文章は続く。
 「茲ニ皇都国民義勇隊ノ…【読みとり不能】…発足ニ当リテ行動実践部隊タルノ真骨頂ヲ発揮スルハ第一実践行動項目トシテ現下最モ喫要ヲ要スル道義ノ昂揚、戦災地戦力化ノ二項ヲ揚ゲテ其ノ目的達成ノ為敢闘邁進ヲ期セントス」。トーンの高さのわりに、具体的行動提起の内容は貧困である。
 まず第一項。「火事場泥棒ノ横行ト壕内窃盗ノ頻発」への対策である。防空壕のなかでの窃盗事件の続出が、「巧妙執拗ナル敵ノ思想謀略」に付け入る隙を与えるというわけだ。
 第二項「戦災地戦力化」とは、「跡片付け」と「緑地ノ農場化実施」である。「自活自戦」のため、「一人必ス『二坪以上』ノ農園ヲ耕作スルコト」、「皇都戦場下、戦友愛的共同農耕ニ導キ小隊(町内会及隣組)自衛自活ヲ本体タラシム」がその内容である。
 この段階になると、隣組防空群に関する事項、初期防火や燈火管制に関する指示や記述などは全く姿を消し、食料調達や住民引き締めに全力を挙げている様子がよく分かる。「腹が減つても戦さをせねばならぬ」という事態についに立ち至ったわけだ(天崎紹雄『隣組の文化』〔堀書店、一九四三年〕八三頁)。
 同じ頃、はるかフィリピン・ルソン島の山奥に追い詰められていた第一四方面軍(山下奉文大将)もまた、「自活自戦」を展開していた。米軍に補給ラインを切断されたため、「極力各地域ノ自活自戦能力ヲ向上シ、長期克ク独力ヲ以テ作戦ヲ遂行ス」というのが大本営の基本方針だったからである(「陸海軍爾後ノ作戦指導大綱」一九四四年七月二四日)。日本国家は現地の兵士を体よく見捨てていた。ルソン島山中では「自活監部」が組織され、「徴発」という名の略奪も行われた。食料をめぐり日本兵同士が殺し合い、人肉食いまで起きていたのである(ルソン島から生還した憲法学者・久田栄正の証言。拙著『戦争とたたかう−−一憲法学者のルソン島戦場体験』〔日本評論社、一九八七年〕二九五頁以下参照)。
 内外問わず、「自分で食って、勝手に戦え」という状況のなか、日本の組織的戦闘はとっくに終わっていた。防空法制もまた、全国主要都市の焦土化という事実の前に、すでに「死に体」と化していたのである。

最後の町常会

 「終戦」直前の新町三丁目八月常会では、協議事項として、「国民義勇隊組織ニ関スル件」と「道義昂揚実践ニ関スル件」がトップに掲げられている(八月三日付町会回覧)。そこで特に強調されたのは次の点である。すなわち、「国民義勇隊員ハ世相ニ鑑ミ道義昂揚ノ為率先左記実践スルコト。1禮儀ヲ正シクスベシ、2時間ヲ励行スベシ」。「道義昂揚」がここまで強調されるということ自体、市民の間の厭戦気分は相当なものだったことが伺える。
 また、この常会では、「謀略宣傳ビラ回収指揮隊組織ノ件」も話し合われている(三丁目町会手書き資料八月三日付)。米軍は、飛行機を使って宣伝ビラを各地にまいて、市民の動揺をあおっていた。
 長崎に原爆が投下された八月九日付の回覧「義勇兵連名簿提出ノ件」。義勇兵役法施行により、一五歳から六〇歳までの男子、一七歳から五〇歳までの女子は「義勇兵連名簿」に記入捺印の上、隣組長を通じて町会長に届け出ることとある。締め切りは、「八月十四日午前中」だった。
 なお、新町三丁目町会・隣組資料が無傷で大量に残されていたのは、世田谷の空襲被害が一・八三%と、葛飾の〇・二三%に次いで少ないということにもよる。ちなみに、空襲被害が大きかったのは、荏原の九七%を筆頭に、浅草八九%、本所八五%と続く。下町ほど被害が大きい。四月一五〜一六日の空襲で新町一、二丁目は被害を受けたが、三丁目の被害はほとんどなかった(『世田谷消防三十年のあゆみ』〔世田谷消防署発行、一九六二年〕二六〜二七頁参照)。
 「国民義勇隊ニ関スル件」には、注意事項として、「常ニ生産活動即戦闘訓練ノ趣旨ヲ以テ隊行動ヲ終始スルコト」とある。「本土決戦」がもし行われていれば、新町三丁目の住民も、竹槍で米軍に向かっていったことだろう。

