教育・学問・大学
2024/8/5:3選した都知事の罪――虚偽事項公表罪を中心に
2024/6/24:雑談(144)奥島孝康・元早大総長のこと
2024/4/29:政治家にとっての「学位」とは──剽窃・盗用と詐称・粉飾
2024/4/8:雑談(143)大学教員のお仕事(その3・完)――「人生のVSOP」と「出会い」再論
2024/3/25:さようなら、早稲田大学――大学入学から52年
2024/3/18:わが歴史グッズの話(53)研究室の転進に寄せて――「歴史グッズ」入手の挿話も
2024/2/19:雑談(142)音楽よもやま話(34)「世界のオザワ」のこと――ブルックナーとP51
2023/11/6:雑談(140)牧野富太郎と水島正美――NHK連続ドラマ「らんまん」を契機に
2023/10/9:「コスパ」「タイパ」「プロパ」の過剰がもたらすもの――この国の民主主義に熟議はない
2023/8/28:「憲法に固執する力」――小野梓の憲法構想
2023/7/24:雑談(139)今時の学生について(4)――1年導入講義(法学入門)を終えて
2023/7/10:マイナンバーカードは「日本人の在留カード」に?――ある外国人留学生の意見
2023/7/3:高額兵器爆買いの岸田政権の安全保障政策――いま、「現場」で何が起きているか
2023/6/26:解散権をもてあそぶ首相の「まさか」――議院内閣制の壊れ方
2023/4/3:雑談(137)70歳に思う――「直言」連続更新1385回
2023/2/20:「勝利する」と「負けない」の間――ウクライナ侵攻1年とハーバーマス
2023/2/13:雑談(136)水島ゼミ25年間の最終回――セミナーリウム(苗床)物語(その2・完)
2023/1/9:雑談(135)音楽よもやま話(32)チャイコフスキーは「敵性音楽」か?――早稲フィル会長退任の弁
2022/11/14:雑談(134)『西部戦線異状なし』――ドイツ人がドイツの戦争を描く
2022/11/7:東西ドイツ国境にかかる虹――「ベルリンの壁」崩壊33年
2022/10/17:弾道ミサイル「上空通過」をめぐる日台比較――「キューバ危機」から60年
2022/9/26:「安倍国葬」と旧統一教会――自公政権の葬送狂騒曲
2022/9/5:「武器供与のリスクと副作用」――「ウクライナ戦争」の半年
2022/8/22:雑談(132)「アラ古稀」の心境――「最終模擬講義」を終えて
2022/6/27:有権者はいつまで「沈黙」を続けるのか――コロナで広がる「黙」の世界
2022/5/23:戦争をいかに止めるか――『ロシア 小さき人々の記録』から考える
2022/4/25:沖縄が問い続けるもの──サンフランシスコ講和条約70年
2022/3/7:「プーチンの戦争」に反対する――ロシアの研究者と弁護士の抗議声明
2022/1/10:雑談(129)音楽よもやま話(28)コロナ禍のコンサート(その2)――早稲フィル第85回定期演奏会のこと
2021/12/27:コロナ対策に「思いやり」はあり得ない──オミクロン株と日米地位協定
2021/12/20:大学にガバナンス?――「大学の自治」はどこへ
2021/12/13:『彼は早稲田で死んだ』――早大川口君事件50年を前に
2021/11/22:「コロナ語」を問う――政治家と忖度「専門家」
2021/11/15:日本学術会議問題の本質は何か――ニコラウス・クザーヌス「専門家-素人」相関の視点から
2021/11/8:「学問の自由」の危うい状況、さらに――「だから日本に帰らない」
2021/8/23: パラリンピックは中止すべきである――この国に「総理」大臣はいるのか
2021/7/19:コロナ緊急事態下の東京2020の「予測」――IOCバッハ会長の博士論文
2021/6/28:夫婦同氏制と婚姻の自由――最高裁判例における反対意見の意味
2021/3/22:子どもの夢は会社員――「末は博士か大臣か」は死語
2021/2/15:雑談(126)パワポの「功罪」――アナログとデジタルの「間」
2021/1/11:雑談(125)音楽よもやま話(27)コロナ禍のコンサート――早稲フィル第83回定期演奏会のこと
2020/12/7:雑談(124)コロナ禍の雑感2題――対面とオンライン+笹子トンネル事故から8年
2020/11/16:菅義偉政権、「恣意」の支配――「シュタージ国家」への道
2020/11/2:核兵器禁止条約発効の意義―思考の怠惰を超えて
2020/10/26:欧州におけるコロナ危機――Go To トラブルの日本
2020/10/19:科学者が戦争に協力するとき――「科学技術非常動員」文書から見えるもの
2020/10/12:学問研究の自由の真正の危機――沈黙するなかれ
2020/10/5:日本学術会議6教授拒否事件――またもや違憲の解釈変更で?
2020/8/31:わが歴史グッズの話(47)「アベノグッズ」の店じまい
2020/8/24:コロナ禍の大学の授業――水島ゼミ23、24期生の活動から
2020/7/13:雑談(123)「140字の世界」との距離+親指シフト・キーボードの終わり?
2020/6/15:安倍晋三首相の国会嫌い――臨時国会召集義務違反を問う
2020/6/1:科学的根拠なき政治――議事録も記録も、そして記憶もない
2020/5/25:ネバー・エンディング無責任――遠隔授業をやりながら考える
2020/5/11:この国の「目詰まり」はどこにあるか――日独の指導者と専門家
2020/5/3:日本国憲法施行73周年――「コロナ便乗型改憲」へ
2020/4/27:中欧「コロナ危機」の現場から――ゼミ23期生のスロバキア報告
2020/2/17:「わが歴史グッズ」の現場――『早稲田学報』特集「教授の部屋」
2020/2/10:雑談(122)音楽よもやま話(26)早稲フィル創設40周年のこと
2020/1/27:公務員は「一部の奉仕者」ではない――「安倍ルール」が壊したもの
2019/12/9:『戦争とたたかう』ということ――久田栄正没後30年
2019/11/25:首相の「責任」の耐えがたい軽さ―モリ・カケ・ヤマ・アサ・サクラ
2019/10/28:>憲法9条と「日本の空の非常識」を語る――南京の旅(3・完)
2019/10/21:「虐殺」の現場を歩く――南京の旅(2)
2019/10/07:中国建国70周年の「風景」――南京の旅(1)
2019/7/15:逆走をいかに止めるか―憲法政治の「幽霊ドライバー」(その2)
2019/6/17:軍が民衆に発砲するとき――旧東独「6月17日事件」、「5.18光州事件」、「6.4天安門事件」、そして、香港
2019/6/3:激動のイスラエルとパレスチナを行く――ゼミ生の取材記(2・完)
2019/5/27:激動のイスラエルとパレスチナを行く――ゼミ生の取材記(1)
2019/4/22:なぜ、加計学園獣医学部にこだわるか――忘れてはならないこと
2019/4/15:雑談(119)「断捨離」と「終活」――「緑寿」を契機に
2019/3/25:女性参政権100年と日本の現実――「ねじれ解消」の解消へ
2019/3/11:「復興五輪」というフェイク――東日本大震災から8年
2019/2/4:雑談(118)今時の学生たち(3)――16021人の「法学」受講生
2018/12/24:教育デジタル化のために憲法改正――ドイツ基本法第63次改正の迷走
2018/11/19:「総理が「平成30年4月開学」とおしりを切った」から――歪められた行政の現場へ(その2)
2018/10/08:憲法政治の危機のなかで――今関源成『法による国家制限の理論』
2018/9/24:水島ゼミ沖縄合宿の20年――知事選下の沖縄へ
2018/9/3:雑談(117)音楽よもやま話(24)音楽における「帝王」?
2018/8/06:わが歴史グッズの話(44)番外編・グッズの可能性とリスク
2018/7/9:「ゆがめられた行政」の現場へ―獣医学部新設の「魔法」
2018/6/18:米朝首脳会談の先に見えるもの――東アジアの歴史的転換へ
2018/5/21:「安倍カラー」で空洞化する大学― ―入口から出口まで
2018/4/2:東日本大震災7年の福島と憲法――「帰還困難区域」にも
2018/3/26:「いくらなんでも」政権の終焉へ――首相の「責任」とは
2018/3/5:憲法改正のアベコベーション――「フェイク改憲」
2018/1/1:憲法存亡の年のはじめに――直言更新1110回
2017/11/27:『きみはサンダーバードを知っているか』発刊から25年
2017/10/16:憲法研究者に対する執拗な論難に答える(その1)――「9条加憲」と立憲主義
2017/7/24:「次期首相候補」だった2人の女性大臣と新手のリクルート施策
2017/6/26:大田昌秀氏を悼む――沖縄と憲法を問い続けて
2017/5/29:「全く問題ない」内閣官房長官――「介入と忖度」の演出
2017/5/22:安倍晋三トルクメニスタン大学名誉教授の改憲論と大学論
2017/5/1:「新たな戦前」なのか――日本国憲法施行70年
2017/4/17:「立憲主義からの逃走」――ドイツとトルコの大統領
2017/3/27:「構造的忖度」と「構造的口利き」――「構造汚職」の深層
2017/3/6:第96代内閣総理大臣の「恥ずかしい」政治言語
2017/2/27:「トランプゲート事件」と安倍政権――終わりの始まり?