防空法制は何を守ろうとしたか

 特高あがりの内務大臣・安倍源基は、後にこう語っている。
 「私は、東京に対する一九四五年五月二三日〜二五日の空襲後東京の民防空手段は、日本の他の場所のものと同様に無益な努力であると考えられたものと信ずる」(『東京大空襲戦災誌』三巻〔東京空襲を記録する会刊、一九七三年〕七六一頁)。
 「無益な努力」のために市民を動員し、あげくの果てに必要以上の犠牲を出した責任はどうなるのか。
 本連載で見てきたように、防空法制とその運用実態の全体を貫いていたのは、過度の精神主義である。この精神主義的姿勢が、最初から、市民に誤った防空認識を与えた。逃げ遅れた市民が出たのも、ここに原因の一端がある。
 東京大空襲の直後、「人貴キカ物貴キカ」と大河内輝耕議員は問うたが、(三月一四日、貴族院秘密会議事速記録。前回拙稿参照)精神主義をモノに託して、それに傾倒させ、守らせることによって市民を統制する手法がとられたことも大きな特徴である。数々の「防空マニュアル」、防毒マスク、防毒蚊帳、燈火管制用の覆布……。そして奉安殿とご真影。まさにモノが、市民を一つの方向に向かわせ、市民を道具として活用するために働いたのである。
 高射砲や迎撃戦闘機の量的・質的不十分さなど、軍が主体となる「軍防空」の敗北は明らかだった。また、消防の専門家が指摘していたように消防車や消防水利の充実、人員の配置などを含む合理的な消防対策もなかった。そうした状況を糊塗し、市民を戦争に駆り立てるための道具として、民防空はあった。
 戦争への参加意識を高めるために、防空訓練や毒ガス訓練が行われた。避難を禁じて、現場での「初期消火」を義務づけたのも、市民を戦士化して国家を守るという発想に基づくものである。そこには、市民の生命・生活を守るという視点はない。防空法はあくまでも「国家」を空襲から守ろうとしたものだった。市民の生命・生活の保護は、その「反射的効果」にすぎなかったのである。人間尊重を貫けない国家体制の必然的結末といえようか。

防空法制の終焉

 一九四五年八月二〇日、燈火管制が解除された。戦争の終結が宣言されてから五日間、法的には燈火管制義務は存続していたわけである。
 八月二二日午前零時を期して、防空総本部長官は「防空実施の終了」を発令した(『大東亜戦争間における民防空政策』防衛研究所研究資料87RO−4H〔一九八七年〕二二二頁)。その前日の八月二一日。山崎内務大臣は、次のような談話を発表した(『朝日新聞』一九四五年八月二三日付)。
 「昭和十六年十二月八日、防空実施命令を出してより三年九ヶ月の間、国民各位は民防空の遂行に献身の努力を捧げて参った。特に防空従事者諸君の一身一家を顧みざる健闘と一般国民諸君の昼夜を分たざるの敢闘とは今更の如く感謝に堪へない。関係各方面の努力にも拘わらず幾多の都市は灰燼に帰し生命財産を失ひ多数の罹災者を出すに至ったことは遺憾の極みである。戦災地の復興に関しては政府において十全の措置を講ずる決意である。防空の終了に際し深甚なる感謝と御同情を申上ぐる次第である」。
 防空法は、一九四六年一月三一日をもって廃止された。

 《付記》
 本テーマに関する先行研究として、ここでは、『東京大空襲戦災誌』全五巻(東京空襲を記録する会、一九七四年)のみを挙げておく。なお、本連載については、担当の高瀬文人氏に大変お世話になった。氏の好奇心いっぱいのサポートがなければ、この企画は続かなかっただろう。心からの謝意を表したい。

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