2017/1/30:「無知の無知」の突破力――安倍流ダブルスピーク/a>
2016/12/12:カジノ賭博解禁法案の闇と影――この国に国会はないのか
2016/9/19:沖縄「高江」から見えるもの――それにもかかわらず(Trotz alledem)
2016/9/12:さようなら、ボン!(その2)――ドイツ基本法の故郷を歩く
2016/8/22:ペギーダの「月曜デモ」――「ベルリンの壁」崩壊から27年(1)
2016/7/18:「戦争に勝者はいない」ということ――ヴェルダンで考える
2016/4/18:難民問題が与えるさまざまな影響――ドイツからの「直言」(3)
2015/12/21:介入三昧・安倍的「国家先導主義」――賃上げから「就活」まで
2015/10/26:臨時国会のない秋――安倍内閣の憲法53条違反
2015/10/19:「賞」と「遺産」の季節に――「小さき人々」のこと
2015/9/28:2016年参院選へ――明文改憲へのシフト
2015/2/2:フランスの「1.7」は「9.11」なのか――「私はシャルリー」?
2015/1/19:雑談(109)「食」のはなし(18)ゼミ「おでん会」の10周年
2014/12/8:菅原文太さんのこと――久田栄正没後25年に
2014/11/10:「ベルリンの壁」崩壊から4分の1世紀――1年ゼミ生の視点
2014/11/3:安倍政権の「異次元の政策」――常に国民を置き去り
2014/9/15:オキナワと憲法研究者――沖縄の現場から(その3・完)
2014/9/1:抑止力は「ユクシ(嘘)力」――沖縄の現場から(その1)
2014/8/25:「徴兵制違憲」解釈の変更は「あり得ない」か
2014/6/9:大学を職業教育の場に?!――「傲慢無知」政権の大学政策
2014/6/2:学問の自由が危ない――広島大学で起きたことへの憲法的視点
2014/5/12:自己抑制を失った安倍政権――憲法施行67周年に
2014/5/5:「学長が最高責任者だ ! 」――学校教育法改正で変わる大学
2014/3/31:雑談(105)今時の学生たち(2)――大学に生徒会?
2014/2/10:安倍色に染まる日本――「ねじれ」解消の果てに
2013/12/23:雑談(103) サークル会長というお仕事――早大公法研究会
2013/7/01: 日本の「ハイテク・トイレ」―トイレの話(その2)
2013/6/3:『あたらしい憲法のはなし』からの卒業―立憲主義の定着に向けて(2)
2013/2/25:「アベコベーション」の日本――とりあえず憲法96条?
2013/02/11: 雑談(97)今時の学生について(1)――シルクロード一人旅
2013/1/2:還暦の年を迎えて――激動の2013年への抱負
2012/12/17:もう一つの「一票の軽さ」――総選挙終わる
2012/10/8:メディアは沖縄をどう伝えてきたか――普天間のオスプレイ(1)
2012/10/1:「学者商売」と「学者公害」――悩ましき現実
2012/9/17:権力者が芸術・文化に介入するとき――大阪市長と大阪フィル
2012/9/3:全周トラブル状況の日本――沖縄で考えたこと
2012/8/20:監視カメラは何を監視しているのか――「安全・安心社会」の盲点(1)
2012/7/2:「首相官邸前異状なし、報告すべき件なし」――テレビ報道の劣化
2012/2/6:雑談(91)「親指シフト・キーボードに再び栄光を」
2011/10/31:雑談(88)思索と検索――ネットからの自由?
2011/7/18:政治家の剽窃――ドイツでも政治不信が深刻
2011/3/14:変わる大学――学生=消費者「顧客満足度至上主義」
2010/8/2:「特別博士」の授与――改正臓器移植法施行の1週間目に
2010/6/28:税金について語るの「作法」――北野弘久先生のこと
2010/6/14:新聞の衰退は政治の腐敗の始まり?――「新聞をヨム日」
2009/12/28:大学と「世間」(その2)――大学「再生」への道
2009/12/21:大学と「世間」(その1)――本末転倒の風景
2009/12/14:雑談(76)音楽よもや話(13) WPOニューイヤー・コンサート
2009/11/16:「日米同盟の深化」でいいのか――ブッシュとオバマの来日
2006/10/30:「語り部の話は退屈だった」か――水島ゼミ沖縄2006夏
2006/10/9:雑談(54)学生たちへの言葉(その2・完)
2005/11/14:雑談(45)音楽よもや話(7)指揮者と教師、再論
2005/10/10:雑談(44)個人のコンピューター(PC)からの自由?
2005/9/12:台風下のゼミと「九十九島と九+九十九条」のこと
2005/3/21:雑談(40)音楽よもや話(5) WPOのこと(その1)
2002/6/10:わが歴史グッズの話(6)「アシアナから」
2002/1/28:雑談(15)「食」のはなし(3)もう一つの「超」勉強法